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『のだめカンタービレ』でクラシック再勉強【その7】

こんにちは!音大教育科卒のパクチーが、すっかり離れたクラシックを、漫画『のだめカンタービレ』の再読をきっかけに、再勉強するシリーズ、その7。


先日、プチぎっくり腰になりまして、4日間程、伏しておりました。伏している人間の共、音楽よ…。横になって聴くのが、一番良く集中して聴ける。でもいつの間にか寝ちゃうんですけど…。

今回は、のだめのパリでのサロンコンサートから。パリにいるのだめと千秋は、ただいま微妙な距離感になっておりまして、のだめは千秋に一発逆転をかけてコンサートに臨んでいました。しかし演奏が始まって、待てど暮らせど千秋は来ず。千秋は、会場へ向かう途中で、偶然出会ったヴェイラ先生のところへ行ってしまっていたのでした。


メンデルスゾーン 「無言歌集」より「甘い思い出」「紡ぎ歌」「胸騒ぎ」
Mendelssohn : Lieder ohne Worte Op.19b MWV U 86, Op.67 MWV U  182, Op.53 MWV U  144

夏に西仏の貴族のお城、ブノア城にて行ったリサイタルで、のだめの演奏をとても気に入ってくれた夫人がいました。そのパリのマダム主催の、サロンコンサート。のだめは2曲目にメンデルスゾーンを演奏する。

メンデルスゾーンの「無言歌集」は全部で8巻ある。そしてどの巻も、6曲ずつ収められている。8×6=42。副題はメンデルスゾーン自身が付けたものは5つしかなく、他は楽譜の出版社などが付けたらしい。

「甘い思い出」…第1巻、第1番
「紡ぎ歌」…第6巻、第4番
「胸騒ぎ」…第4巻、第3番

となっていますので、もし聴きたい人はご参考に。

「無言歌集」は初めてちゃんと聴いたけど、全巻、全曲、どれ聴いても…良いんだわ…!!当時からして演奏会ピースとして大人気だったらしいよ。サロン向けだわまさに。心を楽にして安心して聞けるのに、とても作品として精度が高く、なんつーんだろ。精神性が高い?んかな?なんだか神がかった神童だったらしいわ。一度聞いた曲は全部楽譜に書けるとか。ドイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語を話せたとか。でも、この方の曲、すごーく、オーソドックスな、「ザ・古典」って感じの、型を破ってないんだよね。同じ時代の作曲家と比べても、少し前の作曲家たちの方に近い。なんだけど、その型があるのに、全然不自由じゃない。あちこち自由に飛び回って、広がって、何か…とても高位な感じがする…純粋というか…エゴがないというか…。天才だから、チャネリングして、ダウンロードして書いてたのか…?

でも、どうしてか、あんまり弾きたい気持ちにならない…笑。聴くのが幸せ笑。わたしの品位が低いのか?


ショパン 幻想ポロネーズ
Chopin : Polonaise No.7 Op.61 "Polonaise-Fantasie"

のだめのサロンコンサート、続きまして「幻想ポロネーズ」。弾いていると、レッスンでマスターヨーダ(オクレール先生)に言われたことを思い出して…「なんか君みたい」「ころころ変わって曖昧」「気分で変わる」「短調長調行ったり来たり」…一瞬のだめが怖い顔になってます。弾いてると、その時言われた事を思い出す…ってよくある。この曲で一旦休憩、オーディエンスの反応は上々。

ポロネーズは本来、ショパンの出身国ポーランドのダンスミュージックですが、大元は貴族の行進曲だったのだそう。刻んだリズムがかっこいい、ゆっくりした3拍子の音楽です。「幻想ポロネーズ」は殆どポロネーズの形が崩れていますが、それでも1拍目が「トントト」と刻むリズムは随所に現れます。テンポがねえ…ショパンは、何と言うんだろ、いつでもどこでも自在に早くなったり遅くなったり、まるで喋るみたいに、気持ちの上下に合わせて速度が変わる。オクレール先生の言う通り、出てくるモチーフの温度感がふわっ、ふわっと全然別のものに、次、次、と自在に切り替わっていく。その自在性に合わせて、テンポも1、2、3拍で、いつもどれかが伸びたり縮んだりする…のに楽譜にはそんなこと一切書いていない。楽譜通りに弾いても「幻想ポロネーズ」にならない。楽譜通りに弾いたその先に、見えない虚空の中に、カタチの無い「幻想ポロネーズ」を捕まえなくてはならない…!そこが一番、パクチーにとっては難しい…。あ、そもそも弾けないんですけど、この曲。


リスト 「2つの伝説」より「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」
Liszt : 2 Légendes "St François d'Assise : La prédication aux oiseaux", S.175

夏にブノア城で弾いたリストの「2つの伝説」、ブノア城では「水の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」、今回はもう一方の「伝説」です。

小鳥たちがちゅんちゅん言いまくってるところに、聖フランチェスコが現れ、お話をする。アッシジの聖フランチェスコは12世紀に実在した人物で、動物にも、神が作った自分たちの兄弟として説話をしたというお話が結構たくさんあるらしい。中間部、ユニゾンのメロディーで聖フランチェスコのお話が表現されて、ちゅちゅん!と毎度相槌を打つ小鳥たち。お金持ちの家に生まれたが、「ただで受け取ったものは、ただで与えなさい」、無一物で公に尽くすことに細心した彼が、没して絢爛豪華な大聖堂に埋葬されたのは、なんだか思い切れないものがあるな…。アメリカのサンフランシスコは、彼の名前であるそうな。ちなみにパオラの聖フランチェスコは別人らしい。


アルベニス イベリア組曲第1巻
Albéniz : Iberia Book1

のだめのサロン・リサイタルの終曲。以前にはスペインの作曲家はサラサーテが既出ですが、『のだめ』の中では割合レアな、スペイン人の作曲家。ドビュッシーがこの組曲を絶賛してるのですが、アルベニスは、スペインらしい旋法とリズムを使いながら、全体的にはドビュッシーのような色彩と透明感のある響きが覆っていて、「イベリア」はそのバランスが特に!素晴らしい。

イベリア組曲は3曲組で1セット、それが全部で4巻ある。3×4=12。あの…12曲全部素晴らしいです…。気付くと寝てる…(オイ)。わし、こういう小品ぽいの、好きなんだな〜。なんか、どれも曲の終止にすごい個性があるのね。スペインの作曲家のピアノ曲には、ギターの響きを模した表現がよくある。実際にギターで演奏されるアレンジバージョンもあって、音色がギターの倍音に変わるだけで、スペイン度がギュ〜っと上がる〜!うわ〜!オーレ!!切ない〜!アンダルシア〜!

のだめ、リサイタルを終えてひとり帰路へ着く。自宅に戻ると、そこには滞って荒れた日常と、いかにも庶民的である実家からの留守電の録音。華やかなサロンの高尚な芸術世界から、九州の田舎の娘に一転…。このコントラストの描き方、えぐいですね〜!!

「ギャボン」と言わせるために「千秋断ち」をして、飢餓感を動力に邁進していたのが、演奏が終わって、夫人に「楽しい?」と訊かれてしまう。必死さと、ゆとりの無い荒れた精神が、わずかかもしれませんが、音楽に出てしまっていたのかもしれません…!千秋は会場に来なかったので、結果「ギャボン」と言わせることも出来ず、次につながるようなお客様やパトロンにも巡り会えず…。のだめが狙っていた獲物は獲得出来ずに終わる…。切ない…!


マーラー 交響曲第2番
Mahler : Symphony No.2

のだめのコンサートをドタキャンした千秋は、のだめの部屋に直行して、どストレートに謝罪します。「のだめさん………」「すみませんでした」。「恵」でもなく「のだめ」でもなく、「のだめさん」なのが、きゅん!!ときますね!!!!千秋が、ヴェイラ先生の振る巨匠リッピの追悼公演に、のだめを誘います。

全5楽章で、終楽章に合唱がつく。正直に言って、全く聴いたこと無いんです、マーラー…。クラシックファンの人に、作曲家で一番好きなのが「マーラーです!」って言われると、もう、謝って帰りたくなる。いやあ完敗だよぉ。あんたの勝ちさぁ。音大出でマーラー知らないあたいと、あんた、話したって価値無いさぁ。と、毎回自己ツッコミして、そのまま忘れるマーラー。

満を辞して、聴く…!!こ、こ、これは…!こんだけ長くて、どこを切っても、何も新しく無い…!!どこに良さがあるのか分からん…!!!しかし、5楽章で歌が出てきた瞬間、ざわっと鳥肌が立った。気を衒ってない、どこも技巧的で無い「人の声」がシンプルに響いて、実に完璧に美しい、そのままの響きで人間の声が完璧に美しいことを証明するための、4楽章分の凡庸さだったか…!(←失礼すぎる)。しかし、わたしの趣味では無いが、自分の好きなフレーズを、好きなだけ何十分分も並べて、好きなだけ楽器も使って(私財を投資してでも)、そういうことを素直にやってしまえる、心の純粋さみたいなもののある人だったんだろうな、と、思った(←やはり失礼)。純真。金で買えない。

「オレは毎日ただ必死に踠いてる」「はじめてのだめに悪いと思った」。千秋は、今後はイタリアにも勉強しに行くことを決め、Ruiとも共演もする。それもこれも、のだめに悪いと思っている。「先輩のバカ……」「全部……仕方ないことじゃないデスか」。のだめの音楽の庇護者の役割を果たせるのは自分だけだと思ってるのに、千秋は、自分の成長だけで精一杯で、そうするだけの余裕がないことに自分で気付いてしまう。

このシーンで書かれている、マーラーの「おまえが憧れていた物、愛した物、闘い得た物は すべておまえのものなのだ」という歌詞と、漫画のストーリーのリンクが素晴らしいです…。「リッピからヴェイラ先生に」「ヴェイラ先生はオレに」「そしてオレは──」。千秋の隣で感極まって椅子の中に沈んでいるのだめを、千秋が、超優しそうに見ているんスよ…。

「こうやっていろいろなものを見て」「感じて」「そうだ」「一緒に───」。

千秋の父親は、自分が音楽のことで精一杯の時、子供とふたりにされたら「うっとうしい」と言って、逃げてしまった人なんですね。でも、千秋は、自分が「憧れていた物、愛した物、闘い得た物」は、自分から無くならないし、自分がそうされたように、のだめへ渡して行こう、と。そして、自分から「うっとうしい」ものを排他して、急いでストイックに成長しようとするのじゃなく、自分が余裕を持って優位にあり続けなければいけないのじゃなく、庇護すべきだと思っていたのだめと、一緒に、同じ目線に立って、同じ経験をしながら、お互いの中に生まれたものを、渡し合ったって良いのだ、と考える。

合理性だけではどうしても育みきれないものを、どういう方法で、自分の中に育てていけるか。

…もう、ここで、お父さんのことを、乗り越えてるよおうおういおうおう(涙)


イザイ 無伴奏ヴァイオリンソナタ第6番
Ysaÿe  : 6 Sonatas for Solo Violin No.6 Op.27

パリで行われるカントナ国際コンクールに、ヴァイオリンの三木清良が出場する。その1次予選の曲。ウィーンに留学中の清良は、千秋が日本で作ったオーケストラ「ライジング・スター・オーケストラ」の発起人で、コンミスでもあった。ここのところのコンクールであまり調子の良くない清良。良い成績を残して、日本に帰りたいと思っている。

イザイは初めて聴きました。ベルギーの作曲家だそう。ヴァイオリニストとしても、指揮者としても活躍し、ヴァイオリンの曲が良く知られている。無伴奏ヴァイオリンソナタは全部で6番まであり、音楽的にも技術的にも高度であることから、ヴァイオリンコンクールの課題曲に採用されることも多いのだとか。

無伴奏ヴァイオリンソナタはバッハが有名なのですが、彼もバッハを意識して書いたのだそう。でもバッハが器楽的に作曲していたことに比べると、作りがまるきり違う…。聴いてると、「ヴァイオリンって…一体どういう楽器なんだ、謎…!!」。わたしは自分がやっていた楽器がピアノだから、よりそう思うのだと思うけど、言うてもピアノは、打楽器の一種だから、赤ん坊でも音が出せる。しかしヴァイオリンは全て、音程もリズムも、「こする」という動作に変換して作るので、頭の中に音楽が完全にイメージ出来ていないと、何も起こせない。特にこんな無伴奏では、体内の明確なイメージが全てだ。まるで、地面も壁もない迷路のよう…。…謎!!すごい楽器だなあ!!ピアノは、結構楽器が助けてくれるし、音程の悪さとか、そういうの無いからさ…。


バッハ 平均律クラヴィーア第1巻22番
Bach : The Well-Tempered Clavier, Book1, Prelude and Fugue, BWV 867

のだめと同じアパートに住むターニャも、清良のと同じカントナ国際コンクールの、ピアノ部門に出場します。口に出しては言わないが、のだめたちに触発されてらしい。1年次は試験でアッセ・ビアン(「良」と「可」の間って感じか)を取ってしまい、以降もさほど熱心にピアノに打ち込む様子はなかったが、友人たちの音楽に触れることで、ひとりきりでピアノに対峙していた時の苦しさとはまた違った面を、音楽に見つけることが出来たようだ。今年で卒業のターニャ。良い結果を残して奨学金を貰い、どうにか大学に残りたい。…ターニャは、言うても若いからね、急にぐんと、変わる事は全然ある!

同じアパートに住むフランクが客席で見守り、「ロシアの雪が見えるよ」と言ってますが、確かにそういう、静かな「冬」の感じがします。淡々と、ずっーと同じ音形が続くプレリュード。シンプルなメロディーが繰り返されながら重なっていく、美しいフーガ。ターニャが練習しながら白昼夢を見たのはこの曲なのかもしれません。「こんな所には居たくない」「こんな寒い所には」。家族に期待され、ピアノに打ち込む姿は、周囲の同級生からすれば滑稽で、同じ目線では一緒に遊べないかもしれない。幼少期から音大に進むことを決めている子供は、多かれ少なかれ、遊びを制限されたり、遊ぶ時間を制限されたり、と、そんなところで共通の記憶があるかもしれません。


ショパン バラード第4番
Chopin : Ballade No.4 Op.52

ターニャの1次予選、2曲目。うーん!難曲です!難曲ですよね!?ショパンのバラードは、「ショパンのバラ1」とか「バラ2」とか言ってた気がする…気がするだけかな…?記憶が曖昧、おいら弾いてないしな…。

ショパンは、すいっすいっと転調していくのの、転調し具合が本当に、すかっと気持ちが良いですね。どうということのないメロディーなのですが、それが変奏曲のように繰り返されていくうちに、段々込み入って来て…え、え、これどうなってそうなってんの、で、一度クライマックスを迎えて(ここ、超カッコいい)、終止します…と、思いきや、どどーんと!ぐるぐると!楽譜見てんのに全然どこ弾いてるか分かんねーーー!!ってなってる間に終わります。あれよあれよ。円熟期の作品です。技が…細かい!髄まで凝らされている!これは…大曲!


バッハ 平均律クラヴィーア第2巻4番
Bach : The Well-Tempered Clavier, Book2, Prelude and Fugue, BWV 873

のだめやターニャと同じアパートに住むユンロンも、同じくカントナ国際コンクールに出場します。彼の1次予選の1曲目。中国人のユンロンくんは、普段は歯に衣着せぬ物言いでズバズバ言うんだが、本番のプレッシャーには非常に弱いらしい。ステージに上がると、一番前列の客席に、のだめ、フランク、日本から来た峰がいる。内心突っ込みつつ、お馴染みの面子のお陰で平常心を取り戻すユンロン。

実際、客席の前列は、舞台の照明のせいでよく顔が見える。「フツー最前列に座るか!?」とユンロンが心の中で言ってるが、フツー座らない…。目が合っちゃうくらいの距離。舞台の照明って、ものすごく明るくて、この明るさがねー!非日常なんだよねー!ピアノの鍵盤の見え方もかなり違うので、本番の時だけにある視覚的な違和感って、結構大きいんだよなー!大学当時、ピアノの発表会の楽屋で、緊張するだのしないだのきゃいきゃい言っている時、友人の一人が、「ピアノ科の友達が言ってたけど、その子は緊張しないんだって!」と言った。その友達は、「一番最初の音を、どう出すかに集中しているから、緊張している間がない」と言ったらしい。さすが…関心事のレベルが違う…と、教育科の皆んなで関心したのだった…。

曲に関して言えば、トリルが多いプレリュード。そしてフーガは指がとても柔らかくなきゃ弾けなさそう。


ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第17番
Beethoven : Sonata No.17 Op.31

ユンロンの弾く、2曲目。「テンペスト」の副題が付いているソナタ。

ベートーヴェンが、「掴みの天才」だという話は【その1】で既出なんですが、改めて、彼、「コンセプトの天才」でもある!と…。良いコンセプトを立てて、コンセプトで縛りを付けることで、作品の強度を上げるということは、現代において、ひっじょ〜〜〜に、あちらこちらの界隈で見受けられる手法です。その、コンセプトを作る段階からして、天才やな、ほんま…と。特に3楽章は、短い同じ音形の繰り返しだけで、ほぼ全部が書かれている、わたし3楽章大っ好きなんですけど、コンセプトの勝利です…。んで、曲もむっちゃ良いじゃん…?…大優勝。


ショパン スケルツォ第1番
Chopin : Scherzo No.1 Op.20

ユンロンの弾く、3曲目。テンペストの勢いで指が空回りしてしまって、焦ったまま、うまく立て直せず、結局そのまま終わってしまったユンロン。弾き出す前から、「あと一曲…」「なんだっけ」ってなってるとこからして、怪しいフラグが…!そこで、深呼吸しなきゃダメよ、ユンロン!そして、ユンロンはここで落ちてしまうのだった。

ガラスがケシャーン!と割れたような、床に何か叩きつけたような、そんな和音から始まる。ショパンが、音楽の「効果としての音の使い方」という発明をしたんじゃないか、とわたしが思っていることをかつて書いた(【その1】)。西洋音楽は「メロディーとハーモニー」に特化して進化した音楽だ。ショパンは、「メロディーと伴奏」で成り立たせている音楽をいくらでも書いているが、スケルツォでショパンはメロディーを消した。まるで太いヤツデが高速でのたくってるような音のかたまりで、足がばらばらに動くみたいに、それでもって一種の効果、ある印象を生み出そうとしているところに、この曲の特徴があると思った。途中、「メロディーと伴奏」で構成する美しいパートが現れ、その部分のメロディーは割合オーソドックスである。が、「それは近いうちに打ち破られるのだろうな〜…」という不安の波の上に浮かぶ、まるで湖面の月…。ショパンのスケルツォは全部で4曲。聴衆に対する、僅かかもしれないが悪意。人間の欺瞞や建前に対する、あるいは人間そのものに対する、怒り、そのことで彼が受けた傷。どのスケルツォも途中、中間部のメロディーが、本当に本当に美しくて(これだけで1曲にしてほしいくらい)、だからこそこれが、ショパンのマジもんの怒りだと分かるのに、そういうのも全部ひっくるめて、「諧謔曲なんだよ」と。スケルツォはイタリア語で「冗談」。痛いのに、それをピアノに転換して癒しを見つけようとして、4番目のスケルツォに向かって深刻になっていく、なお癒されきれない深いところの傷。

そういうショパンの人間性というか、いつかパリにいた痩身の男性の、プライドを感じました。


サンサーンス ヴァイオリンソナタ第1番
Saint-Saëns : Violin Sonata No.1 Op.75

ヴァイオリンの三木清良が、2次予選で演奏する曲。清良に黙って日本からやって来た恋人の峰も、客席で聴いている。

サン=サーンスは、「次こうなるだろう」という予測を踏み越えない、きれいな展開をする。つまり自然で、違和感がない。どの演奏家のヴァイオリンの録音を聴いても、フェアリー的な、きれいな透明感のある音色の倍音で演奏していた。つまり、音量的に繊細な表現をしている。なので、ピアノは、ヴァイオリンを生かすために、クライマックスでもなかり音量を落とした中で音楽的表現をしていて…。ぴったり凹凸を合わせて寄り添って…、そして違和感のあることの起きない、その感じが、…なんか…エロい!!エロいんだが?!これをエロいと表現する、わたしの頭がおかしいのかな?!


ショパン 12の練習曲 作品25 第11番
Chopin : Étude op.25 No. 11

ターニャは1次予選を通過。2次予選で演奏する1曲目が、ショパンのエチュード、副題「木枯らし」。ユンロンにターニャの演奏を聴くように勧められた千秋が、黒木くんを誘って観覧に行きます。

誰が付けた副題か知らないが、「木枯らし」、激しすぎて、木枯らしどころか、木が根元からこそげて吹き飛びそうな勢いの、これは大嵐でしょう。Wikiで見たら、冒頭の4小節は友人の勧めで付けたらしいが、付けて大正解だよね。「木枯らしが弾ける」と言うと、「おお〜ピアノ科の人っぽい〜」という感じがします。うん。…以上です。


ドビュッシー 「ピアノのための12の練習曲」より「組み合わされたアルペッジョのための」
Debussy : 12 Études pour piano, No.11 "Pour les arpèges composés"

ターニャの2曲目。ドビュッシーの「ピアノのための12の練習曲」は、第7番が【その5】で既出です。

ドビュッシーはその作品の特徴とか、色々あると思うんですけど、後世の作曲かへの偉大な影響とか、しかし、わたしはドビュッシーがしょっちゅう使う「好みのパターン」が割合好きであるために、実は、飽きてしまう傾向にある。でもこの曲を聴いて、「ドビュッシーの最高に秀逸な部分は、何と言おうとペダリングにあり…!!!!!」という気持ちになりました。ドビュッシーがどういうペダリングをしていたか、実際に分かる方法はない。ないが、どうもそういう気がする。ピアノは、ただ演奏するだけの楽器じゃない、鍵盤、だけじゃない。ペダルを踏むと、「ダンパー」と言う全ての弦のストッパーが上がる。そうすると、何も抑えがない状態の全音分の弦が、共振する状態になる。そういう、共振するハコみたいな扱い方。例えばペダルを踏んでダンパーが上がった状態で、「ド」の音を弾くと、その「ド」以外の上の「ド」と下の「ド」の弦がわずかに共振する。そしてさらに「ド」の倍音にあたる音の弦も共振する。そういう、「ド」にリンクした音の螺旋の世界が、うっすらと立ち上がる、そういう音空間を、彼は曲の中心に積極的に使ってる、そういう曲作りだったんじゃないか…。そういう作りをする作曲家という意味で、一線を画す天才だったんじゃないか…。だから前提として、良く調律された、音響の良い空間で弾く、ってのが、ドビュッシーの醍醐味を味わうのに必須条件かもしれんね、うちのピアノじゃなく…。



ということで、今回はコンクールがあった回だったので、器楽曲ばかりでしたね。わたしはとても楽しかったです。今回、また新たに楽曲に対して理解が深まった感じがします。なんか、何を聴いてどう感じるか、作曲家って何なのか、何のために作曲しているのか、解像度が上がったような…。


それではまだまだ続きます!




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