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BTS「Film out」とアジアンヘイトに関する声明の向こう側

こんにちは。パクチーです。お元気ですか。

BTSが3月30日にTwitter にて公開した、#StopAsianHate、#StopAAPIHateのタグのついたメッセージ。それを見た時わたしは、なんというか…。どきどきしたし、ぞわぞわしたし、はらはらしたし、ぎ、ぎ、ぎぁーーーと叫び出したい気持ちでいっぱいだった、実は。そして、知っていた、欧米社会でアジア人が差別されているのを知っていた、けれどそれについて特に思考しようとしてこなかったことを突きつけられたような、彼らの声明によってそれがあからさまになってしまったような、ぎぁーーーは、恥、の気持ちだった。そして彼らが、この問題の当事者であると熟考の上表明してしまったことについて、恐ろしくもあった。

AAPIがなんのことか分からず、「アジア・太平洋諸島系米国人」で、「あ、アメリカ人のことなのね」と分かったときに少しホッとしてしまったのは、Black Lives Matter運動と同様、「(日本の田舎の島に住んでる)自分とは関係のないお話だったか…」のホッ、だったし、こちらのnote(「アジア人に対するヘイトクライム:本当の敵は誰?」)を読んで知ることができたのは、「わたしが知り得ることの周りに圧倒的膨大な量の、どんなに時間をかけても知り得ないことが存在する」というところで、ふたたびホッとなってしまって、ふぅ…。これは無理だ。当事者の気持ちを想像しようと試みることはできても、分からない。要約したり、概要を記述したり、わたし自身が何かを理解したりすることは可能ではない。そういう事柄だということは、少なくとも理解した。少なくともそういう問題であると分かったことには意味があった。そしてそのこととは別に、このトピックについて少々追う中で、多少の疑惑も感じた。また、この声明には、ある韓国の若者が世界に対して正しさを表現することの他に、いくつもの意味が隠されているようにも思われた。

しかし、けれども、わたしはシンプルに考え直したよ。

彼らがこの声明を出したことの重要な点は、今後彼らに対して、アジア人だからという理由で「理由もなく罵声を浴びせられたり、容姿を馬鹿にされた」り、「なぜアジア人が英語で話すのかと聞かれた」場合に、「あなたがわたしたちにしている評価を、わたしたちは適切だと受け入れないだろう」と、「stand」、対等に対峙します、つまり「笑って受け流さないよ」という宣言に聞こえることである。アジア人がヘイトクライムを耐えて受け流してきた歴史に、問題を明るみに出さなかった一因があるとしたら、今から自分たちはその一因を転換する、いずれ人々が、豊かで平和な地球を実現するとして、どこかの段階でわたしたちは人を差別する心と決別しなくてはならない。人々が人を差別する心を解決している状態へ向けて、具体的に一歩進めるために、BTSは「あなたとわたしは共に等しく尊重される存在だ」ということを明示し続けますよ、と表明しているように聞こえるのである。このことはパクチーが彼らの声明から受け取った憶測であるから、彼らが実際にどう行動するかは分からない。しかし、もしそう実行しようとするならば、相当に覚悟と胆力が要るはずである。

わたしは図らずもプレイリストに入っていたBTSのラップラインの歌を聞いていた。彼らは最初から怒っていた、魂の自由さを抑圧する社会の構造に対して、大人が作った既成概念に対して、怒り、アンチズムを持っていた。そして今も同じ怒りを、彼らは既存の、自由な魂を抑圧する既成概念を、存在そのものを無条件に否定し、理不尽に痛みを与える概念について、悲しみ、変わらず、その信念でもってNOと言ったのだった。ユニセフのキャンペーンのアナウンスメントで「周りの人の泣く姿や、作り笑いよりは、心から笑う姿が見たい」、そして「多くの方々が一緒だという信頼を持って、皆と一緒にあたたかく過ごせる世界が早く来てほしい」と語った、彼らは、自身が語ったビジョンを現実のものにするために、ただ、真剣に、誠実に、出来ることから具体的に行動しているだけだった。

人々に差別の心が起こる原因を取り除こうと思ったら、それは大変困難で複雑極まる道のりに思われる。人の数だけ存在するその原因を問題だと設定したら、その道のりを完遂するのは不可能なことのように思われる。しかし前述紹介したnoteに書かれていた、異文化コミュニティ同士が共に力を合わせている現行が存在するという事実には、そこに存在するポジティビティには、やはり全てを解決するヒントが含まれているように思われて、それが内包する力について、わたしは泣いたし、希望を感じた。そこに存在するものは、愛と言い換えることもできる。

さて、BTSの日本語の楽曲、「Film out」に続ける。

パクチーはこの曲、歌詞を聞いている分にはそういう風に思わななかったのだけど、失恋の歌かと思っていたけれど、MVを見ているうちにものすごく強く「死」を感じた。これはパクチーの個人的な感じ方なので、あんまり重たい話されても嫌だわ…、という方にはごめんなさい…。そしてとても偏った見方なのかなあと思うので、気にならない方だけ先を読んでちょ。

パクチーが強く死を感じるBTSの曲は、他に「Spring Day」と「Jamais Vu」がある。そして「Film out」には、「Spring Day」に感じたのと同じ、この曲の目的に「リトリーバル(=魂の救済)」が設定されているように感じるのである。

「ヘミシンク」という、学問というか、理論体系というか…というものがあり、パクチーはこれを、ネットで知識として「そういうものがある」としか知らないのだが、「人にそういう能力はあって、可能だろう」と、感覚的には実感のある、ヘミシンクとは、パクチーがざっと要約するならば、精神が知覚できる範囲を可能な限り広げていく、学問のような、メソッドのような、トレーニングのようなものだと言えるだろうか。このトレーニングを深めていく過程で、副次的に「リトリーバル」ということが可能になるらしい。

あまりに深く傷つき、蹂躙された魂が、その重さで肉体を離れても留まっていることがあるという。あるいは予測し得なかった急すぎる死のために、自分が死んだことを知らないまま、時間のない場所に留まったままでいることがあるらしい。魂がその回の人生で体験したさまざまな記憶、楽しかった記憶、辛い記憶、繰り返しその記憶を体験し、他に行き場はなく、永遠にその体験の中に閉ざされて過ごす。

リトリーバルとは、生きているわたしたちが、その場所に向かい、亡くなった人の魂と接触し、その魂を光の方向へと誘導することである。サイクルから外れてしまった魂があるべき場所に戻ることが出来たなら、その魂は光のある場所で適切に、十分癒され、憩い、休息し、楽しみ、望むならば次の肉体に移行する。この行為がある程度の専門性と自己をプロテクトする能力を必要とすることは想像されると思う。興味のある方はパクチーの説明に依らずきちんと学ばれて欲しい。

これはパクチーの解釈で、「Film out」の二次創作のように思ってもらって構わないのですが、冒頭、主人不在の、家具に布がかけられた部屋があり、ジンくんが演じるのは、過去に亡くなっているその部屋の住人の魂であるように思えた。彼は苦しみを味わい耐えてきた世界に留まっている。メンバーたちはジンくん演じる亡くなった彼について、彼が耐えてきた痛みを想像して、彼の魂を救済する必要を感じている。

涙の量計れるなら 随分遅ればせながら
やっと君のとなりまで 追い付いて
見つけた

(「Film out」より)

亡くなった人は歳を取らない。ジンくん演じる誰かが生きている間に感じてきた、大きすぎる苦しみ、流した涙の量、彼が経験した程の苦しみを自分は感じてこなかったけれど、彼の死後、さまざまな辛さを体験してきた今、彼の魂が負ったものを本当に理解できる場所までたどり着いた。荒野にゲートがぽつんとある。黄色に染まった空間がある。これが生者から見た、亡くなった魂にアクセスする過程ではないかと考える。家具に布のかけられた部屋、メンバーたちが居て、消えた部屋、爆風に晒されるこの両方の部屋が、亡くなった魂が見ている、どこにもつながらないサイクルから外れた世界なのではないか。

「Film out」のMVが「Fake Love」のMVと類似していることが指摘されていた。改めて「Fake Love」のMVを見て、このビデオもリトリーバルを表現しているように見えて、辛くてしようがなかった。「save me」のメッセージの残された、持ち主を失ったスマートフォンほど、やるせなさを感じさせるものはない。ある人について、亡くなっている時点で、その回の生には救いがなかったのだ、その救いがなかった人生が魂の状態になってなお救われないとき、リトリーバルという行為は、生者にとってさえ、なんと希望のあるアイデアであろうかとわたしには思われた。行き場のない、時間のない空間から魂が解放され、それまで留められていた空間が壊れることで、どちらのMVでもリトリーバルの完了を表現している、特に「Film out」では、青色の空間へ、ジンくん演じる誰かに皆が付き添っているのは、メンバーたちが「彼」をあるべき場所へ誘導できたことを表現しているのではないか。というのが、今回のビデオからわたしが想起したことである。

「Fake Love」について、さまざまな媒体でこのビデオのコンセプトがわたしが感じているようではない、ということをわたしは知っているのだが、公式に公開されているタイムリープという非現実的な設定が、リトリーバルの暗喩であると考える余地はありそうに思えた。

リトリーバルを実現する際において一番重要なのは、誘導する側の生者が、愛について、適切十分な理解がある、というところにある。そしてまた、人々が持つ差別の心に正対できるのも「Love Yourself」の完全に理解されたマインドである。魂の価値が理解されていること、そのひとつひとつの唯一性、そうでありながらわたしたちの魂は、ある一つのソースから生まれている、もとは一つのものだったのに、他者を一方的に踏みにじる時、その踏みにじられているものは本当は自分自身なのに、共感能力を閉じ、目の前にそこに確かにある魂に対して、完全に自分を絶縁しているからこそ一方的に蹂躙することを選択できる、そんな意識にすら、その人の魂そのものの存在を肯定しようとする心。それがこれからわたしたちが進もうとしている世界だ。

圧倒的な暴力、理不尽さに、恐怖と絶望と苦痛だけに包まれて亡くなった人の魂にリトリーバルが必要だとして、それが可能なのはわたしたちはどこかで、皆つながっていて、それが苦しいということが分かるからだ。そしてそれは今現在、生きて現在進行形で苦痛を味わっている、地上の生身の人間に対しても同じである。わたしたちが助け合って、生きていくのである、人々が今より少しでも、少しだけ、苦痛を感じないで生きていけるように。少しでも魂に消えない傷を付けなくて済むように。

もしも世界が、BTSが格好良くて可愛いくて、ファンたちをきゅんとさせる、歌って踊るアイコンであるとだけ思っていたら、それは大間違いなんだぜ、と、そんなことを強く感じたここ数日だった。わたしは決して、彼らがヘミシンクを、その概念に則って習熟していると言いたいわけではなく、リトリーバルに違いないと言いたいわけでもなく、わたしが今回の彼らのメッセージに冷やっとしたのは、ただアイドルの若者が、学生の標語のポスターよろしく正しい言葉を言い放ったのとは訳が違って、それくらいのことを可能にする深い愛と精神性を、彼らが行使した、という、そのパワーについてビビったのであった。それぞれの魂の本質が、価値が付けられないという意味で等価であることを分かっている、人種の問題について、自分たちの言葉で語ることができる段階に到達している、BTSとは、単なるアイコンではなく、世界に対して一定の影響力を持った、深い精神性のある青年実業家であり、青年資産家の集団である、そんなことをまざまざと感じさせられた、パクチーにとってはここ数日であった。




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