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晴れのち雨、ときどきジンくん

 空き地に山盛りの花、花、順繰りに百花が咲き、朽ち、咲き、朽ち、虫たちが蠢き、蜂が飛び、柑橘が蕾をつける。西にある島。雨が降って、しっとりしたネロリの香りに島が包まれる、そのうっとりする甘い香り。
 子供が育っていく過程で、わたしは何度も何度も幼い自分と再会した。すっかり忘れていた、折り紙が好きだったこと、あやとりが好きだったこと、外で遊ぶのが好きだったこと、塗り絵が好きだったこと、秘密基地が好きだったこと、友達と遊ぶのが好きだったこと。春。彼女が小学生になって、わたしの心配をよそに、わたしのトラウマをよそに、とっても楽しいらしい、学校が。彼女を小学生たらしめるための母親に課せられたタスクの数々に、それはもう必死で、プレッシャーで、苦痛で、自己肯定感下がりまくりで、ストレスで、ストレスが胃腸にきて、何を食べても腹痛になって、仕事に支障がでて、そしてすっかり、本当にすっかり忘れていた、わたしは、学校が大好きだった、先生が大好きだった、勉強が本当に好きだったことを。
 三つ子の魂百まで。この世はまったくその通りなのか?!と思えたのは、生まれた子供が少し大きくなった頃だった。自分がどんどん、子供に戻っている。子供の頃の感性に戻っている。取り戻してる?幼稚園児の時、思ったことをそのまま口にして、幼稚園のお友達のお姉ちゃんに、「〇〇ちゃんのお姉ちゃんって、ぶたみたいだね!」と言って、社長令嬢だったそのお宅を出禁になったこと。当時のわたしが悪気も悪意もなく、広い応接間にかかったものすごく大きな壁一面の肖像画に描かれたおじさんと、鼻が上向きだったのがお姉ちゃんと少し似ていて、何かを発見したような、得意な気持ちだったこと。やがて好きだったもの全部、子供の頃好きだったようには純粋に楽しめず、上手くやること、整っていること、気に入られるように作ることをを自分に課し始め、単純な喜びから離れていく。捻れていく。感覚を狂わせていく。客観視していく。楽しめなくなっていく。そののち、上手くやることを諦める。他人から見た価値基準の視点を外していく。捨てていく。そこに価値を見出すことを止める。そして見出す、もとの形、わたしが、わたしの子供の頃の脳みそが最初に出会った時の形を思い出す。もう一度出会い直す。先入観なくそのものを見ていた自分と。それを単純に好きで喜びを感じていた、その気持ちと。ああ、全然好きだ。変わらず楽しい。わたしはこれが好きだ。わたしは今、体も脳も喜んでいる。わたしの魂、3才のときにあったものを失わずに、変えずに、残っていた。

 カイロプラクティックの先生に「ごりごりですね」と言われた迷走神経のあたりを緩めてもらって胃腸は良くなったようだった、ガレージバーベキューに誘われて、半日炭火で焼いたお肉を食べ続ける。半日喋り続け、家に帰ったらほうれい線がいい感じで消えていた。表情筋を使ったからか…マスク…マスクの中では、いつも自分の頬が力なく下がっているのを感じる。あれは表情筋をどんどん使わなくなるね。そして戸板を流れる水のように、島の人から実に自然にさらさら流れ出る人の悪口と、にわか雨と、肉の焼ける匂いに、わたしは包まれていた。

 わたしは楽しい?どうして自分はここにいることを選んだんだろう?

 どうして…と考えた時、その理由に相応しい言葉が降りてきた。ここにいる人たち。「いい人になろうともしていない」。悪気はない。ただ感じたままを言っているだけ。悪口を言っているつもりもない。ああ、これじゃ子供のわたしが友達のお姉ちゃんに言ってしまったことと同じだ。それがもとで人を傷つけもする。交友関係を失いもする。しかし「いい人」を目指そうともしてないし、「いい人」であろうともしていない。それがその人のそのままだった。自然体。そしてジンくんのことを考えた。

 Pinterestでわたしがジンくんの画像ばかりをSaveしてしまうようになる以前、わたしはジンくんが、今何をしても目で追ってしまうジンくんが、最もBTSのメンバーの中で好みから遠かった。特にジンくんのアイドルらしい格好良さと可愛さの中間を保つ立ち居振る舞いと、甘いトーンの歌声は苦手意識さえあったと言っていい。わたしは実生活でイケメンが怖かった。苦手だった。ちなみに今はイケメンが怖かった時の自分を思い出せません。イケメンは有難い天からのギフトのように思っています、もし実生活で目の前に現れたら心の中で感謝を捧げます、わたしは悔い改めたのであります。

 BTSのみんなが大好きで、みんなのあり方が、それぞれがそれぞれのようにいることが大好きだったのに、その中でジンくんだけが、なぜ、比重が重くなってしまったのだろう。いつからだろう…「これだ」というきっかけは思い出せないのだが、例えば2018年MAMAでジンくんが解散しようかと悩んだことがあったことをスピーチで語った時の、努めて淡々としながら寄る辺ない感じの佇まいや、2019年のVLIVEの「EAT Jin」で水を飲む時の流し目か、その他のいろいろなシーンが少しずつ少しずつ積み重なって、ある時、カタンと傾いたのだった、鹿威しみたいに。

 Run!BTS-Ep.119(写真を撮る回)の終盤で「あにらえどら…あいしっ…」「うぇなや〜〜…」(「みんなやめてくれ…くそ…なんで僕なんだ…」という感じでしょうか)と裏声になっちゃってるジンくんは、「みんなを裏切る」という課せられたタスクを心底嫌がっているように見えた。それを、これまであまり見たことないタイプの笑い方でぷにっと笑って受諾したとき、「あああ!!ジンくんにそんな顔させないで…!!!!」と、ものすごく胸が苦しくなった。とても悲しかった。悲しくなるので合ってるのか?

分からない。でもわたしは彼の笑い顔を見て辛かった。

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でもキャプションは「ミッション冥利(?)」、ニヒルなことになっている

 その後、類似する笑い顔を二度ほど見て、不思議な気持ちが湧き上がる。

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 端的に言うと、好きなの。辛かったけど、妙に頭に残って離れないの。しかしこの笑顔の下にあるものはなんでしょうかね…有無を言わさぬ感じ?あるいは言いたいことを飲み込んだ?何かに耐えている?圧?シャット?壁?この3つのシーンの共通項を無理やり探し出すとしたら、「もう言わなくていい」という意思表示だろうか(ジミンちゃんなら分かるのだろうな、ジンくんの笑顔に即「あいるじーあいるじー」って言ってたもの)。

 パクチーは、ジンくんのこの笑い方から、何か新しい感じを受けた。

 韓国のバラエティ番組『You Quiz on the Block』に出演して、ジンくんの要望で彼のインタビューシーンがいくつかカットされたそうな。2018年MAMAでジンくんが語ったことについて、新しく語ってくれたことがあったらしかった。わたしは、もちろん彼らが解散を考えるほどのとても辛かった何かについて、もちろん知りたい気持ちは山々なんだけど、これまで沈黙を貫いてきたそのことについて、これ、ものすごい変化なんじゃないの?カメラの前で語れると思って、一度は語ってくれた、そのことが、それだけで十分だ(今は)、とも思った。

 わたしはここのところ、BTSの日本語の、最初の日本語のアルバムをよく聴いている。密着型のヘッドホンでしっかりめに聴いていると、自分が日本語の発音の響きを聞き慣れているおかげで、彼らの声の、鼻腔、喉、どこを広げ、どの辺りに当てて響かせているかに、よくフォーカスして聴くことができる。マニアックだと思うが、響かせる位置を動かしているようす、発音の癖などを、メンバーそれぞれに異なるそれを、個性を、工夫を感じ取るのが楽しい。ジンくんはフレーズのクライマックスで、高みに向かって行って、少しテンションを抜く傾向があって、「なんかショパンみたいな…この人おしゃれな人やんな…」と、ジンくん、私服は全然洒落っ気ないのに(失礼)…と思ったことが面白かった。
 先日、Adoさんの「ギラギラ」を聴いて、「うわー!なんて上手い人だろう!」と思った。どんな歌い手を上手いと思うか、ジンくんがどういう人を上手いと思うのか、どこに着眼するかは人によるかもしれない。ソウルとかR&Bとかのジャンルの歌い方を上手いと思うかもしれないし、でもフェイク(即興性のあるメロディーや音のゆらぎ、みたいなもんか…)と類似するもので言ったらインド音楽のアーラープ(即興の歌唱、インドは半音より細かい音の差異、微分音を使い分ける)なんかすごいし、じゃあそれとは違うけど、長唄の人間国宝みたいな人で言ったら、本当に尋常じゃない。人を超えている。
 しかし、ジンくんの高みに行ってふっと抜ける感じ、彼が持つニュアンスは、それを表現する感性は彼独自のものだ。そして人が固有の声紋を持つ時点で、上手かろうとどうだろうと、唯一そこにしかないその声で、生身の声帯を震わせ、空気が振動し、聞き手の鼓膜を震わせる、そこで起きていることはそれだけですでに、すっかり、唯一無二なことしか起きていない。

 歌が上手いとは、どういう歌い手のことであるか。

「正直、僕よりも音楽を愛していて、もっと上手な方も多いのに、僕がこのような喜びや祝福を受けてもいいのだろうか?」

 この言葉自体は、芸事を本気でやっている人にとっては特に違和感を持たない言葉だろう、道をどれだけ極めようとも常に自分より上はいるし、道を極めることに終わりはないからだ。わたしは、あらゆる上手い歌手の歌の中から、その声が歌われるのを聴くことを選んでいる。わたしがジンくんの歌を聴くのは、何度も何度も繰り返し聴いて、そこで聴き取ろうとしているのは、作品じゃない、作品を通して彼がその瞬間に込めた、その時その瞬間のその人の全て、の方なんだろう。大好きな音楽作品は数あれど、そういう聴き方をしたいと思う歌い手を、わたしはわたしの中に、彼の他に見つけることができない。

だから曲を作るときは最後まで全部やっておいた方がいいです。そうしないと完成まで時間がかかりすぎるから。一気にバババっとやらなければ機を失することになります。僕の場合はそういうときこそ繰り返し挑戦してその感を忘れないうちに終わらせるのが重要です。
BTS (방탄소년단) V's BE-hind 'Full' Story

 パクチーが作曲の仕事をしていた時、シンガーソングライターの先輩が「音楽というのは日記みたいなものだ」と言った。この言葉はとてもわたしの創作過程を導いた。音楽を作ることが「時間をかけてひとつの作品を納得のいくまで手を入れ続ける」イメージから、「その瞬間の自分のポジティビティが、感性が、感情が、真空パックされている」イメージに変わった。そうイメージが変わったことで、わたしは作ったメロディーや録音に対して、可不可のジャッジが速やかにできるようになり、「完成させる」ことに躊躇がなくなった。

 日記をその日に書かずに、日を置いて思い出しながら書くと、感情のフレッシュさは、感情の変化のグラデーションは損なわれてしまうだろう。概要のようになってしまうか、あるいは整然としすぎてしまうかもしれない。テキストとしてはその方がいい場合もある。でも音楽に書き換わるのは「理路」以外の要素だ。感情が音色をつくる。その日書いた日記には、例え文章が未熟でも、時間を置いた後の自分には書けないものが含まれている。その日の自分が選ぶ音の配列。そこには、その日を外したら消えてしまうエッセンスが含まれているのである。
 心の中がスパークして、曲の動機が体中に広がっていく。その瞬間の感情を創作の間保つことができれば、感情が適切な曲の終焉へと導き、始まりから終わりまで一貫したものを流すことができる。
 その感情を見失ってしまうと、曲の完成は、別の類似する補完できる要素に自分が出会うまで遠回りすることになる。
 ゆんちゃん(SUGA)がVくんに言っているのを、わたしの体感で置き換えると、こんな感じになる。

 デビュー初期のジンくんの丁寧な歌を聴きながらわたしは、「もしかしてジンくんは、例えばテレビ局の楽屋で、一番メンバーたちの様子を見て、彼らが周囲やスタッフから見て適切に振る舞っているように見えるように、彼らの品行を方正に誘導していたのではないかな?」と、想像した。デビューの頃彼は、弟たちと一緒にはしゃぐこともできるが、はしゃがないこともできる年齢だった。ダンスは不得手、ラップはできない、作曲もしていない、であるが最年長の彼は、ひとたびメンバーを連れて外に出れば、弟たちの立ち居振る舞いを客観的に見つめ、テンションの上がった弟たちが大人に迷惑をかけないように、周囲の大人たちの空気を読んでいたかもしれない。

 当時の彼の生み出す音色を聴きながら、当時の彼の一時が凝縮された、彼のポジティビティの結晶を聴きながら、そういう風に想像するのは楽しい。

 Run!BTS-EP.140で、ジンくんがナPDと交渉するとき、その交渉力、対等に立つ佇まいが、その眼光が、鋭すぎて怖かったのはわたしだけだろうか。

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「ヒョンそういう交渉まじ得意だから、見てな」とおっしゃる、こんな佇まいをする人に得意の交渉を持ちかけられたら、始まる前から根こそぎ持っていかれる予感しかない。
 メープルストーリーのオリジナルキャラクターを作る企画で、思いがけずゲーム会社のプロデューサーの人が現れたときのジンくんの対応を見たときも思ったけれど、彼は大人に、権威のある大人に全くと言っていいほど物怖じしない!!そして敬意がある。どうして?どうしたらこんなに美しくて可愛い人が、何をしてどうやってこんなに駆け引きの上手な、肝の座った人になっちゃったの?

 年長者に対して、むしろリラックスしている風なのは、パンPDとパンPDの手料理を食べている時の動画でも非常に感じた。あーうわー完全に砦が溶けてるー。普段弟たちを抱える責任や緊張感がある分、年長者には自分が構えなくても守ってもらえると安心するメンタリティは、長男長女ポジションの人にはよく理解できるのではなかろうか。そしてかなり初期の頃からパンPDとの距離感が独特だなあ(とにかく気心知れている、というような)と感じていたけれど、ジンくんの、彼の自然体なようす、謙虚さ、安定感、権威ある人に対する懐の入り込み具合、今回のような交渉力、この方、アイドルのあとは社長とかになっちゃうんじゃないか…本社とか関連会社の…と、パクチーは密かに以前から何度か思っている(J-HOPEはプロデューサーに…)。そして若輩者に対しても配慮がある。

 「いい人になりたい」と、他のメンバーが口にするのに対し、ジンくんは言わない。言ってないような気がする。言ってます?彼は彼のなるようなものになる。「いい人になろうともしてない」。そのあり方はジンくんの魅力に通じているように思われた。「いい人になる」「なれる」。この言葉は魅力的だ…。だけどぺろっと中身をひっくり返して自分のことを見てみれば、雑多で汚れたものがしっかりぺったり貼り付いているのだ。あーあ、そうだよなあ。そのまま戸板を流れる水のように、人の悪口をいいながら過ごして、時々壁にぶち当たったり、問題を引き起こしたり巻き込まれたり、縁を切ったり切られたり、して、その雑多な要素をひっくるめて自分として受け入れ、その自分を生きて老いて死ぬのは、そんなに悪いことじゃないのかもしれないなあ、ありのままというか。素の自分というか。

 いい人。今の自分でない何か。今目の前にいないもの。ここにいないモデル。

 いい人を目指そうとする皮の内側は、ドロドロが、腐敗したところが、分解中のところが、しっかりと貼り付いている。そしてその中には網で掬ってやっと見つかるような、キラリとした砂金の粒や。

 三つ子。齢を重ねて、わたしは子供の頃の感性に戻ってきたのであった。けれど3才の時と大きく異なるものがある、それは、

「その言動の責任を取るのは自分だよ」

ということである。パクチーが出禁になった社長令嬢宅について、謝罪したのはわたしの母親だったろう、わたしは随分大きくなってからその話を聞かされた。三つ子のことばがどんなに無礼かろうと、三つ子には誰も責任を問わない。

 わたしは最近、自分の内側についているドロドロについて、腐敗中のものについて、分解中のものについて、「それについて丁寧に時間をかけて理解する」ということをせずに、通り一遍のメリハリの効いたわかりやすいカテゴリーにカテゴライズするとき、そうやって雑に扱うとき、非常にフラストレーションが溜まるということが、自分で分かった。ドロドロの下にはつるつるの腸壁があったりするのね。もしくはちょっと傷ついていたり。繊細だったりナイーブだったりするのね。それが分かると、なんだか可哀想に、可愛く思えたりね。純粋だなあとか。

 はあ…。そう、また胃腸が痛い。本調子じゃなかったようだ、そう、肉の食べ過ぎは良くなかった。熱があるとピアノは弾けないのだが、お腹が痛いと思考力が著しく下がるね…思考が持続せん…。

 できたメロディーや録音を後から聞くと、「なんでこうしたんだっけ」「もっと良いアプローチがあるはず」と思うことはしょっちゅうある。時間を置いてしまうと、必ずと言っていいほどある。ところが後日の自分がこねくり回して、後の自分の修練の結果の良いところだけをモザイクのように寄せ集めて合体させても、最初のインスピレーションを音に転写したものには届かないことが多い。
 どうしてか。
 最初のインスピレーションには、曲の動機が心の中に生まれた瞬間の感情、心の動き、煌めき、強度がある。それらが曲中にちゃんと表現されている時、技術的な足りない要素は別段作品の質を下げない。足りないことも含めて問題にならない。

 最初のインスピレーション。そこには、その時の自分の、美しいと思ったもの、切ないと思ったもの、悲しいと思ったもの、光を感じたもの、の最上級が押し込められている。

 体の内側にドロドロを、腐敗を、持っていて、その体を持った心が一瞬の感情の輝きに震える。欠けている部分、足りない部分、未熟な部分、「いい人」じゃない雑多な集合体の自分。そのいろいろあって欠けた生き物が、足りないことも含めて問題なく生きている。問題なく!生命活動を!

 それらがそのままある、その全ての状態について責任を負える。

 それが、いい人になろうともしていないように見える、ジンくんの持つかっこよさなのだとしたら、

 かっこよすぎると思う!

 Butterの短いコンセプトクリップ、パクチーが舞台の仕事をしていた頃、その前の時代(70〜90年代)のアングラ演劇からそれに続く系譜のパフォーマンス表現を見ているようで、甘酸っぱい、苦い、酸っぱい、苦い、良く言えば懐かしい、非常に肉親感のあるものでありました。アンダーグラウンド、お金はなく、工夫と、アイデアと、前衛、アート、チャレンジ精神をじっくり煮詰めた濃い空気。ひりひりする…!若いディレクターさんが撮ってるのかな…画角といい画質といい古い感じだったね。

 今回は思う存分、ジンくんについて日頃考えていることを書いたわ。ありがとう!ありがとう!




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