コード、R&B Remix、そして着地やこもごも。
I'm a new soul
わたしは新しい魂
I came to this strange world
この変な世界にやってきた
Hoping I could learn a bit about how to give and take
ギブ・アンド・テイクを少しでも理解できるようになりたくて
But since I came here, felt the joy and the fear
でもここに来てから、喜びや恐れを感じるようになった
Finding myself making every possible mistake
ありとあらゆる失敗から、わたしは自分自身を見つけ出している
La-la-la-la-la-la-la-la...
Yael Naim「New Soul」
「Permission to Dance」がBTSの新しい曲として公開されてからしばらくの間、わたしはずっと悲しい気持ちでした。なんてことだろう。一緒に味わい、一緒に喜び、一緒に楽しみたかったのに。せっかくこの世界に、わたしがいられるすてきな場所を見つけたと思ったのに。でも、わたしがわたしである限り、わたしが自分の感性で音楽を聴いている限り、この楽しいパーティーが開催されている会場の門から中に、入れない。
せっかくドレスアップしてきたのにな…。楽しむ準備をしていたのに。入り口の前に立ちすくむ。中から楽しそうな声が聞こえる。この中にわたしの居場所はないんだ…。
だけど、彼らが今この選択をした意味を、多分わたしはよく分かるし、その正しさもよく分かる。
正しさが苦しかった。
わたしは正しくない、だから排されてしまった。
ところで「Permission to Dance R&B Remix」が公開されましたね。
・・・ええやん!!好き!!
R&B Remixが公開されたことで、わたしがオリジナルバージョンの何にそんなに抵抗を感じていたのか、はっきりと自分で、やっと認識することができました。メロディー?いやいいよ、ラップがない?ううん気にしてない、韓国語が良かった?こだわらないよ、
ただ、巷でカノンコードと呼ばれるあのコード進行だけが、どうあっても受け入れられぬ…!
という衝撃の結果を自分で知ることとなった。そんなに?それだけ?悲しみと絶望の理由はカノンコード??愛と苦しみのコーダ???(違う)
そもそもコードとは何であるか。コード進行は音楽の何を司るのか。このコード進行が一部の音楽ファンに分断を生んでしまったことから、どんなことを知ることができるだろう。このことがどんな知をもたらしてくれるだろう。
知りたい。
それは結構面白いところに繋がるような気がして、わたしはわくわくした。
カノンコードと呼ばれるコード進行
わたしこの言葉聞いたことなかったんだけど、実際にこのコード進行と、カノンと呼ばれる音楽の形式には、何も関係がない。ただ、「パッヘルベルさんが作曲したカノン形式の曲のコード進行」を指してこの呼び名がついたようで、多分日本人しか言ってないんじゃないかな?
そもそも、西洋音楽においてコードという概念が出てきたのはバロック以降のヨーロッパであった。コードとは日本語で「和音」のことである。和音の定義は、根音(こんおん=ルート音)から一音飛ばしで3つ以上重ねた音のことを言う。根音をドにして和音を作るなら、「ドミソ」を一辺に弾いたのが和音。中世以前の西洋音楽では、「ド・ソ」の音程は、神に捧げるにふさわしい響きだが、「ドミソ」の響きは汚いと感じていた。「ミ」だって良くね?綺麗くない?合ってるよね?となるのは「歪んだ真珠」が語源のバロック期である。中世の人から見たら、それは歪んだ美しさなのであったらしい。
バッハに代表されるバロック時代まで、作曲とは「対位法」という方法論でなされるものだった。西洋音楽は初期、聖書のラテン語に節をつけ、ひとつの旋律がひとり、あるいはユニゾンで歌われていたところから始まる。そこに単音のハモリが加わってオルガヌムと呼ばれる形になり、それが複雑になっていくことで対位法は確立した。特に神に捧げるための音楽は「厳格対位法」という恐ろしく厳密なルールのもとに作曲され、このロジックを使って、数ある禁則を犯さず、パズルのように大変システマチックに構築されていながらも美しい曲を作る、音楽家とはそういう技術を持つ人たちだった。
対位法が、時代が進んで豊かな響きを持つようになってくると、人々は自然と音楽の中にコードの感覚を持つようになる。「メロディーを歌う人が複数人いる」という横軸で音楽を捉えていたところから、コードという「縦のまとまり」で考えるようになるのである。コードで捉えた音楽は「コラール」と呼ばれるドイツの教会音楽から展開した。対位法はバッハの時代に集大成を迎え、コラールはその辺りの時代から豊かになっていく。コードが持つ響きの世界観は、音楽の表現が進歩・展開する過程で、人類が段階を経て獲得した感覚だったのだ。
やがて時代がコードで音楽を構成することが主流になると、新しい方法論、和声学が生まれる。和声学では機能和声と呼ばれる、それぞれのコードにはそれぞれの性質があり、このコードからこのコードにはいけるが、このコードには行けない、というような、曲が展開するための不自然でない流れのようなもの、音楽の持つエネルギーの流れに沿って広がったり、落ち着いたり、テンションがかかったり、弛緩したり、西洋音楽の骨格と呼べるような大きな括りが、ルール化される。対位法の世界では良しとされていたものが、和声学では禁則になったものもある。音楽の響きの美しさについて、時代によって人の概念が変わり、対位法の時代とは違った感性で音楽を感じるようになるのである。現代に消費される音楽においてさえ、人が聴き馴染みがあるように感じる時、その音楽の中には和声学のルールが生きている。わたしたちはこの時代の財産を使って音楽を楽しんでいる。もちろんこのルールは破ったっていい。このルールを無視していくと、音楽は現代音楽の無調音楽のようになっていく。
モーツァルト没後230年。西洋音楽において、メロディーもコード進行も、大天才たちによってとうに研究し尽くされている。「名曲はもう出し尽くされた」。クラシックの音楽家がそう言ったのが100年くらい前のことだ。にもかかわらず、わたしたちは新しい音楽を作り、新しい音楽を聴く。そこに音楽が生まれる意味。その時代に生きる人が生み出す動機。その人が見つけた世界への提案。発見。アイデア。その人が込めた固有のエネルギー。
ハ長調(ドレミファソラシド)はピアノの白鍵だけで構成される音階だが、バロック音楽では、使うシャープが多くなるにつれてその調の持つ響きは「天」に近くなると、フラットが増えると「地」に近くなると感じられていた。コードは、それだけでひとつの空間、雰囲気を生み出す。コードの持つ指向性が、次に向かうコードを選ぶ。それは、地面の上の水を持ち上げると、水が重力というエネルギーを保持するのに似ている。動かした水は慣性のエネルギーも加わって次の場所に向かって流れる。ゆっくりと重たく、あるいはさらさらと、勢いよく予測したのと逆の方へ、あるいはくるくるとそこに留まるように、きらきらと広がって遠くへ消えて…。
楽曲の最初の一音。そこで始まった、そこに生まれたその音楽のエネルギーは、曲の最後の一音に向かって、絶えず動きながら、広がり、ゆらぎ、循環し、集まり、緩み、空間を振動させ、流れる。
そのエネルギーを運ぶ世界を構築するのが、コード進行だ。
パッヘルベルは、バロック時代の作曲家だった。彼のたった一曲書いたカノンが「パッヘルベルのカノン」らしい。カノンとは「追複曲」と書き表し、いくつかのメロディーが対位法のルールに則って、全ての声部で繰り返されるスタイルの曲をいう。彼のカノンは、多大なるクラシック音楽の曲の中で、最も大衆化した楽曲のうちの一つであろう。
| E | B | C#m | B | A | G#m | A | B | >Aセット
これが「Permission to Dance」のカノンコード。
| C#m | G# | A | B | >Bセット
これがカノンコードが使用されている以外のパートのコード進行。
「Permission to Dance」は、「A×2、B×2、A×2、B×1、A×1…」という、この2種類のセットの繰り返しでできている。それ以外のパターンは出てこない。大変にシンプルな構成だ。
しかして「Permission to Dance R&B Remix」では。
| AM7 | G#7 | C#m | Bm7 - E |
これだけ。この4小節のみを、一曲丸々通して繰り返されている。なんという極端な構成!
わたしがコードの進行からエネルギーの流れを、音楽を構築する世界の部分を担っているように感じる人である時、Remixのコード進行はシンプルだが美しく、しっとりしているが、希望が煌めいている感じ、それがずーっと遠くまで続いて行くような、パープルベースのレインボーカラーの雲のトンネルが、キラキラしながら続いているような、言語化するならそんな耳触りで聴いていた。物足りなくないし、むしろコード進行が縛られていることでメロディーが自由で豊かに聴こえ、さざ波のように絶えず変化し続けるオケのアレンジがちょうど良く聴き手をドライブしてくれるところに、ミニマルでありながらちょっとした仕掛けや実験的な面白さもある、そんな世界観の提案を感じた。
一方「カノンコード」の方は、例えるなら「最強の無料テンプレート」。看板の力が強すぎて、使用者が多すぎて、ありとあらゆるところで聴きすぎて、もうここにはそれ以上のものが何も入っていないような、今聴いている曲の作り手の存在を薄くにしか感じられないような、わたしにとってはそういうものなのである。
感受性がそこに「ある」とするもの
わたしは「こんなに素敵な彼らの曲を、素敵な気持ちで受け取れないなんて」という論調を見るたび、心が辛かった。ただ素敵な曲だと思ってみんなと一緒に楽しめることだけが起きると思っていたし、それが何より自分自身が望むことだったし、そうしたい気持ちしかないのに、そうできない自分に一番ショックを受けているのは自分自身だったからだ。それができたら一番いいのにということは、誰に言われなくてもしみじみ心から思っていた。だけどわたしが、自分の感性で音楽を聴いている限り、わたしを育てた感性をわたしが自分のものとして持ち続ける限り、わたしにこれまでさまざまな素晴らしい体験をさせてくれた感性を愛して肯定している限り、わたしは自分の感性の言うことを聞くしかなかった。
だけどこれは、避けるべきネガティブなことだろうか?
いくつかの要素において、例えば韓国語かどうか。「Permission to Dance」が自分にはイマイチ微妙だと思ったファンについて、韓国語の持つ響きのイマジネーション、エネルギーと、英語の響きの持つビジョンと、空気感、そこには明らかに違いがある。口の中の動きが違い、頭蓋骨の響かせる部位が違い、舌のポジションが違い、意識が違う。ラップがあるかどうか。そのシークエンスに乗るエネルギーの種類と、情報量が違う。サウンド、リズム、空気の耳触りが違う。ラッパーの持つ脳内のビジョンの広がりが違う。これらは全て音楽的に、明らかに差異を生むのである。わたしのように、特にコード進行にのみこだわって受け入れられなかったタイプの人もいたと思う。その進行から受け取るイメージ、コード進行が作る世界、何を想起するか、人によって様々ある。
わたしはこれらのことを、ある時点からネガティブなんじゃなく、むしろポジティブなことなのじゃないかと思い始めた。
つまりこれらのことは、真剣に音楽を聞いている人たち、の結果だったのじゃないか。音楽を愛している人たちの、音楽という宇宙を肯定している人たちの、その人たちが音楽というアートの前で真剣でいるという、ポジティブな態度の結果なのじゃないか。これって別にネガティブなことじゃないよね。自分の感性を育て、音楽を聴き、音楽に影響を受け、音楽を大切にし、音のメッセージを理解し、そのバイブレーションを理解し、程度はそれぞれ人によって違うが、「真剣に音楽を聴いている」。だからその結果「自分向き」「自分向きじゃない」というのは、単に「わたしはこういうタイプ」というプロフィールを別の角度から表現しただけで、「わたしはキュウリが好きです」「わたしはキュウリが食べられません」に準ずるような、ただそれだけのことなのでは?
韓国語。ラップ。コード進行。「Permission to Dance」で選択されたものは、明らかにこれまでと違う種類の音楽的な響きと、エネルギーのフローを持っている。それを聴き取る感受性で音楽を聴いている人について、「らしい」という人と「らしくない」という人がいた時、前者は多分、アーティストのパッションや世界観に関するもので、後者は音楽の中の特にサウンドに関するものなので、両者はどちらも正しいし、どちらも間違ってない。
誰かが「この曲は自分向きじゃない」と言った時、それは「だからこの曲はダメだ」と評価しているのとは違うのではないか。それはただ「自分はどういうタイプであるか」の表明なのではないか。このことを丁寧に言語化することをしない人は多いと思うが、「微妙」という言葉が使われるとき、言葉の意味はつまりそういうことを意図しているのじゃないか。
だからお願いだ、その人がその人の感受性で受け取っている世界を値踏みしないでくれ。
悲しい気持ちでそう思った。わたしがわたしの感受性で音楽を聴くことを、そのようにしかできないことを、自分がそう感じる以上に悲しいことにしないでくれ。わたしには、彼らの熱意と努力と情熱を最大にリスペクトする気持ちと、彼らの曲を受け取り難く感じた感受性を持つ自分が、並列してある。音楽の前で真剣である人は、音楽をする人にとってはいつでも大切な聴衆だ。わたしは自分の感性をどこにも恥じるものがないと考えた時、この曲を「自分向き」だと思った人も、「自分向きでない」と思った人も、音楽に真剣に取り組む人の前では等価であるように思った。
「正しさ」の前で、他者に対して、「こうあるべき」と指図する。
それは偏見とは言わないかい?
その人の感性で構築された世界があるにも関わらず、マジョリティに理解されない時、それは起こる。「偏見をなくす」ために選ばれたコード進行は、なんと、偏見の片鱗を見せてくれる役割があったのだろうか。
ここまで見越していたの?まさかね。
「あんたこうしなよ」って言っちゃうのね
ところで、ママ友の中には「あんた、こうしい」「そういうの、絶対しちゃだめ」「なんでああなん?おかしくない?」「普通こうやろ!」と、すーぐ言っちゃう人が結構いる。そしてしばしば闘争が起きている。そういう人たちは自分をマジョリティに属する「普通」だと思っているっぽい。
わたしは自分が普通だと思わないので、黙っている。わたしが優れた人物というわけではない。自分のことは最高に信頼しているが、これまで生きて自分の意見を言って「そうなんだ、それはいいね!」と言われることが皆無に近かったからである。ストレスなく物語って、こんなにスキのボタンをクリックしてもらって、「我が人生で二桁の人に共感されることがあるなんて…!」と、noteにやってきて初めて人生における受容を味わっております。感謝の限り。
マイノリティを攻撃するのは、マジョリティに限らない。マイノリティがマイノリティにきつくあたることもある。そしてしばしば「自分が言われたら一番怒りそうな事」で、他人を攻撃するのを見る。
どうしてなんだろう。わたしは、「それ、自分が言われてすごく根に持ってた言葉じゃん、どれだけダメージを与えるか分かってるのに、どうして人にそれを使うの?」と訊く。しかし大抵本人はそれらのことに無自覚、無意識なのであった。
そして、「ああ、自分が、自分にその言葉を使っているのか」という可能性に思い当たった。そんなようなことをジミンちゃんが言ってなかったっけ。なんて叡智のある青年だろう…。他人に強い言葉を使う人は、自分をそういう言葉で攻撃するんだな。自分が自分のことをそう思って、そうであってはならないと負荷をかけ、条件をつけて自分を肯定しているんだな。
そう感じるようになって以来、他人を断罪するような物言いをする人は、わたしには自己肯定感が高くないように見えるのであった。一見、自信たっぷりで、自己を疑っていないように見えるのだが。
マジョリティが正義と正論で他者に偏見を持つ時こそ、その人が自己肯定感に包まれているとは限らない。あるいは自己肯定感が少ないからこそ、他者に偏見をぶつける、そういうメカニズムなのかもしれない。自己肯定感が高く、無条件に自分のことを愛していれば、そこにいる別の関係ない誰かについて、自分がマジョリティであろうとマイノリティであろうと、自分と全く異なる何かについて、とりたてて否定したりする必要がない。
あるいはマイノリティがマイノリティに偏見を持つケース。両者に自己肯定感が少なくてそれが起きていると、そのやりとりは何とも辛辣なものだ。しかし、根っこのところでは、実際には、どちらも正しく、どちらも間違っていない、だからこのやりとりには、区切りが見えにくい。
正義の剣は恐ろしいね。殺傷能力の高い剣で叩き斬られたら誰だって痛いし苦しむ。かといってマイノリティだって、その陰で夜な夜な刃を研いでいる。剣は見境なく使うのではなく、本当に必要な時に、最小限の切り口で、すっと不要なものだけ突くようであれたらいいのだが。それがBTSのメンバーたちの取っている態度のように見える。わたしは剣を不必要だと決して思わない。それは魂の輝きとニアイコールに思える。だけど正義の剣が断つのは悪だけじゃない。何ものでも傷つけ得る。使う心の側が育っていて初めて、断つべきものを断つことができる。
わたしは最近、ナムさん(RM)がアイドルじゃなくて、ビジネスマン、BTSの戦略会議にブレインとして主体的に参加する運営サイドのプレイヤーに、ちらちら見えている時がある。かつて彼が「自分が勉強をやめていなかったらどうなっていたのだろう」、優秀な彼の級友たちが社会に進出し始めた頃、その呟きは自分と比較して羨んでいるように聞こえたが、今や級友たちの誰も及ばないような超規模のグローバルスケールで、彼はチームの方向を決定し戦略を練る中核を担っているんではないか。何となく彼にかかっているように見えるプレッシャーの様子から、そんなことを思った。かつて、主に作詞やスピーチやインタビューでその能力を発揮してきたIQ148のナムジュンコンピューターが、カリカリカリカリ……24時間フル稼働する稼働音が画面から聞こえている(イメージ)。その冴えたアクティヴさのある目の輝きが、アイドルから見切れてるのが、年相応を感じさせていいなあと思った(イメージ)。
ゆんちゃん(SUGA)は、「着地すればまた離陸できる」と、新しいビジョンを見せてくれた。彼の精神構造は、わたしはとてもノーマルで、信頼されるもののように感じる。小さい子供が日向で駆け回っているのを見て、大いなるものに感謝を感じるような。そして彼は大衆的なものもカノンコードも好きだね。彼の書く外の人との楽曲にはその感じがよく現れていて、「Butterよりいい曲」と言ってたのは、そうだろうなあと思う。人々が好きなものを愛している。そこにピュアさと健全さを感じる。
対してナムさんは、これまでの彼のミックステープの感じから、ゆんちゃんとは全く違うコード感を持っていると思うので、カノンコードについて「Are you comfortable?」と尋ねてみたい気はする。きっと理性的にしか答えてくれないと思うが…。
「ギブ」と「テイク」
「Permission to Dance」の歌詞について、どれほどメンバーたちが関わったのか分からないけれど、歌を歌う時、歌い手は歌の世界よりわずかでもスケールを大きく理解していないと歌えない。わたしは歌詞を自分のために翻訳して最初、「踊りたい。瞳の中に自分自身を見つけたあなたが自分を突き動かすものを見つけたなら、僕たちの計画は壊してしまってもいいんだ。ただ夢中になって、自分自身を輝かせる生き方を見つけて、そのことで僕たちに使う時間とエネルギーがなくなってしまっても心配しないで。自分自身を輝かせる人が増えて、僕たちを熱心に応援する人が減ってしまっても、僕たちは着地の仕方を分かっている」という理解に行き当たって、「いや、そんなまさかな…」と、消した。
でも、「自分がどう動けばいいのか分かってる僕たちを、何ものも止められない」と言う時、情熱にドライブされて自分自身を生きるARMYは、同じく情熱にドライブされて自分自身を生きるBTSのメンバーたちと、同じ目線に立っているのではないか。やがて彼らの着地が、ファンとアイドルでなく、彼らがARMYと対等になっている状況を説明するものなら、それはすごくすてきな世界に見えた。自分自身を生きるBTSのメンバーたちが、人々を魅きつけARMYというファンダムができたように、自分自身を生きるARMYには、その人に魅きつけられ、良く影響を受ける人々が必ずあるだろう。
わたしはYael Naimの歌う歌中のnew soulが、「ギブ・アンド・テイク」を知らないというところで、涙が出るんだよね。それがない世界にいたのになあ!と。「いらないものは、あなたが心底いらないと思って手放すまで、いらないものとしてあたなのそばにあり続ける」。わたしの奢り昂り。マイノリティだという選民意識。モノだけに留まらず、思考パターン、エゴイズム、悪き習慣、人、なんでも。ARMYは世界の縮図だからなあ。この中で起きるパターンは、世界で起きることの相似形だから、そこで自分が何か、ざらっとしたものを感じたり、もやもやしたり、はっとしたり、ぱちっと合ったり、する度に、わたしはわたしを知ることになる。世界の一部を知って、わたしの一部と出会う。「ギブ」と「テイク」の間に挟まれて感じるこもごも、じりじりっとした感じ、ぞわぞわっとする感じ、やるせない感じ、無力感、それらの感情と感情の間に、わたしは自分自身を見つける。BTSの新曲が、大好きな彼らの新しい曲が出て、思いがけず悲しくなったこと、そこを通り抜けた先を見てわくわくしたこと。「Finding myself making every possible mistake」。いつか本当にギブ・アンド・テイクを手放せるまで、わたしがもう十分持っていて、何を差し上げても減らないことに気付くまで、自分の魂の形を歪めてまで、誰かに何かをしてあげることはできないのだと理解するまで、驕り高ぶりを手放すまで、マイノリティだという選民意識を手放すまで。わたしが犯すすべての間違いに、わたしはその方法を学んでいく。
追記:
このVLIVEの特に終わりのところの多幸感が半端なかった…。ありがとうありがとう!いつもありがとう。
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