羽生九段の復活の軌跡

昨日今日と行われた王将戦第五局、藤井聡太王将対羽生善治九段は藤井王将の勝利で幕を閉じました。
羽生九段を応援していた者として結果は残念でしたが、将棋の内容は本当に素晴らしいもので、勝った負けたではなくただこの芸術的な棋譜が生まれたことにお二人への感謝を申し上げたいと思います。

羽生九段はこの七番勝負が始まる前、藤井王将との番勝負が実現したことは良かったが「ただ実現しただけでは意味がない」という趣旨のことを仰っていました。
真意は推測するしかないですが、おそらくこれまでの四局のような、そしてこの第五局のような美しい棋譜を残して初めて「有意義」だったと言えると考えられていたのではないでしょうか。
そういう意味ではこの七番勝負の趨勢がどうなろうとも、当初の目的は果たせたのではないか、そう言いたくなるほど素晴らしい将棋をここまで見せていただけています。

羽生九段が昨シーズン勝率3割台とスランプに喘いでいたということは周知の事実ですが、僕が将棋を見始めた6年ほど前から彼の苦闘は続いていたのではないでしょうか。
将棋ソフトの進歩によるめざましい定跡の進化、将棋の「質」の変化に羽生九段のみならず多くの中堅〜ベテラン棋士は苦戦を強いられました。
そんな中でも若手との熱闘を続け、「竜王」を奪取したことで遂に永世七冠を達成しつつも、徐々に負けが込んでいき、ノンタイトルの所謂「無冠」となったのが2018年。
それ以降も羽生九段は将棋界の世代交代に、年齢から来る衰えに抗うかのように第一線で将棋を指し続け、「竜王」に再び挑戦するものの豊島将之竜王(当時)に敗れ、その翌年には遂に30年近く在位した「A級」から陥落してしまう。
これが僕が将棋ファンになってから見てきた、昨シーズンまでの羽生善治九段でした。
(※こう書くとずっとイマイチだったと思ってるように見えるかもですがそんなことはなくて、2018年の名人戦第一局や2019年順位戦の対渡辺明三冠など、勝敗問わず印象的かつ素晴らしい棋譜は多いです)

しかし今年は吹っ切れたように好調を維持されていて、特に挑戦者を決定する「王将リーグ」での全勝は白眉でした。
その原動力となった戦型が、今度の対局でも採用された「後手横歩」です。
後手横歩というのは、将棋ソフトに言わせれば指すのは明確に損、やる意味がない、終わってるとされる戦法で、実際その盤面になった瞬間にAIの勝率表示も5%前後低下します。
羽生九段が今シーズン初頭、この戦型を採用し始めた頃は、「奇襲の一環という意味なのではないか?」「毎回序盤で悪くなるけど、なんかマジック的なアレで結局勝っている」などと大変失礼なことを思っていました。
ところがこの後手横歩で渡辺明名人や、今期竜王に挑戦した広瀬八段といった並いる強豪を薙ぎ倒していったのです。そして今回の、負けてしまったとは言え「絶対王者」藤井聡太王将相手の素晴らしい将棋。
「あぁ、羽生先生はこの将棋が指したくて横歩取りをやっていたのかな…」と思い、観戦中涙が溢れてしまいました。

「角換わり」や「相掛かり」といった将棋ソフトを用いた研究で頻出する戦型は、将棋界の技術の向上を象徴する一方で、「毎回同じ戦型、同じ形ばかりが出てくる」「ソフトの読みが難解すぎて、誰も(プロ棋士ですら)その内容についていけない」という問題も孕んでいることは少し前から指摘されています。
そこで羽生九段は敢えてソフトの評価しない「後手横歩」に踏み込んで行き、序盤のディスアドバンテージを甘受した上で、「ソフトが評価しない(=皆の研究が行き届かない)からこそ」生まれる盤上のカオスの中で戦うことを選びました。
この選択こそが、上記のソフト研究が当たり前になった故に生じた問題に対する羽生九段の「回答」なのかなと思います。
実際、王将戦七番勝負のここまで五局はどれも「名局」としか言いようのない将棋で、とんでもない実力を持っている藤井王将を相手取ると、どれだけのトップ棋士であってももっと大差で見どころなく負けてしまうことも多いものです。
将棋ソフトというある意味で「神」のような存在が評価しない戦法を敢えて用いて、強豪ぞろいのリーグを勝ち上がり、玉座に君臨する藤井王将相手にここまで2勝3敗と拮抗した熱戦を繰り広げている。
この52歳、カッコよすぎませんか?
これが全盛期の羽生九段の姿で、それを再び見せてくれた今に至る彼の努力や、当時激戦を繰り広げてきた谷川十七世名人、森内九段をはじめとする羽生世代の面々から脈々と継がれてきた何かが今羽生九段を通して藤井王将に渡されているんだなということを思うと、また涙が溢れてしまいます。
将棋ってやっぱりいいですね。

正直ここまでの五局が素晴らしすぎてこれ以上何かを求めるのが申し訳ない気持ちもあるのですが、願わくば次の第六局を羽生九段が制して、3勝3敗のフルセットで決着の「第七局」にもつれこんでほしいと思っています。
更にその第七局でまた僕を泣かせてくれれば、それ以上望むべくものはありません。

熱戦を、素晴らしい将棋を期待しています。

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