見出し画像

映画考察『セッション(WHIPLASH)』-己のリズムを持つということ

今回は、2015年に日本で公開された映画『セッション』(原題:WHIPLASH)の映画考察を行います。毎回免罪符のように言いますが、あくまでこれは考察記事です。「解説です」と言い切って作品の余白を殺してしまったら、いずれ世界は不幸になると思いますので。皆様も理解のマージンを残したうえでお読みいただければと思います。

私が、普段作品を鑑賞する際は、人生における気づきを得る場合と、よくわからないけどぶん殴られたという衝撃を得る場合(または、その両方)があります。本作品『セッション』はどちらかというと、前者の気づきを与えられた作品だったように思いますので、今回の考察は私の得た教訓のようなものをベースに考察を展開したいと思います。

作品のネタバレを多分に含みますので、どうかご自身で作品をご覧になられてから、以下をお読みになられることを推奨いたします。教訓的考察は、解釈に道筋のようなものを与えてしまう麻薬です。鑑賞時のセリフやシーンを記号的に切り取ってしまう恐れがあるので、まだ未鑑賞の方は、ぜひご自身で味わってから読み進め下さい。




簡単なあらすじ
『セッション』は、若きジャズドラマーのアンドリュー・ニーマンが名門音楽学校に通い、卓越した指導者であるテレンス・フレッチャーと出会う物語。フレッチャーは自身の完璧を追求する苛烈な指導者であり、その過酷なレッスンはしばしば生徒たちの精神的・肉体的な限界を超えるものだった。ニーマンはフレッチャーの期待に応えようと努力し、次第に自分の限界を押し広げていくが、その過程で友人や恋人との関係が犠牲になり、自身の精神も次第に追い詰められていく。

- 自分のリズムを持っているものと、そうではないもの

まず、最初に言っておきたいのは主人公のアンドリュー・ニーマンには"自分がない"。評価軸を他人に依存している。
映画の冒頭で、大学の教室内でドラムを叩いているところをテレンス・フレッチャーに見つかる。フレッチャーの指導するコースに入りたいニーマンは、彼に良い演奏を見せて気に入られようとするが、このときは完全にフレッチャーに媚びた対応をとってしまう。ここでのニーマンは、とりあえず音楽の名門校に入ったというだけで、フレッチャーに好かれさえすればどうにかなるのではないかと思っているような自身の足場がぐらぐらの状態のようだったように思える。だから、常に会話もフレッチャーの後手に回るし、子犬のように他者に対して従順で"合わせている"感じが漂っている。

アンドリュー・ニーマン(主人公)

初見でフレッチャーに気に入られなかったことを、映画館で父親に報告するシーンでもそのような印象を受ける。父親は、ニーマンと一緒に食べているポップコーンに別売りのレーズンを混ぜて食べているが、ニーマンはレーズンを避けて食べる。「嫌いなら先に言えよ」と父親に言われるのだが、「避けて食べるからいいよ」とニーマンは言うのだ。ニーマンは誰かの欲求に対して、常に後手に回っていて、自分の主張はそれには合わせるだけ。序盤では、映画館のバイトの子ニコルにも声をかけられないし、弱々しくうじうじしている青年という印象を与えるシーンが多くあった。

私も、上述したニーマンのように、自分の欲求が見えておらず他人の欲求に応えてさえいればいいと、背骨のない状態で生きてきたことがあったので、このような気づきを得たのかもしれない。自分がどうしたいのかわからず、とりあえず名門学校、有名な先生、親の意見、友人の言葉、目の前の試験など、わかりやすい指標だけを目的に生き続けると、当時の私や、映画冒頭のニーマンのような人間が出来上がるのではないかと勝手に感じた。
話を映画に戻します。

その後ニーマンは、ある時フレッチャーに不意にスカウトされ、フレッチャーが指揮するクラスのドラムの補欠演奏者に抜擢される。これは、ニーマンにとっても光栄なことであり、この出来事がきっかけで自分に自信がつき、映画館でニコルに声をかけることができた。これは映画の中でニーマンの人生が好転してきたシーンのようにも思うが、まだ依然としてニーマンには"自分がない"。フレッチャーに"認められた"ことで自信をつけている点も他者依存であることの表れのように思う。

私が考察で「自分がない」をキーワードにしているのには訳がある。作中では、ニーマン以外の登場人物にも、繰り返し「自分を持っているか」が問われるシーンがあるからだ。

あるとき、バンドの練習中、フレッチャーが「音程がずれている奴がいる。正直に自分で名乗りでろ」と言うが、誰も名乗り出ない。仕方なく、フレッチャーは犯人捜しをするように、各パートを個別に演奏させて、音程のずれている張本人をあぶりだしていく。その際、犯人としてメッツという生徒が炙り出された。実際にメッツの音程がズレていたかはわからないが、フレッチャーに名指しされ「音程がズレていると思うか?」と聞かれ、メッツは怯えながら「はい」と答える。それに対しフレッチャーは「じゃあなぜ名乗り出なかった!」とひどく激高し、クラスから追い出すという事件があった。これは音程への"自覚"の無さというよりも、ズレていると思うのに申告をしなかった自発性の欠如を責めていたのだと思う。しかしメッツを追い出した後、実はエリクソンという生徒の音程がズレていたということを、フレッチャーは皆の前で明かす。そこで、「自覚のなさが命とりだ」と言うのである。
(じゃあエリクソンも追い出せやって思ったのは私だけじゃないはず)

テレンス・フレッチャー(苛烈な鬼教師)

その他にも、ニーマンがドラムの演奏をしている際、フレッチャーの指示するテンポに合っていなかったため、何度もやり直しを指示され、最終的に椅子をぶん投げられるシーンがある。ここでも、フレッチャーがニーマンに繰り返し聴いていたのは、自分が演奏しているリズムが「早いか・遅いかの"自覚"」があるかどうかだ。彼は、バンドの演奏だから皆になんとなく合わせていればいいという感覚を許さず、自分の中に軸を持っていない奴には容赦しないという強硬な思想があるように思う。

それ以外にも本作では、コンサートで他人に楽譜を託してなくす事件や、親戚との会食でニーマンが自分の目標をうまく話せないシーンなど、随所に「自分で決めろ」というメッセージが散りばめられているように思う。私がそう見ているだけかもしれないけど。

では、ニーマンが、「自分を持つ」のはいつか。それはクライマックスのセッションのシーンだろう。フレッチャーの罠にはめられ、大きな屈辱を受けたニーマンはステージを後にする。そして、ステージ裏で父親に慰められ、帰ろうとしたとき、ニーマンの中で"何か"がスパークする。
そして、ステージに再び戻っていき、フレッチャーの思惑をぶち壊し、ラストのあの鉄嵐のようなセッションを行うのである。このときのニーマンには、はっきりと自分のリズムがある。その証拠に、いままで後手に回ってきたフレッチャーに対し、「俺がキュー(合図)を出す」と言うのだ。この時点で、はっきりと世界を動かそうとする意志が両足で立っている。

逆に言えば、このときまでニーマンには自分の意志がないといっていい。ニーマンが退学させられる運びになった際、フレッチャーの過激な指導に対して密告を迫られたときも、迷いながらも結局は父親の薦めにそそのかされ、フレッチャーの過激な指導の数々を密告してしまった。しつこいようだが、本当にラストギリギリまでニーマンには自分がない。

そして、フレッチャーに酒場で再会
した際に、彼に対して「指導にも一線があるんじゃないですか?」というような趣旨の質問をする(字幕版)。この"一線"という感覚が、彼にとっての免罪符なのではないだろうか。一線というのは、私が思うに、世間一般で考えられる"通常のライン"である。それは、学校での評価であり、親の意見であり、誰かの言葉である。それらはすべて、自分の外側の動機付けであるように思う。ラストのシーンまでニーマンは、それにすがるように生きていたのだ。

ニーマンに限らず、この映画のなかでこの"一線"を気にしている人間には、本当の意味で「自分を持つ」ということができていないように思う。しかし、ニーマンは最後のセッションでその一線を超える。それがこの作品のキモであり、この後の私の考察のキーポイントであると考えたため、ここで長々と「自分を持つ」ということと、「一線」について述べさせてもらいました。

- 一線を超えられるは己の悔しさだけ

さて、ニーマンがその一線を超えて、自分のリズムで最後の演奏をできたのはなぜなのか。それは、ニーマンの中に他の評価軸をぶち壊すほどの"悔しさ"があったからだと思う。

作中、ドラムの名手と言われるチャーリー・パーカーがなぜ伝説になったかを、ニーマンとフレッチャーが話し合うシーンがある。「あのチャーリー・パーカーだって10代の頃、ジャム・セッションでヘマをやらかし、ドラマーのジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ、観客から笑われながらステージを降りた。その夜、彼は泣きながら寝たが、翌朝から来る日も来る日も練習に没頭した。もしあの時にシンバルを投げられてなかったら、我々の知っているのあの“バード”は生まれていない」というエピソードだ。

実はこのエピソードは、実話に基づいていないとネット上での指摘があるが、作中でエピソードの改ざんが行われているのにはそれなりの訳があるのだろう。それは、"悔しさ"という点の強調だと思う。

フレッチャーの指導はあまりにも過激で、技術的な面を丁寧に教えるわけではなく、ただ軍隊のように生徒たちに罵声を浴びせるだけ。ニーマンに対しても同様で、「自分でリズムが早いか遅いか判断しろ」や、「もっと練習しろ」というアドバイス以外に、演奏の指導は行ったことがないように思う。

ニーマンとフレッチャーが大学を退いた後、酒場で再会した際に、フレッチャーが自分の指導方針について語っていたシーンがある。フレッチャーは「私は皆を期待以上のところまで押し上げたかった。それこそが、絶対に必要なんだ。」と言っている。プレイヤーを、期待以上のところまで押し上げるのモノはなにか。それは外部的な指標などのラインではないと思う。
単なる指導や演奏の基準の提示では、生徒たちに評価軸を与えてしまうことになる。またリズムを誰かに委ねさせてしまうことになる。だから、内なる動機でしか押し上げられないレベルがあることをフレッチャーは教えようとしていたのではないかと思う。悔しさという起爆剤を使って。

ただ、その悔しさですら内から湧いてこない人々がいる。「フレッチャーは鬼教師だから」と納得すれば、彼の罵詈雑言もやり過ごすことができる。しかし、ニーマンは拳のような言葉を心で真に受ける。真に受けて、悔しさを常に燃やし続けることができる。だからこそ、最後のステージでの屈辱を受けて、それが発火したのではないだろうか。そのとき、彼は"一線"を超えたのである。

フレッチャーの最後の罠に、指導的意図はなかったと思う。しかし、その一撃によってニーマンは爆発した。その爆発した光を感じ取り、最後のセッションでフレッチャーは彼の演奏に合わせることにする。ニーマンの熱奏中に倒れかけたシンバルをフレッチャーが直すシーンは、欲望と欲望の共闘という感じがして痺れた。まさにセッションだ。フレッチャーはもしかすると初めから、悔しさで起爆するニーマンの光を見抜いていたのかもしれない。

ここで、原題「WHIPLASH」の意味を私なりに考えたい。
単語の意味は、「鞭のように打つ・(首を痛める)むち打ち」である。ハイテンポでドラムを叩くシーンは、スティックが鞭のように連続でしなるからまさにwhip・lashだ。
また首を酷使するため、むち打ちはドラマーの職業病とも言われているらしい。それらの意味と合わせて、フレッチャーの行った、悔しさを打ち付ける鞭のような指導が、原題には掛けられているのではないかと、気づきをベースにした考察の中で私は感じた。

※解説ではないと言いつつも、ピースを集めてパズルみたいな考察をしてしまうのですが、参考程度にお読みいただければ幸いです。

- 他者依存の生き方は、他責とも言える

これまで長々と自分を持つことに関して考察を述べてきたが、次は反対に、"自分を持っていない"ということに関して、自論を転がしたい。

自分を持っていないということは、他人に人生の軸を委ねている状態ともいえる。他者からのキュー待ちで、それに合わせるだけ。控えめと言えばそれまでだが、作中では他者依存の思考から転じて、他責思考についても描かれているようにも感じた。

ニコル(ニーマンの恋人役)

ニーマンが、演奏に明け暮れるようになり生活のほとんどをドラムの練習に費やそうと決意したとき、彼は恋人のニコルに別れを告げる。
「ドラムを追求するには、もっと時間が必要なんだ。君と会う余裕なんてない」と言い放つ。ニコルはこの結論に対しまだ何も言っていないのに、「会える時間が減ったら君が不満になるだろうから」と言って、恋人の意見も聞かずに別れを告げるのである。
ニーマンの独善的な主張を聞いた後で、ニコルは「私が夢を邪魔すると思っているの?」と問いかける。「その通りだ」というニーマン。ニコルの気持ちを決めつけるようなニーマンに対し、最後に彼女は「何様のつもりなの」と怒りをあらわにし、二人の関係は終わる。

このシーンのニーマンは、自分で人生を選択できているようで、まだ他人のキューで生きている。フレッチャーの評価が欲しいし、ドラムで成功すれば自分の足場が確固たるものになると信じている。たしかに、それを欲するなら練習時間は必要かもしれない。しかし、恋人との関係を終わらせたほうが練習時間がとれると考えるのは短絡的過ぎやしないだろうか。

私は人生でこのシーンと全く同じような状況になったことがあるから、個人的解釈が多分に含まれることをご容赦いただきたい。
過去の私を含め、自分の内なるモチベーションで生きていない人間は、外部に理由を見つけたがる。自分が時間をとれないのは、恋人のせいだと思い込む。彼女さえいなければもっと自分は偉大になれると独善的な視野になる。外側に引っ張られて進み、外側をそぎ落とすように切り捨てる。"誰かに人生を委ねている"ということは、同時に"人生を誰かのせいにしている"ということでもある。ニーマンは、ラストのコンサート前に、別れたニコルに連絡をとっていることから、彼女に対しての気持ちが冷めたから別れを切り出したわけではないことがうかがえる。

別れ話の際にニーマンが、ニコルと一緒にいたいという欲求を大事にすることができていたら「練習で会えなくなるかもしれないけど、少しだけ待ってほしい」という折衷案をとることもできたはずだ。カフェで会話を始めた当初、ニコルにはそれを飲む余裕があったようにも見える。しかし、ニーマンはニコルが自分の成長を"妨げる要因"であるとして切り捨てた。他者のせいにして、自己を正当化しようとした。

過去の私への自戒を多分に含むが、指示を待って「他人に言われたからやる」という生き方を人間と、「他人がいるから自分にはできない」という生き方をしている人間は、動機を外側に依存しているという点で本質的に同じなのではないかと思う。

恋人との話し合いのように、互いの欲望の折衷案をとるというのは、人生における他者とのセッションだと思う。ジャズのセッションも言ってしまえば、プレイヤー同士の欲望のぶつかり合いなのではないか。プレイヤー全員に当事者意識がないと、演奏は成り立たないとまでは言わない。しかし、最高のセッションにはならないのかもしれない。人間関係も、バンドプレイも。

考察のまとめ

この映画の考察を書く前に、ネット上でのレビューをいくつか読んでみた。賛否両論あったが、そのどちらにもフレッチャーの姿勢に対して、「怖い」とか「やり過ぎ」という否定的な意見が多かった。

そういったレビューをしている方々の素直な反応を否定するつもりはさらさらない。しかし、「やり過ぎ」というのはどのラインを意識してのことなのだろうか。彼の指導はたしかに暴力的で熾烈だった。しかし、それのおかげでニーマンが"一線"を超えたのだとしたら、少なくともニーマンの内なる動機に火を付けるほどの価値があったのではないかと私は考えている。

私は体罰や暴力的・差別的発言を擁護したいわけではない。しかし、それらの意図を、社会的評価のみで判断して遮断するのは、それこそ外部の物差しに依存した生き方ではないだろうか。自分軸で生きる人間は、自分の欲求に従い、得るものがあると感じるなら、それを取捨選択することができる。環境のせいにせず、他者のせいにせず、自分のリズムを保って世界とセッションしていくことができる。

この映画のニーマンは、過去の自分と重なる点も多かったため、自己解釈の色を強めに考察してしまったかもしれない。しかし、映画の考察において正しさなんてものがあるのだろうか。思ったことを書くのに、一線は必要ないように思う。私は欲求に従ってこの映画について書きたかった。

内なるリズムを持つ大切さと、エゴで閉ざさずに他のプレイヤーと欲望のアウフヘーベンを起こしていくこと。私にとって人生の大きな気づきが詰まった映画だった。出会えたことに感謝したい。

考察おわり。



ここまで読んで下さり感謝いたします。冒頭述べました通り、こちらはあくまで、作品の考察記事となっております。映画を観てみたくなった方も、ぜひ初回はまっさらな心で作品をご鑑賞ください。



普段はYoutubeにて川に行く活動をしたり、HIPHOPのリアクションをしたりしてます。よろしければ遊びにきてください。

では、またどこかで!

この記事が参加している募集

#映画感想文

68,576件

よろしければサポートお願いいたします。明日の食費になります。