ドストエフスキーの異能は?

未だ謎に包まれたドストエフスキーの異能力。
確実に発動しているのは一度だけ。
Aが本拠地としていた客船から脱出する際に、世話役の少年マフィアを殺害しましたが、その時に、これが僕の異能です、と言明しています。
共食い終了時、逮捕のタイミングで特務課員を一人殺していますが、この殺害方法は恐らく異能だろうと読者が推測しているだけ。
客船でAの部下50人を全滅させたのは、恐らく一人でこなしたのでしょうが、一人で全員殺害したのか、ホーソーンを操るように同士討ちさせたのかは謎。殺傷能力が極めて高いことだけは分かっています。

こちらの考察は大変素晴らしかったです。
血液が鍵とは。
ホーソーンの『緋文字』や、鏡花の両親を殺害した能力者の異能が血液絡みだったので、流石に3度目はないだろうと思いましたが。

真逆、鏡花の両親の殺害犯がドスくんではないですよね?
一応、操られても自我は残るようですし。
でもドスくんの操心術があれば、自我を破壊できるのかな。
『緋文字』を乗っ取るのに最適な異能ではありますが。

ただ、気になるのはDAでのドスくんの台詞。
「罪と罰は仲良し」……です。
異能が『ドラコニア・ルーム』の影響で分離しても攻撃を受けなかった理由まではカバーしきれません。

さあ、考察の時間だ(・∀・)

文ストではしばしば、対になる存在がペアとして描かれます。
例えばそれは特異点と異能無効化である双黒の二人だったり、例えばそれは龍虎と見做せる新双黒の二人だったり。龍虎と言えば、澁澤も敦に対して龍虎と言っていますよね。
もちろん、これ以外にもたくさんあります。

ということは、罪と罰とは、何か対になるペアを暗示しているのではないでしょうか。
あるいは、ドストエフスキーは世の理という軛から解き放たれた、異能を二つ持つ能力者なのかも。

異能や異能者のことを嫌悪しており、異能者のない世界、罪なき世界を夢想している、ある意味理想主義者ですよね。
どうも罪とは、異能そのもの、または異能力者で間違いなさそうです。
そのペアになるのは当然一般人でしょうが、罰との関係が分かりません。

もしかしたら、罪とはキリスト教で言うところの「原罪」という概念かも知れません。
つまり、人が根源的に持つ罪です。
元々はアダムとイブが知恵の実を食べたことに由来する、人類最初の罪、そしてその子孫たる人類が生まれながらに背負う宿業のことです。
でも、異能なき世界って、異能は人の魂に縛られる存在ですから、異能を根本的になくすとしたら、人類を消去するしかないのですけど。
いや、もしかしてそれが天人五衰の本当の狙いか?
人類の消滅?
それはつまり、国家の消滅の更に先にあるもの。
なんだか背筋が寒くなってきました。

であれば、罰は何かを消去する能力?
対応するのは(恐らく異能を)付与する能力?
うーん、僕、ドスくんの異能はここで分類したものの内、身体干渉か物体干渉だと思っていましたが、異能干渉系の能力の可能性もありますね。
Aを始末した経緯から、空間と意識を操る異能ではない、と判断できますので、精神に作用したり、時空間を操るものではなさそうですが。世話役の少年の殺害シーンから、具現化系でもなさそうです。

ここまでで考察するなら、
・罪 異能を付与する能力
・罰 異能を剥奪する能力

うーん、流石に考えにくいです。
これならまだ、
・罪 生きるという罰を与える
・罰 死という救済を与える

うん、こっちの方がしっくりきます。
ホーソーンが異能でああなったのか、人智の及ぶ何かでああなったのかは謎ですけどね。

ただ、もっとぶっ飛んだ仮説があるんですよ。
そもそもその仮説を採用すれば、『ドラコニア・ルーム』で異能が分離するのはドストエフスキーにとってごく自然な出来事、呼吸と何ら変わらないことになるのです。

それは、ドストエフスキーの正体が完全自律する憑依型異能生命体という説。
対象を殺すのは簡単です。
異能生命体が憑依して、体内から対象を破壊すれば良い。
これならホーソーンのような操り人形を作ることも実に容易い。
発動条件は肉体で触れること。
対象殺害後は異能生命体は元の肉体に戻って、ドストエフスキーとして振る舞えば良い。
つまり、ドストエフスキーという人間など存在しなかった。異能生命体に憑依された人間がドストエフスキーとなる。

これなら、DAで異能が分離しても平気な理由は説明がつきますし、アニメ4期で探偵社設立時に今と同じ容姿で福沢や乱歩を眺めていたことも説明できます。
異能生命体にとっては人という器を乗り換えていくだけ。悠久の時を過ごした生命体の知性はそれだけで脅威です。
人から人へと渡り歩く異能を捕獲するのは、常人には不可能でしょう。もしかして、乗り移りながらAの部下を惨殺しました?

では、この説に説得力を持たせられるか検討してみましょう。

史実のドストエフスキーは第二のゴーゴリなどと呼ばれて絶賛されたにもかかわらず、その後の作品、例えば『二重人格』は酷評の嵐を受けました。
『二重人格』は妄想で作り出した想像上の分身を巡る物語で、本来の意味での二重人格やドッペルゲンガーとは異なるものですが、狂人と化した主人公は自分とそっくり同じものが現れると感じています。
ここは、どちらかというと二つの異能説を裏付ける部分になりそうです。

また監獄時代の経験を描いた『死の家の記録』ではゴーゴリを踏まえて「羽をむしられた鶏」というフレーズを使用しています。
これはキャラのドストエフスキーにはあまり関係がないでしょう。むしろゴーゴリの深掘りに使えそうです。

『罪と罰』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』はいずれもドストエフスキー研究のためには重要な書籍です(特に『白痴』の名を冠した同人誌などが日本には多いです)が、文ストの世界ではあまり深読みしても意味がなさそうに思いました。
いえ、日本の『白痴群』とかは決して見逃せないですけどね?

そして、『悪霊』を書いています。
この悪霊がひとつのポイントで、話の中身は別にホラーとかスリルを味わうものでも無いし、おばけが出る話でもないです。
もっとも、悪知恵の限りを巡らせて人間不信を呼び起こす様は文ストのドストエフスキーを彷彿とさせますし、長らく失われていた原稿ではとある方法で少女を自殺に追いやるなど、過激ではありますが、キャラ付けの時に借りたのかな?と参考になる部分もあります。

ただ、僕はむしろ『悪霊』というタイトル自体がヒントなのではないかと考えます。
というのも、異能力名の元ネタとなった作品と異能力の間には大して関係ないものが多く(『檸檬』は珍しい例外かな)、カフカ先生の直感に支配されていると考えられるからです。
そしてそれが、碌に本も読まないくせに名前や設定だけ借りやがって、という批判にも繋がるわけですが。

実のところ、ドストエフスキーの正体を「悪霊」に見立てることはさして不自然なことではありません。
中也の異能の根源は荒覇吐という荒神ですし、ラヴクラフトに至っては(抑もカフカ先生が有名になったきっかけとなる)「クトゥルフ神話」が元ネタです。作家のラヴクラフトはホラー作家のようなところがありますからね。

で、偶然なんですけど、こちらの記事でも「異能」=「悪霊」説を唱えていらっしゃる。まあ、切り口は全然違いますけど。

意識を支配しているのは当然、悪霊と見做せる異能本体であり、これが罪ではないかと推測します。
では罰はと言えば、肉体の支配者である元の人間と考えるのはどうでしょう?
もちろん、死を救済と見なし、罰と呼ぶ可能性も十分に高いです。そちらの方が自然かな?
『カラマーゾフの兄弟』ではいつもの『ヨハネによる福音書』第12章24節を引用しています。

「一粒の麦が地に落ちて死なない限り、それは一粒のままだ。だが、死んだのであれば、それは多くの実を結ぶ」

ええ、アンドレ・ジッド(ジイド)が『一粒の麦もし死なずば』を著したように、アニメでジイドとオダサクが決戦時にこれを引用したように、文ストの内外史実を問わず、広く影響を与えている一節です。
明らかに、死を推奨していると思うのですが、キリスト教の教義に詳しくないので補足いただける方はお願いします。

であれば、それは当然、罪と罰は仲良しだと言い切れるはずです。
異能者には死を!
異能者に救済を!

ところで一つ疑問なのですけども、麦は死して地面に落ちたときに実を結びますよね。
麦が異能者だとするならば、ヨコハマの地を異能者たちの血で埋め尽くし、実を結んで何が起こるのでしょうか。
敦くんとの関係はまだ見えてきませんが、僕は「白紙の小説」が姿を現すのではないかと思っていますよ。

む、組合が白鯨作戦やヨコハマ焼却作戦を成功させていた方が、今の地獄のようなドストエフスキーの侵攻を防げていたのでは……。

あ、だめだ、また地獄を錬成してしまった。

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