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2月だったのに、今日みたいな暑い日だった。

8月15日という日。

中学生のとき、教科書で終戦記念日と玉音放送という言葉を暗記して、多くの人々が地面に頭をつけている写真を眺めたのを覚えている。1945年なんて、自分が生まれる遠く昔。そう思いながら、テストに出るからと、ノートにでも書き写したのかもしれない。

高校生のときに、戦争体験者の方から話を聞かせていただく機会があった。当時関東にいらしたその方は、弟さんを広島の原爆で亡くされていた。広島まで探しに行ったが見つからず、遺体が積み重なるその場で自殺しそうになったと、涙ながらに語ってくれた。

大学4年生のとき、沖縄の戦地で戦争の事実を学ぶセミナーに参加したことがあった。3泊4日のそのセミナーでは、ひめゆりの塔や平和祈念公園を巡り、当時の防空壕で視界を奪われる暗闇を体験した。心拍数が上がり、喉からこみ上げてくる感触があったのを覚えている。


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カウラという地名を知ったのは、オーストラリアに行くことが決まったその日だった。社会人になって6年目の年末。友人に誘われ、年明けに退職することが決まっていた僕は、職場のトイレからその誘いに返事をした。行くわ。数秒で了解のスタンプが返ってくる。行くのはオーストラリアだということ、オーストラリア出身の大学の先生が同行してくれること、それ以外何も知らないまま旅立ちを決めた。旅はそれくらいがちょうどいいのかもしれない。


訪問したのは、日本を出発してから4日目。シドニー空港に到着してから3日目。事前に旅程を教えてもらっていたものの、バザーストやらカウラやらモロングやら、聞いたことない地名が並び、何日目にどこに行くのかなんて頭に入っていなかった。カウラに到着する前日、同行してもらった先生に、「カウラのことは知らないと思いますが、太平洋戦争のことはどれくらい知っていますか?」と、夕食後に聞かれた。

中学生のときに読んだ教科書。

高校生のときに聞いた体験者の話。

大学生のときに入った沖縄の防空壕。

そんなことしか知らないです。

そう答えると、同行していただいた先生は「第二次世界大戦という名で我々に残されているということは、日本だけの出来事ではないということ。日本人が深く関わっている歴史なのに、日本人は知らないことが多い。明日行くカウラも、その土地の1つです。」と、流暢な日本語で教えてくれた。日本だけの出来事ではない。そんな当たり前の事実を理解できたのはこのときが初めてだったのかもしれない。

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翌日に向かったカウラ日本人捕虜収容所跡は、柵と針金で囲まれていて、広く見渡せて、今では牧場になっていた。


太平洋戦争最中の1944年8月5日未明、カウラにある日本人捕虜収容所での200名以上の日本兵による脱走事件があった場所。現地で手に入れた資料「Blankets on the wire (日本語訳:鉄条網に掛かる毛布)」がHPで公開されている。

計画されていた脱走を実行するかどうか、捕虜全員による投票が行われ、大多数の賛同により実行されることになる。このカウラ日本人捕虜収容所脱走事件は、過去に何度か映像化されているが、特にこの投票の場面を印象的に描いているのがこの作品だ。


収容所跡から数キロ離れた場所に、戦争墓地がある。戦争で亡くなった多くのオーストラリア兵の墓の奥、芝生にコンクリートを埋め込んだだけのスペース。そこが日本兵の墓地だ。

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多くの日本兵は、自分が捕虜になっているという事実が日本へ伝わるのを恐れていた。その事実が家族や親族の命を脅かすからだ。当時の日本の芸人や有名人などの偽名で名乗り、そのために戦後遺体の身元が特定できていない方がほとんどだという。



そのあとに日本庭園を訪問した。オーストラリアにあるというのに、丁寧に手入れのされたその庭は、戦中にカウラが日本兵の世話をしたということから、当時の安井東京都知事、日本商工会議所、日本大使館、日本人会などが中心となり、多額の募金を集めてこの地に日本庭園を造り、寄付したのだという。

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僕はカウラに来るまでこの事実を知らなかった。どうして教科書に載っていないのか、どうして日本の学校では教えられていないのか。恥ずかしいような、悔しいような、そんな気持ちで庭園を歩いていた。

戦中に日本人が大切にされていたこのカウラでは、今でも人々が日本とオーストラリアの歴史を語り継いでいる。

広島や長崎や沖縄や、日本国内での出来事しか知らなかったから、そうやって日本から遠く離れた土地にも日本人の歴史があるんだと知ったあの日は、鮮烈に残っている。

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