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遊び感覚 21~25話

第21話 信州上田

 長野県上田市の南方に広がる塩田平近辺に、ここ数年行くことが多い。「信州の鎌倉」という呼称はいかにも観光目当てでいただけないが、中禅寺、前山(ぜんざん)寺といった古刹は飾るところなく控えめな造りで、質素で静謐な佇まいが訪(とぶら)う者の心に惜しみない慰藉を与えてくれる。目の前で紬(つむぎ)を織ってみせてくれる民芸店を左手にやり過ごし、夏には朝鮮人参(天ぷら用)をざるで売っている土産屋の所を左に曲がると信濃デッサン館の脇に、前山寺の山門がある。
 今日は電話してあるから大丈夫だ。予約の時間まで後二十分ある。三重ノ塔でも眺めながら、来るべき至福の瞬間を夢想しよう。民家風の休憩所で記帳し、さて、念願の時がくる。本堂にまじない程度の一瞥をくれて、右手奥の玄関へ。見るとすでに十人ばかり来ている。なるほど、意外と知れてしまっているんだな。エプロンをかけた小柄なおばさんが出てきて広間に案内してくれる。峻険な峰々の屏風に描いたような遠景を庭越しに眺めていると、先程のおばさんがお茶に梅漬けを添えて、胡桃ソースのかかったおはぎを持ってきてくれた。ゆっくり食べよう。一口頬張っては余韻を楽しむといった風に。十分堪能して、玄関口で代金を聞くと五百五十円という。岩波文庫と較べると高いと思うけれど、休日昼時のパチンコと比べると格段の安さ。
 おはぎを食べてしまった以上もう用のない前山寺から、車を十分ほど走らせると、愛染桂で有名な北向観音がある。観音様を拝みに行くわけだが、手にはタオルを忘れていない。というのは、観音様を背にして階段を降り、別所温泉の旅館街を左折するとすぐのところに石湯があるからだ。入湯料金は五十円。湯船のまわりに脱衣棚のある、私の好きなタイプだ。法師温泉や野沢温泉の大湯(こちらは無料)もそうだが、好きな理由は洗い場の狭いこの種の温泉では、体を洗うことよりも、肌で湯を味わうことに専念できることになる。年に一度の大掃除のように、爪先から髪の先端まで念入りに石鹸を塗りこみ、修験者のごとく自らを激しく擦り苛む潔癖漢は、この手の温泉には向いていない。誤解せぬよう言っておくけれど、私とて洗うことが嫌いな訳ではなかった。ただ、軽石の使い道を知らずに全身を磨いて因幡の白兎の故事を否応なしに思い出させられたことがあって以来、敬遠気味なだけだ。
 マタタビの枝を売っていたので、猫を六匹飼っている児玉憲明氏のお土産にと一本ポケットに入れ、上田駅方面に向かう。みすゞ飴の老舗である飯島商店に立ち寄るのが通例となっているからだ。ここの手作りジャムは大振りで古風な意匠といい、生きた実の香りと歯触りといい、甘党の土産にはピッタリだ。昔、桑の実のなる季節にそのジャムを手に入れ、知り合いの老女に送ったが、彼女はすぐに食べたらしく「口が広くて入れ歯入れにピッタリなの」と喜んでいた。
 

[33年後の注釈]

1) 前山寺の胡桃おはぎは今でも頂くことができる。流石に750円と33年で200円の値上げも良心的ですね。信濃デッサン館は作家故水上勉のご子息窪島誠一郎が私財を投じ運営していたユニークな二つの美術館の一つで、若くして病死した画家のデッサンなどを展示。2018年に閉館し、現在「KAITA EPITAPH 残照館」として再オープン。もう一つの無言館は、戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵の道具・手紙などを専門に収蔵展示。懐かしい。また行きたくなってきた。近くに糸瓜畑があった記憶がある。
2) 別所温泉の石湯は現在入湯料200円也。値上げ幅は150円だけどかつての四倍。銭湯の公共料金の半額と思えばやはり安い。洗い場がないから?愛染かつらは北向き観音の境内にある巨木で長野県の天然記念物に指定されている。樹齢約1200年の桂の樹木で常楽寺の火坑より観世音菩薩が姿をあらわした際に宿った霊木といわれている。名の由来は川口松太郎の小説『愛染かつら』。川口はこのカツラの木と木に隣接する愛染明王堂に着想を得て恋愛ドラマを書き上げた。小説とこれを原作とした映画の大ヒットにより「愛染かつら」と呼ばれるようになった。
3) 体を軽石で擦ってしまったのは塩沢スキー場近くの民宿で、その時は東大の佐々木健一先生と一緒だった。これで擦るとよく落ちるんですかねえ、と聞くと、そうかもしれない、という曖昧な返事だったが、美学の先生だから信じた。お嬢さんもご一緒で私の車のなかで長渕剛ばかり聞いていたため、帰ってからも耳に残って困るとやんわりと抗議された。
4)  児玉憲明さんは二度目の登場。朝日連峰縦走のとき「勝負あんパン」を出して私の命を救ってくれた恩人で、拾った猫を六匹飼っていた。シャイな御夫婦で飼い主に似て猫たちもシャイで、二、三回通ってやっとお目通りできた。私と同じ1955年生まれで1984年に助手として採用されたのも同じ。
5)  御代田に半世紀前から山荘があり、毎年一夏過ごしていたことから、子供の頃は上田までプールに来ていた。帰りに「べんがる」でカレーを食べたり。このべんがるは親父さんが亡くなられて閉店していたけど、甥の方が継がれて現在も営業。先代のときはカレーにガラスのコップに入った味噌汁がでて、それがユニークで楽しみだった。昨年訪れたらもうこの味噌汁はなく、冷製スープが別メニューにあった。池波正太郎が好んで訪れたらしく写真が飾ってあった。
6)  桑の木は群馬県で車を走らせていると目にする。養蚕業との関係だろう。でも桑の実をジャムにする習慣は、この飯島商店で初めてだった。お薦めは三宝柑。お湯で溶いて飲んでもよい。
 

第22話 進まぬ原稿

 気の進まぬ原稿を前にすると、ただでさえ怠惰な私の思考と行動は、あらぬ方向へと転じては寄り道を繰り返す。今日は、地球の温暖化についての記事を書いているのだが、一向に進まない。机についたまではいいが、「近年、地球の気候の温暖化が」と書き出したところで、そう言えば、去年は雪が降らなくてスキーに行く機会も少なかったことを思い出す。最後に奥只見に行った時、手袋が見つからずに軍手で間に合わせたのだった。今のうち見つけとかないと困る。と、立ち上がり、押し入れの中を物色する。ありゃ、これは何だろう?半年ご無沙汰していたダチョウ革の札入れが出てきたのだ。中にシネ・ウィンドの招待券が入っているはず。うん?あるある。最近は何を上映しているのかな。古新聞の山の中から会報を探すが見つからず、その代わりに叔母が「お料理一年生」を送ってくれた時の封筒が出てくる。
 まだ返事を書いていなかったことに気づき、とまれ、葉書の一枚くらい出そうと考え、絵はがきのストックの入った箱を取りに居間へ。展覧会に行くたびに買い集めた複製カードを拾っては眺め、ブリューゲルの版画を選んだところまでは良かったのだが、出版社を経営している友人に無理を頼んで、割引で買わせて貰ったブリューゲルの全集を本棚から抜き取り、見始める。バベルの塔や錬金術師の絵をパラパラめくっているうちに、中野孝次の「ブリューゲルへの旅」をまだ読んでいなかったことを思い出し、今度は文庫本を満載した本棚と格闘を始める。ようやく見つけて手にとり、冬景色に狩人たちを配した作品を見て、やっと気候のことを書いていることを思い出す。
 まずいまずいと舌を打ちながら机に戻って「研究者の関心を集め、とくに大気中の炭酸ガスの」と書き進めたところ、また、頓挫してしまう。炭酸と言えば、十八世紀に発見されるとすぐにプリーストリが飲料水に溶かして味わった話を書くべきか否か。甘味なしのソーダ水を飲んで、果たして美味しかったろうか。ここ数年、これといった炭酸飲料に出会っていない。昔、コーラの中の甘味料がチクロから砂糖に代わっていやに甘くなってしまったが、振り返ってみるとジンジャー・エールも辛くなくなった。しかし、アメリカからの輸入物なら本物の味が残っているかもしれない、と結論を出した時にはすでに車の鍵を握っている。
 内野駅前のやしち酒店に赴き、おじさんの顔を見た時は、関心はすでに炭酸飲料から地酒に移っている。〆張鶴の本醸造を手にして支払いをすませると、将棋のことがふと浮かび上がってくる。好敵手だからだ。それに教育学部の合田氏とまだ決勝戦をやっていない。あっ!フンボルトの原書を彼に貸したままではないか!フンボルトから熱帯雨林を連想し、焼き畑農業の実態を思い描いたところで、炭酸ガスのことを書いていることを思い出す。
 帰宅して書斎に戻り「増加との因果関係が話題を呼んでいる」と文章を結び、一日の仕事を終えたわけだが、この調子だと原稿が出来上がるころには、新潟の気温はアマゾン並みになっていることだろう。
 

[33年後の注釈]

1)1989年に何の原稿を書いていたのか思い出せない。翌年に雪のフォーラムが豪雪地帯である長岡で開催された。東大から根本順吉先生が来て冒頭いきなり「新潟にはもう雪は降らなくなります!」と周囲の雰囲気を無視した発言をしたので、根本先生の友人の故渡辺正雄先生(東大名誉教授で、当時、新潟大学に在籍して私を助手に誘ってくれた恩師。文学博士と理学博士をもっている。見かけはハンプティ・ダンプティに似ている温厚な先生。科学と文学という広大なテーマを受け継いで現在に至るが、まだ本は書いていない。先生、すみません!)の言に拠れば「あの人はほら吹きですよ、昔から」だそうだ。実際、この発言の後、長岡は大雪に見舞われた。
2) 奥只見スキー場は五月の連休まで春スキーを楽しめる。難点は頂上の食堂で、寒いし凍えているし、肉煮込みうどんが一番人気だったので頼むと、露骨に冷凍レトルトを湯で温めて供してくれたこと。煮込んでないじゃん!ただ頂上からの眺望は素晴らしく眼下に奥只見湖が見える。吸い込まれそうな景色だ。
3) ダチョウ革の札入れは大学時代に父親から貰った。正確には、父の教え子が送ってきたもので、父はお札や硬貨をポケットにつっこむ癖があり、いらないからと寄越した。だが背広やジャケットを着る習慣がなく、胸ポケットが使えないので、この財布はお蔵入りになっていたのだ。
4)新潟に赴任した年は街に出ると映画館「ライフ」があるし、その二階にはギターの生演奏が聞けるスペイン(チーズケーキが美味しい)があり、天国みたいなところだと喜んでいたが、翌年ライフは閉館(最後に上映したのが「怒りの葡萄」。ヘンリー・フォンダがかっこよかったけど、怒りはアメリカ社会にではなく閉館する映画館に向けていた)。そうこうするうちに市民映画館を創ろうと、斎藤正行さんがシネ・ウィンドを創設した。はじめの頃は会員になっていて、年間無料チケットが札入れの中にあった。ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」はこの映画館で観た。上映タイトルの選び方のセンスが素晴らしかった。「紅いコーリャン」とか。
5) 叔母の紀子さんはベターホーム料理教室で教えていて、独身生活大変でしょって料理本をよく送ってくれた。元TBSのアナウンサーで親族のなかで父方の祖母につぐ美貌をもっていて、子供の頃から憧れていた。ところが徹郎叔父は愛人を作って離婚してしまった。大学生の頃だったか。今でも思い出しては腹が立つ。
6)展覧会で複製葉書を買う習慣はいまでも続いている。お気に入りは、大原美術館で買ったミロの悪戯っ子のようなカードや棟方志功の素人目には素人画に見える大胆なものとか。長野で買った東山魁夷のカードは使わずにまだもっている。デューラーのヨハネ黙示録のカードは、新潟県立美術館の常設展で購入。
7) ブリューゲルの五万円もする版画集を、友人の橋昭―氏が東販に出入りできて二割引で買うことができるのでお願いした。橋氏は東大駒場の大学院で同期。バイオリンを弾くのでよく合わせた。人前で発表したのはシューマンのバイオリンソナタ二番。互いにほどよく下手なのでウマがあった。
8) 炭酸飲料はいまではソーダメーカーで自家製で飲める。コーラは1968年にチクロに発癌性があるという理由で発売禁止に。ウィルキンソンのジンジャー・エールは生姜エキスが入っていて喉が熱くなるくらいに辛かった(子供には)。カナダ・ドライのものはカラメルで色をつけてあるだけで生姜は含まず。最近は生姜ブームなのか昔の味が楽しめるし、生姜エキスに自家製炭酸でクラフトジンジャー・エールを楽しめる。
9)やしち酒店のおじさんは近くの公民館での将棋会でよく手合わせして貰った。私はアマチュアの四段でまだボケていない頃はそこそこ勝ったし、大学では将棋部の顧問をしていた(後年、落語研究会に移る)。
10)  合田昌史さんは西洋史家で航海史がご専門。アレキサンダー・フォン・フンボルトの Kosmos を貸していて一年くらい経っていたかな。でも悪いことをしてしまった。この記事を読んですぐに返却して貰った。実名を新聞に曝すことに抵抗がなかったのか、無頓着だったのか。今なら気をつけるのに。現在、京都大学教授。
 

第23話 サンタの思い出

 子供の自分かなり長い期間サンタクロースの存在を信じていた。草木も凍える冬の到来は、クリスマスの夜の貧しくも華やいだ宴(うたげ)を必ずや予感させ、わが家の直径十五センチの煙突を不可思議な力で通り抜けては、鼠小僧よろしく贈り物を置いてゆく魔法の遣い手への期待を日増しに募らせてくれた。
 イブの二、三日前になると、そろそろサンタクロースに手紙を書かないと、と父が言う。何しろ忙しい人だからね、母が相槌を打つ。私を筆頭に二歳ずつ年の違う妹二人と弟は、サンタクロースが世界の子供の家を回って歩くことを知っているから、無理な注文をしたりしない。本当は欲しかった「イーヨーの尻尾」とか「せかせかウサギの懐中時計」のことは一度も手紙に書かなかったのである。
 私の心に懐疑の精神が芽生え始めた頃、もしや贈り主は父たちなのではないか、と一度疑ったことがあった。私はサンタへの手紙を誰にも見せずにポストに入れると主張した。ところが、押し入れの隅にはちゃんと玩具の刀が包装されて置いてあったのだ。それで納得したわけではなかったけれども、それ以上無益な詮索を続けることはなかった。年に一度の贈り物を通じて、輝かんばかりに喜色に満ちた私たちの顔を眺めては、頬を弛める父と母の方こそ、抑え難い喜びに浸っていることを知るようになったからだ。
 そう、人から贈られることも嬉しいが、相手を喜ばせることの方がもっと嬉しい、ということに気がついたのだ。爾来、私は贈る側になることを好んだ。憧れ多く多感であった時代に、私は猫の嫌いなある女生徒に誕生日プレゼントを渡した。小さな冊子であったが、自分で挿絵を描き製本したもので、太古の昔に人間嫌いの雌猫に懸想した雄猫の物語であった。エピローグのところで、猫の口を借りて恋の告白をしたはずが、どう通じたのやら、最後のところ以外は面白かった、と返事が来た。京都の大原の里の燃えるような紅葉の天井の下で、袖にされたことを思い知ったのは、翌月の修学旅行の折。彼女は、犬の苦手な背高のっぽの彼氏と腕をくんで歩いていた。
 音楽テープに蝋燭を添えて贈ったこともあった。ペルゴレージのスターバト・マーテルに、コルトレーンのバラッド、ビートルズのヘイ・ジュードも入っている支離滅裂な選曲なのだが、祈りの響きのある作品を集めたものを、ぜひとも胡桃の殻に溶かしこんで拵えた蝋燭を水に浮かべて聴いてもらいたいと思って贈った。
 振り返ってみると昔はひまだったらしく、いずれのときも自分の手を加えたものを贈り物としていたようだ。サンタクロースを生業(なりわい)に選ばなくて本当に良かったと思っている。ところで二月十四日に巷で配られるあの節操のないチョコレートについて、何を語っていいものやら。全く、慨嘆を禁じえない。いや、もらったことはありますよ。詰め合わせだったかな。十三年前の当時は、恋心の純粋な発露だったわけです。もっとも、鈍感な私は気がつかなかったけれども。
 

[33年後の注釈]

1)このエッセイの前半部分は気に入っている。その時の父の笑顔を思い出して涙する。本当に優しい人だった。煙突があったのは、当時の都営の木造アパートでは薪で風呂を焚いた。途中から石炭になり、用賀から町田に引っ越してからはプロパンガスになった。
2)イーヨーの尻尾は「クマのプーさん」に出てくる湿地帯のロバのイーヨーの尻尾のこと。この尻尾が盗まれる事件があって、その行き先は森のフクロウ先生の呼び鈴だった。「ご用の無い人はこれを引っ張ってください」。うろ覚えだけど、母に読んでもらっていた。せかせかウサギは、たぶん「不思議の国のアリス」に出てくるウサギのことだと思う。他に思い当たらない。実際にクリスマスプレゼントで貰ったものは、順不同で、赤バットとボール、忍者用の刀、百人一首。最後に貰ったのがユークリッド幾何学の本で、これは父が選んだんだとすぐに分かったけど、黙っていた。初めて給料を貰ったとき、新潟大学に赴任してからのことだが、父母に旅行クーポンを一度だけ贈ったことがある。ただの一度なのに、会うたびに「あの時は本当に嬉しかった」と繰り返していた。ああ、こんなこと書いていると涙がとまらない。
3)挿絵つきの猫の物語を贈った相手は、都立青山高校二年のときに図書委員で一緒になった博子さんで、一時期、下校のコースを変えてまで一緒に帰っていた。私は外苑前から銀座線で渋谷、渋谷から井の頭線、小田急を乗り継いで千歳船橋まで。彼女は千駄ヶ谷まで歩いて、そこから中央線で中野へ。このエッセイを書いてから数年経って、すでに結婚して姓の代わっていた彼女は同期会で真相を教えてくれた。実は私のことを嫌だったのではなく、ただこの時良い雰囲気になっても、高校時代で終わってしまうだろう。自分は真剣に思っていたから、もっと先々のことまで考えて、距離をとったのだと言う。悔やんでも仕方ないけれど、あの猫物語は自分で言うのもなんでけど傑作だったと思う。できれば返して欲しい。
4)当時はカセットテープの全盛期。レコードから録音して自家製のお気に入り集成を作ったりした。自作曲を録音してプレゼントしたこともある。高校に入る直前まで作曲家の北條直彦先生について作曲とピアノを習っていたが、音大に進学しないことを決めた時点でやめてしまっていた。今にして思うと続けていれば良かった。その後現在に至るまで、自己流の勝手流。代表曲は「むすんでひらいて変奏曲」。
5) バレンタインのチョコレートを貰ったのは大学2年のとき。英文科で僕よりも数倍ピアノの上手い Non と呼ぶ子で、なんだかんだあって別れて、今は私大で英文学を教えている。最初で最後の恋人。あの頃はおかしかった。
 

第24話 栗金団争奪

 かつて正月のわが家は修羅場であった。大晦日にイモの裏ごしを手がけるころから、殺気だった雰囲気がみなぎり、兄妹たちは明日から始まる争奪戦への決意をめいめいに確かめあっていたのである。母が栗を買ってきた段階で、各人への割当分は計算できる。問題は、いかにしてより多くの栗をさしたる罪意識を感じずに口中に収めるか、という一点に絞られた。夜中は抜け駆けする不埒な人間が現れることを警戒して、おちおち眠ることもかなわず、昼もまた不意の来客に漁夫の利を得られることを心配していた。
 さて元旦の朝になると、母が雑煮を椀に盛り、お節料理を配ってくれる。黒豆や伊達巻きや蒲鉾は眼中にない。もっとも、父が黒豆に並々ならぬ執着を示していたのだが、これは全くの無風選挙区となった。白磁の皿に大匙二杯のきんとんが載っている。むむ、あいつのは小粒のが三個だが、俺のは大粒とはいえ二個。言祝ぎのひとときの平穏を守りつつも、内心は穏やかでない。私には、好きな物を残しておいて、最後にじわじわと食べるという習慣がある。これが大抵は不幸な結果をもたらしていた。
 なぜかと言うに、上の妹は逆だからである。黄金色の糖衣をもとったマロンに優しい視線を投げかけながらも、私の手は牛蒡と蓮根に向かう。その一方で妹は第一次配給分をあっさり平らげ、「お代わり」と臆面もなく皿を差し出している。私の頭の中では秒針のせわしい音が聞こえてくる。早くしないとまずい、と分かっていながら、いつでも食べられるハムや里芋につい箸を伸ばしてしまう。長男という立場上ほどほどに無欲を装う必要もあったのだ。
 さて待望の栗菓子にとりかかろうとすると、すでに彼女は二回目のお代わりを終わっている。お雑煮も手をつけず、好きなものへ屈託のないこだわりを示した結果だ。下の妹は、系統性を全く無視してあらゆる物を頬張り、箸の動きと歯の往復運動がシンクロナイズするほどであり、弟などは、イモの部分を割愛して核心の栗に迫るという鋭い寄せを見せている。それぞれが余人の追随を許さぬ自分の流儀に従っていた。しかしながら、ここから思いもよらぬ逆転劇が展開することを誰が知ろう。母は見逃してはいなかった。「あなたの分無くなっちゃうから、とって置くよ」と別の皿に盛るのだが、こういう場合多少の同情が混じっていささか多めになることを妹たちは知らなかったようだ。後年母は一策を講じる。栗をつぶしてイモの中にまぶすようになった。そのためか、戦いは下火となり、やがて甘いものへの興味が薄らいでからは、めっきり需要も減った。
 信濃川沿いに新潟から飯山を経て小布施の町に入ると、栗かの子で知られる竹風堂がある。ここの三百八十円のお汁粉は小豆ではなく栗みつをベースにした、余所では得難い上品なものなのだが、そのお汁粉を啜っていると、妙にそわそわした気分になる。周囲の人間とあたかも競争しているが如き錯覚にとらわれる。習性とは恐ろしいものだ。
 

[33年後の注釈]

1)読み返しながら、そう言えばもう久しく正月のお節を楽しんでいないなあ、と考えた。ホテルや料亭、そしてコンビニまで、今ではお節料理は買うものだ。子供の頃イモの裏ごしや煮しめ、製作過程を楽しもうと思えば、いまでも変わりはないのに、もう過去のこと。子供時代の正月体験は半世紀以上前のことだけど、当時でも買い物ですませたものもある。蒲鉾や玉子焼きは大晦日の早朝に築地の場外商店街まで買い出しに出た。
2)黒豆と黄な粉餅は父の好物。きな粉はトーストや中村屋の甘食にも塗るほどのご執心。正統派のお雑煮ではなく、餅の中味だけを割り箸で抜き取り、砂糖醤油をつけて食べるのも父ならではの食べ方だった。このエッセイを書いた独身時代は、新潟のおろし餅を知り、これは今でも好きな食べ方になっている。餅を油で揚げて大根おろしと醤油で食べる方法だ。
3)上の妹は周囲に構わずに幼児の頃より好きなものに向かって邁進した。たとえばこんなことがあった。成城学園前の蕎麦屋でのこと(父と兄妹弟の四人は成城学園に通っていた。父の母校でもある)。親の懐具合を察して私はたぬき蕎麦、下の妹はカレー(彼女のカレー好きは生涯一貫している)、弟は親子丼を注文するなか、上の妹は平然と「鰻丼」(今から思えば多少は気遣って鰻重でなかったのかもしれない)。全員非難の視線を送るも、妹は「今日は鰻って決めていた。でも悪いから次回は水だけでいい」。父はその日は水だけだった。
4)小布施・竹風堂の栗あんおしるこは、今は 583円だった。夏限定で栗みぞれ(かき氷)も583円。御代田の山荘と新潟を往復するときの要衝の地。栗強飯もよく買う。それにしても栗だけで見事な観光地化。新潟の村松も栗の生産量は多いのに。さすが教育県・長野の面目躍如。竹風堂にはランプと灯りの博物館が併設されているし、近くには北斎館がある。晩年、北斎は小布施に寓居。寛政の改革の煽りを受けて。
 

第25話 鈍行列車が好きな理由

 ここ数年新幹線に乗っていない。発車する間際の気分など、ジェットコースターに乗る時の緊張に似ていて、別に嫌っているわけではないのだが、特急料金が何に対して支払われているのか考えると、不愉快な気持ちになるからだ。あまりにも速過ぎて景色を見ることができないし、早く着き過ぎて碌に本を読めないし、浮いた時間は大抵パチンコ屋で潰すから更なる出費を余儀なくされる。途中下車して湯沢の江神温泉浴場に行くだけで、特急料金は割り増しを請求されるし、向かい合った六日町のお婆さんから野沢菜を勧められるなんてことはありえないからだ。だから、東京に出るときは、ほとんどが各駅停車。
降りしきる雪の中を走る普通列車の窓際に陣取り、水筒につめた酒と殊勝にも早起きしてこさえたシメジとベーコンのバター炒めの入ったタッパーを小わきに置いて、昨年十二月に福島市男氏から頂いた「野坂恒如評論集」をひざの上で開く。ううむ、鈍行列車を愛用する大先輩が新潟にいたのか!メシャムパイプを燻らせながら名うてのジャズ演奏に耳を傾ける愛好家であると同時に、諧謔の妙味を知り抜いた洒脱のエッセイストであった故野坂氏の謦咳に接することができず、返す返すも残念だ。本を閉じ、そろそろ湯沢に到着するので手拭いを用意する。
 湯上がりのビールは冬とて欠かすことができない。つまみは東口で買ったホタテの浜焼。水上行きに乗り換えて、二冊目の本を取り出す。長谷川昭一氏による珠玉の登山随筆集「星はやさしく降る」をようやく読む時がやってきた。自らの足で高度を稼ぎながら山奥に分け入った人間のみが知ることのできる自然の恵みの素晴らしさが、行間から惜しみなくあふれる出色の紀行文である。医学部学生時代の氏とは深夜の大学でよく顔を合わせたり、登山をともにして頂いたこともあるが、越後の藪山からヒマラヤまで制覇してしまう彼は、屈強の快男児というよりは、名もなき峰々を敬虔な信仰をもって巡礼する修道士のごとき雰囲気をもっている。うん?もしかすると、これは!十五頁になんと梅花皮(かいらぎ)沢を他人に荷物を譲りながらもどんじりであえぎ登っている私のぶざまな姿が写っているではないか。
 俗事を超越した二冊の本を読み終わると、高崎の町に近づいていた。さて、次の本をという時に重大な俗事を思い出した。電気ストーブをつけっぱなしで来てしまったらしい。ホームから慌てて電話すると、留守番電話の私の慇懃無礼な声がする。ほっと胸をなでおろす。まだ焼けてはないようだ。仕方なく上京は諦めて、踵(きびす)を返して下り列車に乗り換える。はや日の暮れかけた六日町から風呂敷包みを背負ったお婆さんが私の前に座った。ちょうど埃が目に入ったため右目を押さえている私に向かって何事かつぶやき、突如私の顔を引っ張りこんで、ぺろっと舐めてくれた時ほど驚いたことはない。恐ろしくて火事のことなどすっかり忘れてしまった。各駅停車ならではの事件である。
 

[33年後の注釈]

1)  今でも新幹線は好きではない。客層がどこか自分と違うという感覚があるし、線路の継ぎ目の関係か、普通列車にはある心地よい振動がない。急ぐとき以外は今でも各駅停車だ。
2) 湯沢の江神共同浴場は現在も営業している。入湯料金400円はこのエッセイの頃の200円からは上がっているが、それでも泉質といい雰囲気といい絶好の命の洗濯場だ。少し歩くと麺処・中野屋がある。ここでへぎ蕎麦を食べることが恒例となったきっかけは坂井健君のおかげ。海草をねりこんだ越後の名物そばだ。温泉街をずっと線路沿いに歩くと旅館「高半」がある。川端康成が「雪国」を執筆したときの部屋「霞の間」を見学できる。
3) 野坂恒如氏は野坂昭如の兄でジャズ評論家。私よりは一回り上の世代でこの時代には上野行きの夜行列車があって、それに乗って上京していたらしい。井原西鶴、織田作之助、野坂昭如の文体の系譜は、私が手本とするものだが、なかなか真似できない。
4) 長谷川昭一君は新潟大学の哲学科を卒業してから、医学部を受け直し、その当時はすでに赤十字病院に勤務していた。だが登山の会には必ずやってきてくれて後輩の指導(もちろん登山の)を手伝ってくれた。ヒマラヤ登頂のときのインタビューで、どこが苦しかったですかの質問に、成田空港でコンコースを歩いている時と答え、平地を歩くのはしんどいからと言っていた。飯豊連峰を日帰り縦走を達成した怪物。ほとんど走って踏破した。食事を走りながらおにぎりだったと言う。
5)梅花皮沢の雪渓を登ったときのメンバーには、文化人類学の上田将先生(ケニアのカンバ族の研究者で現地の酋長でもあった)、山影隆先生(英文学、若くして逝去された)そして隊長の深澤助雄先生(古代中世哲学の大家で登頂するとラテン語のテキストを読み出す)。あとは人文学部人間学講座の学生たち。いや山内志朗先生もいたはずだ。彼は誘いを断ることがないですから。山育ちなので苦も無く登っていたはず。
6)電気ストーブで良かった点もある。倒れなければ燃えたりはしない、という計算はあった。実際夜通しつけっぱなしのことが多いし、人がいるいないは万一倒れた時のみ関係してくる。でも気になるままでは上京できず、帰ってみたらストーブは切ってあった。
7)目を舐めてもらうという奇異な体験は、実は二度目なのだ。幼少時に空き地で草野球をしているときに、目を痛めてしゃがんでいたら、通りがかりの(やはり)お婆さんが「ちょっと、見せてみい」と言ってやおら舐めてくれた。その時は怖くなって泣いて帰ったけど。

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