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遊び感覚 31話~35話

第31話  幼なじみの葉子ちゃん

 どこから話したらいいだろう。私の身辺に起きた事件の中でも、奇縁ということでは、何ものをも卓絶しているからだ。今から二百年前に、ウィルバーフォースという有名な奴隷解放論者が英国にいた、という事実と、秋田に私の友人Tがいたという事実が不思議とつながってくる。まあ、落ち着いて語ろう。長いけれど辛抱して聞いてほしい。 私と葉子とは、生まれる前から互いを知っていた、というのは彼女の言いぐさだ。双方の母親が親しかったこともあり、同学年の私たちは幼少のころから、よく行き来した。中学、高校は同じで、頻繁に会ってはいたが恋仲にはならなかった。それ以上に親しかった、という方がおそらく正しいだろう。葉子の好みは革命家であった。彼女の交遊録を書くとなると、きっと三里塚から東欧民主化に至る、錚々たる運動家の列伝をものすることになるだろう。 大学院に進み、進化論の提唱者ダーウィンが論敵ウィルバーフォースと泥仕合を展開するくだりを、私が講義で聴いているころ、葉子はアル中の詩人ディラン・トマスの世界に浸りながらも、奇妙なことにウィルバーフォースの末裔アレックス君と逢瀬を重ねていた。その二人を頼ってアレックス君の妹ソファイアがやってきたのが、ちょうど私が新潟に赴任した六年前(1984年)のこと。新婚同様の生活を送っていた彼らは、プライドだけは天より高い没落貴族の娘をもてあましていた。その揚げ句、私が一週間ほどソファイアを預かることになったわけだ。と言っても、当時、私は一間のアパート暮らしだし、一計案じて、彼女のために東北一人旅を企画した。仙台、弘前、秋田をまわりめぐって新潟に至る、詳細な列車の連絡時間表と、想像しうるあらゆる状況での会話をすべて、英和両方の文をカードの裏表に書き込んで渡し、後の世話は各地の友人に託すことにした。 無事に日本訪問も終えて帰国してから、悩みこんだのは秋田の田中康久であった。アングロ美人にからきし弱い黄色人種の欠点が露骨に出てしまった。彼は翌月休暇をとって、英国ヘルフォードシャーまでソファイアを追っかけていった。 その後田中君は何事もなかったように同僚と結婚し、また葉子の方もケンブリッジに留学を果たしてから、チェコからの亡命学生ヤンと親しくなり、英国国教会のチャペルで挙式した。ここに至り、ことはうまく収まったかに見えたのだが、最近、意外な事件が起こった。アレックス君の祖母が亡くなり、遺産相続のことで訴訟がもちあがった。ソファイア一家が祖母を拉致していて、強引に遺言を書かせた、という親族からの訴えがあったらしい。すでに一児の父親である田中君は、かつて訪英した際に見聞きしたことを証言するために、来週旅立つ。かりそめの恋のつけを今になって払うわけだが、本人は費用を向こう持ちで旅行できると喜んではいた。 この一件と前後して、葉子は激動の東欧が生んだ思索家との間の子のお産を今春控えている。辛夷(こぶし)の花のつぼみの合間から、うららかな春の青空がほの見える季節に、異国の地にある親友の幸福を祈って、一人シェリー酒で乾杯することにしよう。

[33年後の注釈]

1)  ダーウィンの論敵だったサミュエル・ウィルバーフォース(1805-1873)と、奴隷解放論者のウィリアム・ウィルバーフォース(1759-1833)の姻戚関係はよく分からないが、葉子ちゃんの彼氏は後者の末裔だと聞いた。五百年前に建てた実家は客間が百以上ある石造りの大邸宅で、何でも税金が払えなくて家族は敷地のテントに住んでいる、と言っていた。後から田中が訪英したときはそのテントに泊めて貰った。後の話では手放して現在は博物館となって、その管理をしているらしい。アレックスは東京に残した私の都営アパートに一時住んでいた。
2) 中野葉子は現在でもちゃんづけで呼ぶ、まるで親戚みたいな二人のうちの一人(もう一人は飼猫の話で登場した綾ちゃん)。ご母堂(旧姓甲斐田)絢子さんと私の母親(旧姓三浦)國は津田塾大学在学時の友人。同年に子供が生まれ、家も近かったので、兄妹のように育った。葉子は青山高校から母たちと同じ津田塾大学に進み、英国留学しオクスフォード大学で英文学で博士号を取得し後に、奇しくも私と同業になった。弟のさっちゃんこと中野聡氏とは彼女の家でよく「恐竜ごっこ」をして遊んでいたが、それ以来半世紀以上会っていないうちに、歴史学者となり、神戸大学から母校の一橋大学に戻り2020年から学長になったと聞いたが、余り関係のない話だ。学者商売の話は親しい人間とのあいだでは滅多にしないし。
3) 青山高校時代の葉子の恋人は長谷川君という長髪のおとなしい、虫も殺せないようなやさ男だった。他にも常に男友達がいたし、そのことをわざわざ教えてくれた。いつだったかストーカーにつきまとわれて、そんな時に限って「今日は一緒に帰って」と言ってきたり、津田の大学祭のときは、「今は決まった人がいないから、飾りでいいから一緒にきて」と誘われたりした。双方の母親は二人がくっつくことを望んでいただろうけれど、そうなることを嫌だと思ったことは一度もなかったけれど、縁とは異なものだ。今年になって、私のTweet を見つけて知らせてくれた。という事はこの一文を読むことになるだろうね。何か言われるかな。そうそう、このエッセイが終わった頃に、私の母は葉子の母親にコピーを送っていて、ご丁寧に感想を綴った葉書を賜った。「なかなかよく書けているじゃない。でもね、抹香臭い話をしているその最中に、袈裟の下から鎧が見え隠れするぞ」。こんな文だったか。
4) ソファイア(Sophia)は困った子だった。一人にすることができない。新潟では最初は私のアパートを譲り、私は大学の研究室で寝ていたが、食事のこともあるし、燕の知人渡辺恵波宅に二週間ほど預かって貰った。恵波さんは成城学園高校時代に私の父の教え子だった人で、独身時代から現在にいたるまで家族同然のつきあいをさせて頂いている。ソファイアの東北単独旅行の世話は、当時、弘前大学医学部に在籍していた山下智彦(既出)と、林野庁の役人で秋田営林署に務めていた田中康久の二人に任せた。山下が紳士的に応対したのとは反対に、田中とソファイアとの間には何かあったみたいで、双方気に入ってくれたのは良い事と黙っていたが、兄貴にどう説明したものか結構やきもきした。

第32話 血液型性格診断

 ところであなたの血液型は、と聞かれるといつものことながら、うんざりしてしまう。初対面で話題に事欠いているときとか、沈黙に耐えられない人間がいるときにやたらとこの悪趣味な問いかけが登場する。人にはA、B、O、AB型の四つの血液型以外に、MやNそれにCとかQとか、他に言及すべき数多くの分類があることを知らない程度ならまだ良い。困るのは、四つの型がそのまま性格に関係しているなどと、本当に信じている人間がいることだ。 その信念の根深さたるや、この私ですら一度はその信者であったことからも分かる。私のパウロ時代とでも言おうか。道ゆく友人を捕まえては、血液型を尋ねて数百にのぼるリストを作った。冷静な科学者たらんと、しこたま観察を蓄積した揚げ句、とうとう結論に至った。A型は定住性耕作文化、B型は移動性騎馬民族文化、O型は閉鎖性焼き畑文化、AB型は上述のB型略奪民に襲撃された際の混血文化である、と。 この理論を基にして、精神がやたらと分散するB型とか、保守的で変化を嫌うA型といった性格を導いては、一人悦に入っていた私に天から声が聞こえる。私のサウル時代の幕開けである。恐ろしいことがあるものだ。大学三年の春に私の血液型が変わったのである!(担当医は以前のが判定ミスだと言ったが)以後、改心した私は、ことあるごとに懐疑の眼を向けては、あらゆるABO型性格論に難癖をつけていった。インディアンは90%以上O型だが皆同じ性格なのか、といった発想自体の欠陥を当初は指摘していたが、ある時質(たち)の悪い別の面があることに気がついた。 そう。星占いと合体するまでポピュラーとなった血液型性格分類には、人それぞれの本来もっている固有の分類行為を麻痺させてしまう、という嫌な面があるように思う。彼は味方であいつは敵。そんな単純な分類から始まって、人は成長とともに世界を分かつ方法を変えてゆく。あの人は怒る人だけど、あなたは怒らない。これも立派な分類だ。彼は空間を言葉で埋めつくす人だけど、あなたは耳を澄まして聞いてくれる人。もっと緻密になると、自分が傷ついて怒る人と人を傷つける行為を見て怒る人とか、お祭り前 ante festum の人と、後の祭り post festum の人とか、多種多様な分類の網を世界に投げかけては、人はその網の目をかいくぐって生きている。そうした、謂わば生活の知恵としてある分類はこの世に無数あり、その選択のありようがそのまま人間の個性でもあるように思う。 残念なことに、血液型にこだわる人たちは、千古の昔からあるこの生の技術を放擲しているのだ。私は、人と話すとき、世塵にまみれた古い紙幣のような言葉を決して使わず、どんなに乏しかろうと自分の言葉で語ろうとする者を好む。そして、語る相手の眼をまっすぐに、それでいて柔和に見つめる視線を愛している。血液型が何であろうと、輸血の予約をするわけでもなし、一向に構わない。 こうした私の、いささか挑発的で、個人主義の態度は、往々にして、B型人間の特徴であると言われる。そう。まぎれもなく、私の血液型はBだ。それが何だって言うのだ?

[33年後の注釈]

1) 献血でもしない限り自分の血液型は知らない人も多いのではないか。古川竹二の頃は真面目な研究テーマであったが、能見正比古の一般向けの本がきっかけで1970年代にブームになり、私のその煽りを受け乗った形で膨大な記録を作っていた。私自身はA型と思い込んでいて、マイペースのB型人間に迷惑顔で接していたところ、自分もB型で、なおかつ父が胃ガンの手術のときにB型と判明して追い打ちをかけることになった。そうこうするうちに、最近は話題にもならないので、このエッセイは古びた内容になってしまった。今でもジプシーやモンゴルの遊牧民のB型率は四十%近いことには関心がある。
2) 思い出した。英文学の故山影隆先生がことのほか血液型占いに凝っていて、会う人ごとに当て推量で「あなたはA型でしょ」とか言っていて、大抵は当たらないのにめげずに続けるので、パウロの苛烈な論難の被害者になっていた。でも大好きな先生だった。
3) パウロからサウルは誤記ではない。キリスト教を迫害していたサウルが荒野で復活したイエスに会って信仰を得る回心とは逆順なため。転向したのか、と血液型性格論の信者から言われた。
4) ante festum とpost festum の分類は、精神科医木村敏によるもの。「理想」の時間論の特集で読みかじったもの。後に村上陽一郎先生が「いつもお祭りの最中であるような型」 intra festum 型を追加して、もしかすると自分はこれかもしれないと思うこともある。

第33話 車旅は曲がってばかり

 都会の車の渋滞は、昨今いよいよ深刻になってきている。一部のドライバーは、かえって髭を剃ったり、新聞を読んだり、あるいは化粧したりする時間の余裕を持てるようになって、あながち悪いことだと思ってはいないらしいが、脇をすり抜ける自転車や二輪車よりも遅いとなると、あまり良い気持ちはしないものだ。 夏のお盆のころ、東京から長野へ抜ける国道18号線は、安中あたりから蟻が地を這うようなノロノロ運転になるのが、ここ数年の傾向であるが、一度これに巻き込まれ苦い経験をした。二時間余りピタッと止まったきり、全く動かない。事故だろうか、と最初は思ったが、そうではなかった。横川に「おぎのや」(新潟のオギノ通りとは関係なし)という釜飯のドライブインがあって、そこで弁当を買いに寄る左折の車と、駐車場から出てくる車で混んでいたのが主たる理由だ。だからと言って止まってしまうのは、どう考えても解せない。停止してしまったのは、なんと渋滞に業を煮やした家族連れが、おそらく郷里で遊ぶつもりであった花火を出して、道路の真ん中で楽しんでいたからだ。周囲の車も、混雑に慣れていて、静かに見守っていたらしい。 こういう経験は繰り返したくない。私が間道を重視するのは、ひとえに渋滞を避けるがためである。新潟から関越自動車道経由で練馬に出て、環状八号線を右折して世田谷方面に向かうルートは、ここ数年利用していない。薄手の文庫本一冊は読めるほど混んでいるからだ。料金所から立体交差を渡って最初の交差点で大泉学園方面に右折して、最初の信号で左折、しばらく行って消防署を眺めながら右折して西武池袋線を渡り、中学校の角を左折してどこまでも直進するのがお決まりのコース。JR西荻窪駅の踏切を越えると一方通行の表示が行く手を阻むが、そこでめげてはいけない。左折して戻るハンドルをそのまま返して右折すると、五日市街道にぶつかる。さらに突っ切り、井の頭街道もよぎり、久我山の住宅街の隘路をすりぬけて、甲州街道までひたすら間道を急ぐ。弟のアパートのある用賀まで、十数キロの距離を二十回以上は曲がるのだが、半分の時間で済む。 このような抜け道の開拓には、実を言うと、涙ぐましい努力の積み重ねを伴う。埼玉県を南北に走る国道254号線の小川付近の私的バイパスを探究している折、素晴らしい道を発見した。数珠つなぎになった哀れな正統主義者の車を遠望しながら、信号のない畑の中を快適に突っ切る田舎道だ。しばらくすると、川沿いに走り出し、心配し始めた途端、陸上専門の愛車のわきに濁流が渦を巻き始めたのである! タクシーとなると、この道の先達であることは否めない。突如ウィンカーを出して側道に逃れたりすると、これは近道だと思って追いかけるのが定石だ。快調に距離を稼ぎ、次第に街路が細くなってくる。もしやと思うまもなく、タクシー運転手の自宅に着いたりする。五十嵐の自宅から新潟駅まで、二十通りのルートを発見するまで、おそらく、延べにして十キロ分はバックした勘定になるのではないか。升田幸三の言葉をもじって言えば、新道一生ということになろうか。

[33年後の注釈]

1) 国道18号は子供の頃からお世話になった。用賀の自宅から山荘のある御代田まで家族六人(時には祖父や祖母を乗せて)で移動。高速道路のない昭和四十年代からだから、最初は高崎まで国道17号でそこから18号を左折し、おぎのやの前を通って碓井峠越えをした。17号が混むようになると中山道254号を利用するようになり、下仁田から中込へ抜けることもあった。ドライブインに寄るのが子供にとっての楽しみ。今は昔の話。高速のサービスエリアは味気ない。
2) 独身時代は新潟と東京の実家を車で往復することが多かった。高崎~六日町間はまだ高速がつながっておらず、前橋、沼田を抜けて三国峠を越えるルートは都合360キロ。これを七時間ほどで走り抜けた。猿ヶ京温泉や法師温泉が途中にあるので旅塵を落としに寄ることもあったし、渋川から水沢観音方面に曲がって水沢うどんを大沢屋で食べてから伊香保温泉に行くこともあった。
3) 練馬インターから用賀のアパートまでの道順を、今だったら、古今亭志ん生の「黄金餅」の口調で書いたかもしれない。志ん生の麻布までの道順は「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっすぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた」。書いたら、また聞きたくなった。談志はこれを繰り返した後で、現在の住所表示でやり直していて、これも聞き応えがある。
4) 用賀のアパートはまだ木造平屋時代に家族で住んでいて、1974年に町田に引っ越した後は母方の祖母・三浦とくが独居していて、大学院に進んでからは私が同居し1979年から鉄筋アパートに改築された。1984年に新潟に移ってからも、山下智彦一家、ウィルバーフォース君が寓居した後、弟が住んだ。
5) 親のお古を譲り受けて車はセドリック、ルーチェを大学時代から乗っていて、大学院のときに中古車だが初めて自分で買ったのがマツダ・コスモ。池袋で芝居に出ているころにぶつけられて、どんな気分だった忘れたが、赤かった車のボディーを白に塗りかえた。新潟で雇われてからは、ルーチェ、マツダ・ボンゴ(中古で購入8年乗った)、フォードのワゴン車スペクトロン(これだけは新車で購入17年間17万キロ乗った)。2014年に高速道路で走行中にワゴンのエンジンが燃えて、中古のブルーバード(2年)、ストリーム(6年)と乗り換えて現在は、車検費用よりも安い5万円で入手したベルタ(傷だらけで刑事コロンボの乗るプジョーに似ている)。ワゴン車歴は25年で8人乗りをフルに行かして北海道から九州まで学生と旅行をした。
6) 升田幸三は第四代実力制名人で、米長邦雄と同様棋風が好きで、どちらも全集、選集(棋譜を収録したもの)をもっている。升田は「新手一生」という言葉を残し、終生新しい定跡をもとめ続けた。棒銀の後手5四角に対する、先手3八角など、と書いても分からないでしょうけれど。

第34話  視線に言葉は要らない

人の信頼はどのようにして生まれるのだろう。うらぶれた夜汽車の旅の途次、いかつい顔の兄さんが懐中より果物ナイフを取り出し、これはリンゴを剥くためのもので、決してあなたに害意を抱いていないのだと、ハスキーな声で言ったとしよう。かえって直截に語られてみると背筋にうら寒いものを感じてしまう。言葉を文字通りに受け取れば、安心できる場合でも、それが素直に信頼に結びつくわけではなさそうだ。 恋する相手が何故に自分を愛してくれるのか、百カ条の項目に分けて滔々とまくし立てたりすると、逆効果は一層大きいことになろう。愛してなどいない、と疑ってしまうかもしれない。言葉が一条の光だとすれば、信頼とは人と人とのはざまに揺曳するかげろうのようなものだ。永の年月を経てぼんやり浮かんでくるものもあれば、電光のように瞬時に生じるものもある。人類が信頼を肌で感じ、そのぬくもりの中で憩いの日々を送るようになったのは、おそらく言葉の発明よりはるか昔のことだろう。石器時代の野性の仲間たちは、何かを縁(よすが)にして信頼の垣を築いていたはずだ。 それは、視線と深い関わりをもっていたのではないか。こう思うようになったのは、つい先ごろ「アマデウス」の原作者シェーファーの初期の芝居「他人の眼」を観てからである。男の存在を疑い始めたインテリの税理士が、探偵に妻の尾行を依頼する。妻は尾行者に気づき、二人は沈黙の静寂(しじま)の中で見つめ合うようになる。女はいつしか安らいだ、夢見心地の自分を見いだす。恋をしているのだと知る。言葉を操ることに巧みな夫が得られなかった信頼を、視線を溶かし合うだけで、決して言葉を交わさない二人が、真空の坩堝(るつぼ)から結晶させてしまう話である。  映画「天井桟敷の人びと」の冒頭シーンで、ガランスの笑みを自然に引き出したのも、人なつこい男、フレデリックの視線であったことからすれば、われわれは、自他の視線を重ね合わせ、提琴のように共鳴しあうことによって、何ものも侵しえない信頼の絆をつくることができるのかもしれない。 私の身にも、そう何度も起こることではないが、これまで位相がずれて虚空を彷徨ってばかりいた視線が、はにかみながらも、とうとう一つの温かい塊へと凝固したことがある。そのような場においては、言葉は不要だ。言えばすべてが嘘になるだろう。相手の少女も分かっていたろう。信頼とは、そんなものだと思う。 もちろん、人それぞれ視線には個性があり、親和の魔法が成立しないときもある。いつだったか、新宿歌舞伎町で終電に乗り遅れ、場末のごみに躓きながら、誰とはなく語りかけたい衝動にかられながら、酔いの廻った足をふらつかせていた折、悪趣味な紫のネオンの陰から四十がらみの男がやってきた。ふと、二人の視線はビームのようにぶつかりあった。男は、うん?と不思議そうな顔をして近寄って来たが、私が他人であると分かると、「俺の顔に何か文句あっか?」とひどい剣幕で私の襟首をつかんだ。「すいません、小学校の友達によく似ていたもので」。しどろもどろに言い訳し、その場は逃げたが、本当は何かが通じていたのだろう。惜しいことをした。

[33年後の注釈]

1) 怖い人と視線があうことは、そうあるものではない。夜汽車のボックス席では互いに何か通じ合うものが欲しくなる。信州のおばさんは籠から煎餅や漬け物を取り出して勧めてくれるし、秋田の行商人は私を無職と決めつけ仕事の世話をしてくれそうになった。新幹線ではこういうことはない。在来線の廃線が相継ぐことは悲しいことだ。
2) アマデウスはこの頃に、モーツァルトを江守徹、サリエリを松本幸四郎で、池袋サンシャイン劇場で見た。たぶん葉子ちゃんと一緒。「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」も同伴というか誘ってもらった。英米文学には一家言あって、とにかく説明が凄かった。「他人の眼」の展開は想像がつくが、言葉を交わさない赤の他人の方に信頼を寄せる、という観察は若い頃の自分には新鮮であった。
3) 「天井桟敷の人びと」を見たのは最近が三回目。ジャン・ルイ・バーローのしなやかさと哀しさ。この頃、五反田でマルセル・マルソーの公演にも行った。ビップという演目が可笑しくて哀しくて涙を流した。日本人のマイムはヨネヤマ・ママコさんの演技を武蔵関で。芝居や舞踏を見まくっていた良き時代。自分をまだアマチュア演劇をしていたし。
4) この心を通じ合った少女。この連載記事を読んでいた学生だったので、本文では少女とした。二年前に癌で逝去した石田純子さん。私の二番目のゼミ生で在籍した二年間のテーマは「幸福論」「ユートピア論」。卒業後は大学院に進んで、私が指導教官となり南方熊楠の論文を書いた。石田さん、山内さん、深澤先生夫人、ご子息と私の五人で田辺の南方熊楠記念館や生家を訪れた。私が院生のころに、教え子と恋愛関係になることはモラルに反する、と村上陽一郎先生に言われていて(先生自身、上智大学在任時の教え子の公子さんと結婚していることを差し置いて)、端から学生に懸想することはなかった。たぶん言われなくてもそうしたと思う。
5) 歌舞伎町で怖い人に絡まれた経験は他にもある。午前2時のラーメン屋でガニ股の兄さんがポケットからくちゃくちゃの紙片を取り出して「これ、ポイント、押してや」と言ったときに、つい笑ってしまった時だ。これと同じ設定のコントをテレビで見たことがあったためで(もう解散したホームチームのライブネタ)、事情を説明したら満更でもない風だった。

第35話 冷したぬき蕎麦

冷したぬきそばを百日以上続けざまに食べたことがある。駒場の満留賀というそば屋でのこと。揚げ玉が好きだということもあるが、ワサビの効いた濃厚なつゆで、胡瓜と蒲鉾の千切りの入ったそばを啜っていると、講義などサボっても構うものかと、奇妙な勇気が湧いたものだ。新潟ではこのメニューにありつけず困っているが、概して、私はそば好きであり、旅行すれば必ずと言ってよいほど、その土地のそばを食べる。 たとえば、長野、松本経由で名古屋に出る場合、最低、三度はそば屋の暖簾をくぐることになる。長野で途中下車して善光寺詣でのついでに一杯、松本に出ると大糸線で穂高まで赴き、大王ワサビ園直営のそば屋で涙まじりの一杯、いつものことながら各駅停車の旅のため木曽福島駅では大抵時間待ちとなるが、川縁に水車の古風な店「くるま屋」で透き通るほど瑞々しい手打ちそばを一杯。 もっともそばと言えば東北が本場だろう。平泉駅から中尊寺に抜ける街道沿いの泉屋には、四度は行っただろうか。耳で味わうそばがここにはある。お品書きに「泉そば」というのがあり、今では千五百円もするから迂闊に頼んだりできないが、誰かの客の一人が注文すればそれで十分だ。内容は、そば寿司、そば菓子などが並んだそば尽くしなのだが、そこへ主人がやってきて厳かに由来の説明を始める。なんでも、義経が昔この地で西行法師と会った際にそれを振る舞ったそうだ。主人の語り口は真に迫りすぎていて、まるで義経が知り合いであるかのような口ぶりだ。ちょっと真似のできない芸だけに、後継者がいなくて困っているらしい。 盛岡のわんこそばは、つい先ごろ学生たちと一緒に試してみた。市内の直利庵という名の通った店で、普通のメニューとわんこそばとでは入口からして違う。和室に通されると、よだれ掛けみたいなものが配られる。椀が空になると、間髪をいれず、お代わりが投げ込まれ、その時に汁がはね飛ぶからである。この投げ込み方は犬猫に餌をやるような投げやりな、屈辱的な印象を受けた。食べ放題で二千円ということで、つい力んでしまい、93杯と食べ過ぎてしまった。二百三十杯という記録があるらしいが、小錦(当時は大関)みたいな男だったに違いない。 私はそば殻ごと一緒に挽いた挽きぐるみが好きだが、会津若松の桐屋さんでは、枚数に限りはあるが、一番粉(中心の胚乳部分)だけで練った白いそばを食べさせてくれる。ものの試しに食べに行った時のこと。ちょうど店の子供が学校から帰ってきた。「お母さん、晩御飯はなあに?」。客が一斉に注目した。そば屋の女将になるため幼少からそばばかりを食べさせているなんてことがあったら、それは行き過ぎではないか。緊張の空気が流れた。「スパゲッティーよ」という返事を聞いて安心する。 冷したぬきそばに劣らずこだわりを持っているのが、カレー南蛮そばであり、しばらく食べていないと禁断症状になることすらある。カレーの中に浮かんだ玉葱は異様に甘く、麺はぎらりと光って食欲をそそる。どんよりした沼の下に往古の怪魚がひっそり棲息しているかのようだ。この雰囲気がやめられない。

[33年後の注釈]

1) 駒場にキャンパスがあった大学一年から二年、本郷で二年過ごし、大学院で駒場に戻り更に四年過ごしたので、通算六年は満留賀のお世話になった。痩せと太っちょの二人の姉ちゃんがいて、狐姉ちゃんと狸姉ちゃんと勝手に呼んでいた。その狸姉ちゃんは顔なじみで、私が戸を開けると「冷したぬきそば、一丁!」と叫んでくれた。ここのたぬき蕎麦は、言うなれば「いたワサたぬき」で、蒲鉾とたっぷりのワサビが最高の取り合わせだった。数年前に閉店したことをネットニュースで知る。狸ばあさんは元気かな?
2) 新潟では大学の正門前にながらく讃岐うどんの店があり、新潟大学前駅下に一時期そば屋があったが今はない。たまに古町に出かけたとき蕎麦屋「山文」に入るが、当時は冷したぬきがメニューになかった。今ではコンビニでも見かけるポピュラーなメニュー。隔世の感がある。
3) 大王ワサビ園は碌山美術館に立ち寄った折に訪れることが多い。ワサビ園と古墳があるだけの施設に、さまざまなワサビ関連商品があって、当時「ワサビソフトクリーム」は全国的にも珍しいものではなかったか。ワサビドレッシングがお気に入りで必ず買って帰った。
4) 木曽福島のくるま屋はその後二度ほど訪れた。今は街道沿いに広い駐車場のある支店がある。ここのもりそばは麺の上に生卵が載っていて驚いた。鶉の卵ではなく。藤村記念館が近くにあるし、夜明け前の舞台となった土地だから、藤村も立ち寄った可能性はある。そうだ。大関御嶽海の地元で今では町内のいたるところに写真が飾られているし、母上のスナックもあった。
5) 泉そばよりも平泉駅に停車していたバスが旧式のボンネットバスだったことが印象的だ。五年前に再訪したときはもうなかったけれど。
6) 直利庵のわんこそば体験は、1989年に学生と山内先生との東北旅行でのこと。ビデオが残っている。男子学生は、山之内君と大井君とあともう一人が思い出せない。女子学生は、すでに登場した故石田さんと一倉忍さん。そばを食べて苦しい状態で運転してこの日は小岩井牧場に泊まった。宿泊と言っても敷地内に置かれたブルートレインの寝台車での宿泊。ただ翌朝の牧場の朝食は素晴らしいものだった。
7) 会津若松の桐屋は何度も行った。一番粉だけの白い蕎麦は「高遠そば」と言って、保科正之が高遠藩から転封されたときに信州のそば職人を連れてきたことに由来するらしい。今でもあるはずだ。
8) カレー南蛮そばについて語るとなると、かなりの文言を要することになる。日本の食文化の冴えたシンクレティズムの好例だろう。一味をたっぷり入れて涙を流しながら食べる。書いていたら明日にも食べる気分になってきた。
9) それにしても、33年前の独身時代は、新しいタイプのラーメンをもとめて旅をしたりしなかったことに驚く。大学近くのくるま屋の辛ネギラーメン、長野県のラーメン大学くらいだ。一つにはバターを載せた札幌ラーメンくらいで、あまり新奇な工夫がなかったことと、もう一つは、中野の青葉を代表とする「豚骨魚介系ラーメン」が一世を風靡する前だったこともあるだろう。わんこそばを一緒に食べた山内さんとも、ラーメンを熱く語ったことはなかった。されどわれらが日々じゃなくて、今はラーメンTweetをして楽しんでいる。

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