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あのたび -ろうそくとおもてなし-

 朝、パンと茶までもらい感謝をして民家を出る。東ティモールの一般的な庶民家庭よりもよほどごちそうになり歓待された。が去り際、特にお金を請求されたりもしなかった。純粋に外国からの客人に喜んでもらいたかっただけなのか。頭が下がる。

 泊めてくれたおじさんの弟さんはポリスで、プレジデントオフィスで働いていると言っていた。大統領のオフィスということはおよそこの国で一番偉い要職だろう。制服がかっこよくきまっていた。

 バウカウ(Boucau)からロスパロス(Lospalos)へ2$で移動。東の内陸にに向かった。宿を探すと10$と8$。微妙なので保留。その辺でパン1個5¢、焼き魚10¢。

 原っぱで少年たちのサッカーを眺める。空気入れが無いのかボロボロのボールを蹴っている。独立直後のこの国ではボール1個すら貴重なのだろう。もしこの国に手助けするなら、サッカーボールをたくさんあげたいな、なんて思った。

 ベンチでぼーっとしていると青年に声をかけられ、私設のラジオ局へ誘われた。そこにはPCやミキサー、マイク、テープ、MDまで置いてある部屋があった。今は放送していないみたいだが、独立のための行動をラジオで行っていた活動家のようだ。彼はいかついヤンキーのような姿でちょっとカツアゲされるのではないかと怖かった。

 その後、夜になり彼らのアジト!へ連れて行ってもらった。コンクリートの床ではあるが布団と毛布もある。赤道直下とはいえ山の上は朝晩冷えるのだ。そのアジトではリーダーの、東ティモール独立までの活動を撮った写真があった。ヨーコさんという日本人もリーダーに共感し迷彩服を着、銃を持ち、共に戦っていたことがあるという。独立の前後にリーダーは日本を訪問もし、東ティモールの現状を訴え、日本には東ティモールの独立を支援する団体もあったという。

 ちなみにボクがこの国を知ったのは『地球の歩き方』東南アジア編を読んだ時が初めてで、もちろん独立のことなど全く無関心でその事実すら知らない有様であった。

 翌日、今度は南のビケケ(Viqueque)まで行こうと思うがバスは無いと言われる。歩きながらヒッチハイクでもしようと考えた。途中、店とも言えない所で麺をもらう。

 トラックが通りかかる。カカベン(Cacuvem)までなら乗せてやると言われ75¢支払う。少しでも距離がかせげるならありがたい。地図には大きな町の地名しか書かれていない。カカベンがどこなのかもさっぱりわからない。

 トラックを降ろされ道沿いを歩く。

 あー、バスがない理由はこれか! 橋が落ちているのだ。もちろん車は通れない。トラックがここまでしか乗せてくれないのはそのためだった。おそらく内戦の影響で破壊されたのであろう、この橋は。無残な状態だ。

 幸いなことに川の水量は少なく深さは膝程度だった。ズボンをまくりあげ濡れながら川を渡る。いったいこんな国に来てボクは何をしているのだろうか。

 それから道沿いに歩き山をいくつ越えただろうか。山と木しか見えない。

 暗くなる頃にバイクに乗ったおじさんに拾われた。どこへ行きたいのだというようなことを聞いてくる。コマンダーポリスだという。制服を着ている。ビケケは遠くていけないと言いオフィス近くの家に泊めてくれるという。家と言っても隙間風が吹く掘っ立て小屋のようなもので、パイプ椅子にビニールシートを張ったような狭いベッドらしきものしかない。

 そこに荷物を置かせてもらい、エンジニアをやっているという弟の家に招待される。ごはんと鳥をいただいた。飢えそうなほどお腹が減っていたのでありがたい。がその鳥はいまそこにいた鳥をさばいたものだった。貴重な家畜をボクのために殺して提供したのだった。

 話を聞くともうひとりの兄弟はインドネシア軍にいるという。複雑だ。東ティモールが独立したため別れ別れになってしまったのか。コーヒーもいただく。ありがたい。

 夜は村に電気がないのでろうそくを灯していた。そのろうそくもまっさらに新品で使った形跡がないものだった。よほどの緊急の時しか使わないものなのだろう。それをボクのために使ってくれた。

 外国からの旅行者だとはいえ、正体もわからぬボクのためになぜこれだけの歓待をしてくれるのだろう。明らかにボクより貧しくその日を暮らすのもやっとの生活だろうに。しかもお金を要求するわけでもない。ただただ親切なのだ。

 振り返って逆にボクが日本に居たとして、見ず知らずの国から来た外国人にこれだけのもてなしができるだろうか? いや絶対にできない。

 複雑な思いを抱きながらろうそくの火を消し、固く蚊の多いベッドで横になった。

東ティモールルート


(つづく)


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