あのたび -はじめての交流とムラピ山-
インドネシア・ジャワ島のムラピ山は2ヶ月前の2023年5月に噴火し溶岩が流れ出した。近年でも2006年、2010年にも噴火した活火山で火砕流が流れ数百人が亡くなった。
2003年当時のボクはこの山が活火山だとは知らず、気軽な気持ちで登ろうとしていた。高さとしては3000メートルほどで富士山よりも低い。1日かければ登頂できるだろうくらいに考えていた。
登山起点の町セロ[Selo]へ行きたいと主張するが、要領を得ずバスやトラックを4回乗り換えていた。おそらくこの東にソロ[Solo]という町がある。その紛らわしさが移動がうまくいかない原因だったのだろう。
セロからはわずか四時間でムラピ山の頂上に登ることができるとガイドブック(ロンリープラネット)にあったので、この旅行初めての山登りに挑戦してみようかと思った(山頂で日の出を見るには深夜一時に登り始めなければならない)。
わざわざ値の張るガイドを雇ってまで登る必要はなく、もし他に同じように考えている外国人旅行者がいたらガイド料をシェアして一緒に登ろう。いなければふもとの村を散策し一泊して、夕日と朝日を拝んだあとで次の町へ行こうかなどと考えていた。
何回かバスを乗り換え、急な勾配を上るトラックの荷台に乗った時、大きなバックパックを4つほど目にした。姿は見えないがおそらく外国人が助手席あたりに乗っているのだろうと推測する。ラッキーだ。
しかし予想は外れ、なんとインドネシア人のおそらく10代の若者5人(うち女性1人)が登山するための荷物であった。言っては悪いが現地の人でも欧米人並のバックパックと呼ばれる高級カバンを持っているのか、と感心した。ボクはリュック1つしかない。
「君もあの山に登りたいの?」と聞いてくる。
うーんまー登りたいけどダメなら別にそれでいいんだ。とあいまいに答えたかったが、つたない英語力では「YES」と言うことしかできなかった。
ボクは英語が苦手である。日本にいる時ですら、相手が日本人で日本語で話していても趣味嗜好が合わなければ5分と会話がもたない。ましてや外国で、母国語が異なる者同士で何を話すことができようか。
以下はそんなボクがこの1年の東南アジア旅行で経験した唯一の交流の話である。
■雲海に昇る朝日
山に登る前の掘っ立て小屋のような場所で名前を書き入山料を支払う。遭難などにあった時のためだろう。ボクはこの歳まで遠足以外で山へ行ったコトはない。富士山ですら車で行ける五合目までだ。恐さも準備すべき荷物も知らない。
時間はまだ昼過ぎ。登り始めるにはまだ早い。壁も無い柱だけの屋根の下で彼らはテントを張りはじめた。
―そうかとりあえずココで寝て深夜に出発するのだな
彼らは準備万端で下敷き用ゴム制マットもある。お菓子をいただきながら互いに自己紹介することになる。5人のうち1人は女の子グスナ(推定17歳)、男の子はリーダー役のアビ(推定16歳)、やんちゃなカミドゥン(推定13歳)、一番若くて小さいソビ(推定10歳)、そして落ちついた雰囲気のフェルナンド(サッカーTシャツを着ていたため。本名はオパニ推定20歳)といったメンバーだ。彼らはみな親戚兄弟らしい。
アビの質問はいつも、「You want ~?」
実際ボクもその方が理解できる。
「You want Mountain?(山登りたい?)」―「Yes」
「You want Coffee?(コーヒーいる?)」―「Yes」
こんなコミュニケーション(といえるのか)ばかりだ。
3000メートル級の山に泊りがけで子供たち5人だけで登るというのはとても日本では考えられそうもない。毎年登ってるというのだから親も安心しているのだろうか。インドネシアではこれくらいは危険なうちに入らないのだろうか。
と、グスナが頭から白い服を着ている。パジャマ替わりだろうかなどと考えていると東の方位に向かってお祈りをはじめた。ついで男の子たちも一緒にお祈りをはじめた。改めて彼らがムスリムなのだと理解する。
インドネシアに入ってから20日間、イスラム教の国家とはいえかなりいい加減な国民性が目に付いた。酒類は禁止のはずなのに、平気で売買され口にしている人も見かける。それにくらべ彼らはかなり信仰心の厚いムスリムなのだろう。
お祈りのあとテントの内外でみな横になる。ボクも昼寝のつもりで横になった。目は冴えて眠れない。
夕方まだ明るいうちに起こされる。夕日を見ながら彼らはテキパキとテントを片付ける。持参したペットボトルに水をくんだりして準備をする。彼らのバックパックに比べ、ボクのは小さいだろうと1リットルのペットボトルを持たされる。重い。しかしその水は飲むわけにはいかない。腹の弱いボクは生水で下痢してしまうだろうから。
順番は若くて元気なカミドゥンとソビが先行して道を確かめながら登る。次にボクとアビ、体力のないグスナにフェルナンドが後からついて歩くという形だ。
―そうか明るいうちに登ってしまうのかな?
日本ではほとんど運動もしなくなったボクは体力面で不安があった。が、登山に慣れている彼らもそれほど体力があるわけではなく息を切らしながら休み休み登っている。十分ついていけるペースだ。これなら問題はない。
3時間も経ち暗くなると、風よけの岩の横のスペースで再びテントを張った。およそ中腹まで登ったという所だろうか。さすがに寒いのでライターとオイルで火を起こし、ナタで切った枝や枯葉をかき集めるのを手伝った。6人で1つのテント内で横になる。一人オーバーなのでかなり無理な体勢。しかも我慢できなくなりオナラをしてしまった。暗いので犯人はわからないが、アビが起きてテントのチャックを開けて空気を入れ替えていた。すまんボクです。とは言えない。インドネシア人も臭いという感覚は同じらしい。
夜10時にまた起こされ、テントを片付け登り始める。雲も無く明るい満月がボクらの道を照らしている。吐く息は白く寒いが歩いていればまだマシだ。深夜おそらく12時過ぎようやく山頂近くにたどり着いたようだ。テントを張り火を起こす。一連の動作はこなれていて素早い。水以外何も用意がなく寒がっているボクに、彼らは自分の寝袋を貸してくれた。ボクの装備は薄い長袖2枚に帽子程度。手袋もない。
いくら赤道直下のインドネシアといえども3000メートル近い所ではこんなに寒いものなのか。眠れない。鼻水も止まらない。ふるえたままずっとうとうとしていた。
結局山の上で一泊し、朝目を覚ますとすでにみな起きて空も明るくなりかけている。温かいコーヒーとインスタント麺のサービス付きだ。ありがたくいただく。ただのインスタント麺がこんなに美味いと感じたのははじめてかもしれない。お腹が空いていたこともあるけど。
約8年の長い一人暮し生活で健康維持のため、カップ麺等のインスタント食品は口にしないようにしていた。それにコーヒーよりも紅茶や野菜ジュース派である。しかしこの寒い山の上でいただいた麺は格別の味がした。水以外なんの準備もせず登ろうとした無謀なボクに貴重な食料を分け与えてくれる彼らに感謝する。
やがて朝日が昇る。海のように平らに白く広がった雲の下からむくむくと顔を出す太陽。いつまでも見ていたい光景であった。
■登頂・下山
そしてクライマックス。ここから山頂はもう見える。手足4本を使いながらでないと登れないガレキのような道だ。カミドゥンとグスナは残り、テントと荷物番。他4人で上をめざす。
約1時間後ついにムラピ山山頂を制覇。付近には同じような現地人が多数いる。インドネシアでは、6月から7月頃の1ヶ月間は学生の休み期間らしい。ローカルな観光地に行くとどこも混んでいたりする。
立つこともできない不安定な、向こうは崖っぷちという頂上ポイントで、彼らと一緒にカメラに収まった。おそらくボクは腰がひけて苦笑いしたような顔で写っていることであろう。
それに加え硫黄の匂いがきつい。煙がのどと鼻と目に痛い。ココが噴火口だ。いつ爆発してもおかしくない。この状態を活火山というのだろう。あのガレキは噴出されマグマの固まったものか。
あとは下るだけ。登りよりは楽そうな気がするがそうでもなかった。急すぎる坂道はブレーキが効かず、足が勝手に走っていく。砂地に近い土なのでふんばろうとすると靴が滑るし、走りつづければ息が切れる。樹木をクッションに止まっては走り止まっては走りの連続。ひざが笑うとはこのことだ。もちろんこのあと3日程度は筋肉痛に悩まされることになった。
現地人や彼らはサンダルにたびのようなくつしただったり、裸足の奴もいる。そんなスタイルでよくこの山を登ったり降りたりできるものだ。
一気にかけおりて数時間後のお昼過ぎ、元の屋根小屋にたどり着いた。顔も頭もくつもズボンも汗と泥で真っ黒だった。彼らと一緒に登った記念に、日本のコインとバンダナや鈴を交換することになった。
ちなみにこのムラピ山は登山で有名というわけではないただの山。他にも高い山や興味深い山は多くある。4時間で山頂まで行けるというガイドブックの言葉を信じて、ボクでも登れるかもしれないと選択したにすぎないし面白くも無いのでオススメはしない。
■花札で神経衰弱
「今夜どこに泊まるんだ?」とアビが聞いてくる。
「ソロに行くつもりだ」彼らが下山する方向とは反対になる。戻るわけにはいかない。常に進んで来たのがボクの旅行だ。それでも、
「うちに来い」
と、しつこく誘われたので折れた。昨日会ったばかりのボクにこんなにも親切にしてくれたのだから、彼らが悪い奴ではないのはわかる。一緒にトラックバスで山を降りることにした。
ムンティアンという町にあるアビの家につくと、さっそくお湯をわかしてくれてこれでマンディ(水浴び)をしろと言う。ありがたい。そしてあれやこれやとスナック類やコーヒーをどんどん持って来る。もういいというのにもっと食えという。さらには珍しく日本人が来たぞというので隣近所を連れまわされ、また歓迎されて食わされる。
ボクはこの場所にこそふさわしいと、日本から買ってきたとっておきの花札を出す。日本の花札は絵柄が美しい。
よく交流に使われるのは折り紙だが、ボクはハンズで花札を購入して持ち歩いていた。ゲームをするというよりは、仲良くなった外国人や現地人に好きな一枚を選んでもらってプレゼントし、旅行していくうちに全部なくなればいいなと考えていた。
しかし旅行開始後5ヶ月以上経過したこの時にまだ一枚も減ってはいなかった。ちなみにハンズでクロマティ高校花札(現在販売終了)が並んでいて、どっちを買おうかしばし悩んでしまった。
花札のゲームは説明が難しいので、とっさの機転で全部裏で床に並べ神経衰弱をすることにした。同じ花柄が出ればOKで自分のモノになる。失敗したら伏せて次の人の番になる。簡単なルールなのでこれくらいならボクでも説明できた。
ちなみに花札は1月~12月の12種の花柄があり各4枚ずつ合計48枚ある。
説明書に絵柄と点数が書いてあったので、五光の札(花見、鶴、月、小野道風、鳳凰)が20点、動物は10点、短冊が5点、残りのカスは1点として計算する。試合終了後に最も点数が高い者が勝ちだ。
カミドゥンやソビは子供だけあり、負けず嫌いで飲み込みも早い。最初だけメンツでボクが勝利したものの、それ以降は彼らが高得点を取るようになった。
実はこのゲーム、やってみると戦略が深い。ただ単にカードを集めればいいわけではない。カスは20枚集めても20点でしかないが、鶴は1枚で20点だ。だからもし1枚目に鶴をめくってしまい、それを取れる可能性がない場合どうするか?
何分の一かの確率で花柄の同じ松をめくることを期待してもいいが、そこでまた月など開いてしまうと、あとの順番の人に鶴と月を取るチャンスをあげることになってしまう。もう一度自分のターンが来るまでに両方ともなくなっている可能性は高いだろう。ではどうするか?
すでに開かれたみなに周知のカスをあえて開くのだ。これであとの順番の人に余計な情報を流すことが避けられる。自分のターンが回ってくるまでに鶴が残っている可能性は前者より高いのではないだろうか。
インドネシアでは、猪鹿蝶のような「役」を説明するのは困難だと思い省いたが、日本人同士ではこの「役」もゲームに加えるとより楽しいだろう。赤タン5枚でプラス何点、梅松桜でプラス何点といった具合に。「役」のリーチがかかった人には、決して渡さないようにする。そういった攻防が、花札神経衰弱では味わえる。
これは意外と売れそうな気がする。さらに花札にはない特殊カードとして、自分のターンに場の札をめくる代わりに何かできるというスペルカードを入れてみてはどうだろうか。奥深いゲームができそうだ。
などと、久しぶりに知能ゲームをやれた嬉しさから妄想を広げてしまった。
■民族衣装で記念写真
アビは自分の部屋を空け、マットレスに毛布を貸してくれたのでボクはその日の疲れを癒して快適に寝ることができた。
翌朝起きて、スナック類とティーをもらった。実はアビのこの家は写真屋だった。アビのオヤジさんは結婚式を撮ったり有名政治家などを写したこともあるという。道理で。普通のインドネシア国民があんなバックパックやテントセットを持っているわけがないし、暇な日に山登りという娯楽が経験できるというのはかなりめぐまれている方だろう。階級で言えば上の下か中の上あたりの生活水準の家なのだ。車も持ってるし。
「もう一日泊まっていけ。なぜ今日行く必要がある?」
という言葉を振り切り、次の街へ行こうとするボクに、じゃあ写真を撮っていけという。あれよという間にインドネシアの民族衣装を着ることになり、腰にはクリスという独特の剣を差すことになった。似合ってるかも。みんなと何枚か写真を撮ってもらった。
住所や電話番号も教えてくれというが、帰る家はないのだというと不思議そうな顔をする。じゃあ帰ったら電話をくれ、そしたら写真を送るからという。グスナの住所と電話を手帳に書いてもらった。
帰国して20年になるがボクはまだ連絡を取っていない。一番お世話になった相手だというのに。旅の出会いはゆきづり。二度と会うことはないだろうとその頃は考えていた。
記念にインドネシアの古いコインやお札をもらった。使えないし重くて荷物になるので、ロンボク島で会った中村さんに引取ってもらった。ボクにとっては価値のないものなので、日本に帰って欲しい人がいたらプレゼントしてあげてください、と。
もらった鈴は今でもカバンについている。あれから長い旅行をする上で、寝ている時の盗難防止などに多いに貢献してくれた。
最後別れぎわ、ソファから立ち上がった際に天井から吊ってあるシャンデリアに頭をぶつけ落としてこなごなに壊してしまった。どこまでも運のない旅行者である。
3000メートルなどたいした高さではない。でも一人では登ることができなかった。君たちがいたおかげでボクはこの山を制覇することができた。もし君たちが将来日本に来ることがあったなら最大限のもてなしで歓迎するよ。待ってるからな。
中国もタイも経済成長著しいが、ボクはこのインドネシアにも潜在的なパワーを感じる。今、日本人が海外に気楽に行くように、近い将来アジアの人たちもひょいと日本や世界に旅行に行く。そんな時代がきっと来るのだろう。
(つづく)
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