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さようなら、京都みなみ会館

 私は、映画というメディアに、それ程惹かれない。本との相性の方が良い。それはケチだからかもしれないし、容易に見返すことができないメディアだからかもしれない。あるいは、一緒に観に行く友人が少ないからかもしれない。だから、映画館に行くことは稀だ。最近では、Amazon primeやNetflixなどで簡単に映画を観れてしまうから、利用者は減っているのだろうと推察する。利用者が減るから売り上げを確保するために、チケットの値上げをするのだろうか。正直、美術館や演劇と比べて高いなあと思う。

 特に、シネコンには、ほとんど行かない。普段テレビを見ず芸能人を知らないからであり、気晴らしにはなるが気晴らし以上の体験は得られないと見限っているからだ。(もちろん、優れた作品も上映されていることを否定する意図はない。単に、それを探すために多大な労力を費やす気にならないというだけのことである。)最近、仕事でシネアドに出稿したため足を運んだが、そういった事情がない限り、これからも行くことはほとんどないだろう。

 ただ、ミニシアターにはたまに行く。映画好きな友人に勧められて一緒に行くこともあるし、気になって1人で行くこともある。考えることが好きなため、分かりにくく一般受けしにくい映画の方が、素材として適しており、それは、基本的にミニシアターでしか観れないからだ。なぜこのアングルなのか、なぜここでこのセリフなのかなど。あーでもない、こーでもないと頭を捻るのは、結構、楽しい。何より、映画マニアが「これは良い作品だぞ」と自信を持って(多分)上映しているためハズレが圧倒的に少ない。

 京都のミニシアターと言えば、出町座と京都シネマ、それから今回閉館してしまう京都みなみ会館の3館である(新風館にもミニシアターが出来たらしい)。映画を観たくなった際に、映画館のサイトを見比べ、気になる作品をピックアップし、それを観に行く。たまにしか行かないのに、そのたまにが3分割されるため、お金をほとんど落としてこなかった。だからと言って、「潰れないように、足繁く通い、もっとお金を落とすべきだった」とぼやくのは、資本主義の筋から逸れるため、応援消費的には考えないようにしている。

 だから、私は、京都みなみ会館が閉館することに対して、悲しむ資格も閉館した理由を分析する資格もない。それでも、やはり、そこに京都みなみ会館が存在すること、存在し続けることに、価値があったし、存在し続けて欲しかったという思いを拭い去ることができない。「さようなら」とは、「左様であるならば仕方がない」の意である。「本当に仕方がなかったのか?」そんな行き場を失った思いを成仏させるため、閉館1週間前に京都みなみ会館に足を運んだ。

 今回、グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」と「Mommy」を連続で観てきた。この2作品を選んだのは、送別会で残念な思いをしたくなかったからであり、彼の作品の中で好きな映画ワンツーだったからだ(ちなみにスリーは「わたしはロランス」。)私と同年代の映画監督であるが、25歳前後でこんなSpecialな作品を世に問うたというのは、本当に恐ろしい。ストーリー、映像、演技、音楽全てが、出来過ぎていて、その才能に嫉妬してしまう。こんな映画が時たまAmazon primeの月額使用料の範囲内で観れてしまうのだ。本当にどうかしている。

 なお、私の京都みなみ会館での1番の思い出は、4年前の秋の暮れに、7時間を超えるタル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」を観に行ったことだ。友人2人と行く予定のところ、1人が腰を痛め、流石に7時間は耐えれないとのことで、2人で観た。あまりに長い映画のため、途中で2度の休憩が挟まれた。その間に、煙草を吸い、身体をほぐし、第2ラウンド、第3ラウンドに望んだ。観終わった後も、脳内では、牛の鳴き声と雨音が鳴り止まず、呆然としながら、京都駅まで歩いて帰った。こんな圧倒的映画体験は、これまでに一度としてなかったし、これからももうないような気がする。京都みなみ会館で上演していなければ、死ぬまで観ることはなかったかもしれないし、京都みなみ会館でなければこの体験の価値は半減していたかもしれない。そう思うと、京都みなみ会館には感謝しかない。本当にありがとう。そして、さようなら。

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