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大阪府の高校「完全無償化」に反対したい

 2023年2月に「私立学校の無償化に反対したい」という以下の記事を、大阪府下の私立高校を例に投稿した。そこでは、「所得連動型」の制限付き無償化が、私立学校に与える負の側面を説明した。しかし、今回、2023年5月に大阪府は、吉村知事の当選を受け、(私立・公立問わず)高校の「完全無償化」を掲げた。この制度の是非は、主として、少子化対策、格差是正などの観点から論じられており、それはもちろん重要な論点なのだが、私は前回同様、あくまで「私立高校の経営に与える影響」という観点から、論じたい。

大阪府の政策「高校の授業料完全無償化」とは

 大阪府は2023年5月9日に、高校や大阪公立大学の授業料の「完全無償化」に向けた制度の素案を公表した(ここでは大阪公立大学の無償化には言及しない)。親の世帯年収や子どもの人数に制限なく府内の生徒を対象とし、2026年度は完全に無償化するとのこと。「府内の生徒全員」が対象というこは、①私立高校に通う生徒にも適用するということ、②大阪府外の高校に通う大阪府在住の生徒にも適用するということを意味する。府立高校の監督官庁は、大阪府のため、当然問題ないにしても、私立高校や県外の高校は、大阪府から一定独立した機関のため、この制度を受け入れるか否かは、今後の調整によるところとなる。

 大阪府の全日制公立高校に通う生徒の保護者は、現在、授業料を年間118,800円(だからおおよそ月1万円)納めているが、それが浮くこととなる(高等学校等「就学支援金」制度の適用対象世帯は現在においても授業料なし)。一方、大阪府下の例えば年間授業料60万円の私立学校に通う世帯は、月5万円が浮くこととなる(現在は所得や子どもの人数によりこのうちの一部は国や大阪府が負担をしている)。ここから、完全無償化は、公立高校より私立高校の在り方に直接的に、影響を与える制度であることが分かるはずだ。

所得連動型と完全無償化どちらがマシか

 前回「私立学校の無償化に反対したい」において、所得連動型の無償化が私立学校に与える負の影響を説明した。そこでの論旨をシンプルに整理すると次の通りとなる。

 所得連動型無償化とは、所得が一定の基準以下の世帯は無償であるが、そうでない世帯はその所得に応じて、授業料の負担が生じるという制度である(大阪府の場合は、それに子どもの人数が加味されてる)。一方、家計所得と子どもの学力は、(その例外が多数存在することは当然のこととして)正の相関を示す。そのため、家計所得が低く、それゆえ、学力の低い生徒ほど、私立高校に進学した際の恩恵を受けることが出来る。逆に、家計所得が高く学力の高い生徒は私立学校に進学するメリットは少ない。結果として、私立学校は進学実績をあげることが困難となり、進学実績が高いことをウリにする私立学校は衰退せざるを得ない。これが前回述べた負の側面であった。

 では、この所得連動型が完全無償化すると、中学生およびその保護者の動きはどのように変化するか。所得や子どもの人数に関わらず、公立高校も私立高校も、完全に無償になるのだから、世帯年収の低い生徒ほど、私立学校の教育サービスを安く享受できるというメリットはなくなる。費用対効果の多寡が、高校選びの基準ではなくなるのだから、私立・公立問わず、高校が持っている価値それ自体が問われることとなるだろう。その価値とは、例えば、「家から近い」「進学実績がある」「校舎が綺麗」「指導力のある教師がいる」「伝統」などといったものが挙げられるだろうか。これまでとは異なり、私立高校と府立高校が、フラットに生徒確保のための競争を行うこととなるだろう。その意味で、私は所得連動型よりも、完全無償化の方が、より公平で公正な教育システムと言え、賛同できる。

 ただ、これは現在の所得連動型と比較してどちらがマシかという議論である。「私立高校の完全無償化」それ自体を切り出して見たとき、私は、この制度に明確に反対である。なぜか。

客層を決める自由

 私がこの「完全無償化」に反対する理由は、基本的には前回の記事で論じた理由と同じであり、それは私立学校の存立基盤は、「私財をはたいてでも、子どもに良い教育を受けさせたいという保護者の思いに応えること」に置くべきだと考えているからだ。保護者が私財をはたかなくてもよくなったという意味では、所得連動型よりも後退したと言えるだろう。

 また、私財をはたくということには、「良い教育の享受」以外に、「一緒に教育を受ける同窓」の選別という機能を含むことも忘れてはならない。マクドナルド、ドトール、スターバックスで珈琲一杯の値段は異なる。それは、珈琲のクオリティ(≒教育の質)の違いを反映しているだけでなく(仮にほとんどそのクオリティが同じであったとしても)、珈琲一杯にその金額を支払える客層(≒高校における同窓)の違いを、客自身が求めているからであろう。馬鹿騒ぎしている客がいないがゆえに(最近はそうでもないが)スターバックスで珈琲を飲む、そういうことだ。

 大阪府は、制度設計にあたり、これまで通り、無償化対象校として認定を受けるか否かを、私立高校の判断にゆだねるだろう。だが、一部のブランド校を除き、それを拒否することは、(全私立学校が抜け駆けせずに拒否しない限り)現実的に難しいだろう。そして、そうなると、この選別機能は、働かなくなることは明白だ(すでに所得連動型によって機能不全を起こしているが)。

私学=綺麗な校舎という幻想

 所得連動型であろうが、完全無償化であろうが、私立高校の授業料に実質的な上限が設定されることは間違いない。なぜなら、教育の受益者が、その支払いを行わない以上、学校経営者は、授業料を無限に設定することが、組織として最適解だからだ。公財政は有限なのだから、無限を賄うことは出来ない。よって、大阪府が、対象校の授業料の上限を設定する(ないし、今のように、〇〇円を超えた授業料は当該学校が負担するとルール決めする)ことに疑う余地はない。

 そして、今のままそれが1人頭60万円なのだとしたら、綺麗な新校舎を建設することは現実的に難しい。今現在、綺麗な校舎を維持できている学校は、①少子化時代にも関わらず生徒数が多く、毎年ある程度内部留保出来ているか、②大学などの併設校の内部留保を高校にまわしているか③寄附者という後ろ盾がいるか④ベビーブーム時代の貯蓄が残っているかであろう。大阪府の予算が完全無償化に使用されるということは、学校に対して直接的に入る経常費補助金の額が減額される可能性が高いことも、忘れてはならない。

 私立高校に進学するメリット(中学生が想像する分かりやすいメリット)の一つは、埃が舞い、グラウンドの砂でザラザラした公立高校と違い、綺麗な校舎で、3年間学ぶことが出来るところにある。ただ、収入の管理を、大阪府に握られてしまうと、「私立学校=綺麗な校舎」という方程式は、過去のものとなってしまうであろう。

あらためて私立学校とは

 そもそも、収入をコントロールすることが出来ない組織を果たして、「私立学校」と呼びうるだろうか。私立学校とは、学校法人が設置する学校であり、逆に、学校法人は私立学校の設置を目的に設立される法人のことを指す。私立学校法の第1条には、私立学校法の目的は、「私立学校の特性にかんがみ、この自主性を重んじ、公共性を高めることによって、私立学校の健全な発達を図ること」であると定義される。もちろん、完全無償化制度への形式的拒否権(選択権)は、この法律を搔い潜るための表看板に過ぎない。

 教育機会均等の理念は、国公立高校において実現すればよいのである。例えば大学市場のように、国公立大学が少なく、「国公立をどれだけ手厚くしても教育機会均等の理念は実現できないため、私立大学も無償にする」という論理ならまだ分かる。だが、高校という市場はそうではない。大阪府は、島本高校、茨田高校、泉鳥取高校の3つの府立高校を、「3年連続して志願者が定員に満たない」ことを理由に2023年度から募集停止し、廃校にすることを決定している。大阪府の高校生数に対して、公立高校の収容定員は、十分なのである。であれば、私立学校は、その自主性を重んじ、ほかっておけばよいではないか。

 大阪府下のせめてまだ余力のある私立高校だけでも、団結して、対象校から抜けるという選択をしてはいかがだろうか。

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