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人文系学部不要論に一過言~労働者の養成か市民の養成か~

 著名人による人文系学部不要論が、メディアで定期的に取り上げられる。高校生の志望も、人文系から社会科学系や理系へとシフトしており、人文系の不人気は(入試広報担当者として)肌身で感じるところだ。今回は、人文系学部不要論に対して私の意見を述べたい。

 私の意見はこうだ。昨今、大学の教育・研究の目的が、「優秀な労働者の養成」や「(研究による)イノベーションの創出」など経済の論理(損か得か)に一元化されつつある(ように感じる)が、(民主主義を支える)市民の養成も、大学教育の目的として重要視すべきである。そして、その目的達成の手段として、人文系学部は有用である。今回は、私の個人的経験を踏まえつつ、この結論に至った思考過程を、つらつらと書いていくこととする。

私の大学・大学院生活

 私は、(なんとなく)文学部に進学したかったが、母親に実学を学ぶよう諭され、仕方なしに経済学部に進学をした。しかし、あまり経済学に興味を持つことが出来ず、学部4年間ひたすら、文学、哲学、宗教学、美学、政治学、社会学などの書籍を狩猟した。喉が渇いているとき水を欲するように、本を浴びるように呑んだ。

 しかし、それだけ読んでも、乾きは癒えなかったため、人間環境学研究科という大学院に進学をし、社会学を研究しつつ、読書欲を満たす期間を2年間延長した。この研究科の基礎となる学部は総合人間学部であり、総合人間になることがその学部の人材養成像なのだろうと思い、友人と「総合人間」になることを目指した(果たしてなれただろうか?)。そして、大学院の修了間際になり、そろそろ働かねばと思い、「残業が少なく、楽そうだ」という理由で大学職員になった(早く家に帰り、本を読みたかったのだ)。

 そんなゴリゴリの文系人間であるから、人文系学部を擁護したいという思いは人一倍ある。しかし、褒められた人間ではないため、自分を持ち上げ、「ほら、人文系学部も捨てたもんじゃないでしょ」という論理で話を展開することが難しい。しかし、「詭弁」は私の数少ない得意技であるため、なんとかその結論まで持っていきたいと思う。

大学という鵺

 私は「本を読まざるをえなかったから読んだ」と書いた。これは、個人的な体験であり、個人的な理由だ。だから、その行為を社会的に、正当化するロジックを導出することは出来ない。人文学は、それ自体が目的であり、「要不要」という土俵で闘うこと自体が、負け戦であるという論陣を張る方もおられるし、その言わんとするところも分かる。しかし、今回は、要不要の土俵で闘いたいと思う。なぜなら、(国立大学や公立大学はもちろんのこと)私立大学においても、教育研究経費や人件費の一部は、血税で賄われているからだ。

 大学で働いていると、「大学の起源は、中世ヨーロッパにおいて、法学や医学など実学を学びたい者が都市に集まったことにある。そのため、大学の本分は実学教育にある」と主張する方に出くわす。一方、「(イギリスのようなジェントルマンを養成するための)リベラルアーツ≒教養教育こそが重要だ」と主張する方にも出くわす(印象としては、前者の方が多い)。大学という場は、(今回のように教育に話を限定しても)様々な理念、力が交錯する集合体であり、「鵺」のようなものである。

 18世紀最大の哲学者であるイマニュエル・カントは、『諸学部の争い』において、医学、法学、神学という(当時の)実学は、歴史的・経験的な学であり、先見的・理知的な哲学の方が上級である(そして、両者のパワーバランスが均衡し、牽制し合っている状態こそが良い)と論じている。このように、実学と人文学(虚学?)の対立は、連綿と繰り広げられてきたのであり、大学という概念がこの世から消滅するまで、終止符が打たれることはないだろう。だから、これから私が述べることは、人文系学部にほんの少し加担する試みに過ぎない。

近代社会と大学

 社会学者のニクラス・ルーマンによると、社会は、経済(損か得か)、真理(正しいか間違っているか)、正義(善か悪か)、政治(友か敵か)といった二項システムにより物事が解釈(意味が縮減)されることで、成立している。そして、近代社会は、経済(損か得か)が、あらゆる二項システムの上位に位置付けられた社会であると総括する。この論は、現代の政治が、国民の経済的豊かさ(経済成長)を達成するための手段に成り下がっていることを想起するとわかりやすい。

 大学も、以前はエリートを再生産する場であったが、次第に、経済的に成り上がった者の子息が、エリート階級に近づくための場となった。そして、今では、将来、お金を稼ぐ(得をする)ための手段(学校歴)を獲得する場となっている。確かに、お金がなければ、心身ともに、貧困となり、社会は不安定化する。その意味では、お金を稼ぐ能力の高い学生≒労働者を養成することは、日本国また日本社会にとって非常に重要である。それを否定するつもりは毛頭ない。

 だが、『大学教育について』を執筆したことでも知られる功利主義者J.S.ミルは「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言葉を残している。この言葉が、日本においても、一定の共感を持って受け入れられているように、人間は決して、物質的欲望の充足のみを目的として生きることは出来ない。そう、人は「如何に生きるべきか」と(格好が悪かろうが)問わざるを得ない生き物であり、損得のみで生きることの出来ない生き物なのだ。

 そして、この問いは、「如何に他者と生きるか」という共同体の問い≒倫理的な問いへと容易に転ずる(理由はシンプルで人は1人で生きることが出来ないから)。最初、私が人文学にのめり込んだのは個人的な理由であり、正当化する議論は難しいと述べた。しかし、ここまで来ると、社会的な側面が顔を見せていることに気づく(事実、私は文学から読書を始め、次いで哲学、倫理学の書を読むようになり、最後に政治学を学ぶという経路を辿った)。

 我々は、損得でしか物を考えない、考えることの出来ない「満足した豚」しか周囲にいない状況で、豊かな人生を送れるだろうか。まともな国家、まともな社会を構築できるだろうか。自分だけではダメなのである。人文系学部に血税を投下する必要はここにある(と私は考えている)。社会の構成員としての自覚を持った市民を(出来うる限り多く)養成すること、これも大学の一つの役割ではないだろうか。

スピノザの教えと人文知

 私は、大学時代、スピノザの哲学、その中でも、「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」という一文に感銘を受けた。スピノザは、(簡潔にまとめると)自己原因(=自由)でない人間は、必然性に導かれ、行為してしまっているのだから、その行為をした他者を呪っている暇があれば、その他者を理解することに努めるべきだという思いをこの一文に込めた。

 私は、読書の一つの効果は、そして、人文学を学ぶ一つの効用は、このスピノザ的な「他者への寛容な姿勢」の獲得にあると考えている。例えば、小説を読んだり、歴史書を読んだりすると、今の常識が決して普遍的でないことを理解出来たり、自分とは異なる思考システムを持った他者のことを理解出来たりするようになる。こうして、他者を理解できると、不思議と、その相手への負の感情は喪失し、如何にその他者と付き合うか(あるいは、付き合わないか)という方向に向かうことが出来る。

 私が最も苦手な人種は口癖が「普通こうだよね。普通こうするよね。」と事あるごとに言う人間である。自分の「普通=常識」を他者に押し付け、他者を他者として受け入れようとしないスタンスが苦手なのだ。このスタンスの人間は、他者の意見を聞き入れる余地がなく、それゆえ、スピノザ的「構え」から最も遠い。このスピノザ的「構え」は、対話や議論をする上で、非常に重要であり、我々が、(ハーバーマスが言う意味での)公共性を回復するための必要条件ではないだろうか。そして、この「構え」を獲得する上で、人文学は(少なくとも私の経験から)十分に役に立つと断言できる。

 早急な結論であり、何を言っているかさっぱりと言う人も多いだろう。傲慢かもしれないが、結局のところ、たくさんの本を読み、時間をかけて咀嚼するという経験を経ることなしに、人文学の必要性を理解することは難しい。そして、この難しさが、人文系学部不要論を陰で支えているのだろう。だから、一度、飛び込んでみる他はない。大学進学を考えている高校生もそうでない人も、是非、一度人文学に触れて欲しい。そこからしか見れない景色がきっと広がっているから。

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