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6/20 ここ数日の総括

6/10 Stellarisにハマる

買って30時間ぐらいやったあと放置していたStellarisにハマって、これを書いている19日までで142時間くらいやった(寝落ちしたりつけたまま食事したりしているので実際にはもう少し少ないと思う)。

Stellarisは、宇宙を舞台に文明を育てるゲームだ。亜光速で航行できる宇宙船と「ハイパーレーン」を用いたワープ航法が開発され、恒星間航行が容易になった時代(2200年)を舞台に、プレイヤーは銀河の覇権を求めて大艦隊とともに宇宙を駆ける。

このゲームが『銀河英雄伝説』に強く影響を受けていることは言うまでもない。『銀河英雄伝説』作中で印象的な、「イゼルローン回廊」と「フェザーン回廊」という2つのチョークポイントに関わる攻防がそのまま再現されているからだ。

『銀河英雄伝説』では、「帝国」と「同盟」の2つの国家が天の川銀河に存在し、互いに敵対しているのだが、国力には差があり、同盟が帝国にやや劣っているという設定だ。元来、帝国からの亡命者によって建設された国家である同盟は、専制国家である帝国の支配からの人民解放を期して何度も帝国への侵攻を試みているのだが、その度に大きな損害を受け撤退している。それは、帝国領と同盟領を結ぶチョークポイント、「イゼルローン回廊」に帝国が築いた「イゼルローン要塞」があまりにも強固で突破不能だからだ。
『銀河英雄伝説』にもワープ航法は存在するのだが、距離的限界があったり、回廊の周囲は航行不能な領域であるとか、そういう理由で、イゼルローン回廊に入らずに帝国に侵入することは不可能、という設定になっている。

https://twitter.com/aaaauaa/status/1023207672990953472/photo/4 から転載。
地理関係がとても分かりやすい図。
「アムリッツァ」「ティアマト」「アスターテ」といった星系名は、
オマージュとしてStellarisにも採用され、ランダムで登場する。

もう一つのチョークポイントである「フェザーン回廊」には、「フェザーン自治領」が存在する。フェザーン自治領は永世中立国のようなもので、帝国からも同盟からも政治的・軍事的に独立している。フェザーンは、実際には、帝国 - 同盟間をつなぐ商業ハブとして機能しており、経済的利益のために暗黙の不可侵とされているという感じだ。

さて、Stellarisでも、ワープポイントは恒星間をつなぐように設定されており(これは「ハイパーレーン」と呼ばれている)、ワープ後、次のワープのために必ず通常航行が挟まるようになっている。そこに敵の基地や艦隊があれば戦闘になるし、一度戦闘になってしまえば、どこに出るかわからない、危険な緊急ワープ以外での脱出は不可能になる。
また、ハイパーレーンが恒星間の距離を規定しているため、A・Bの2つの戦線同士の距離が、敵国家と自分とで異なるというシチュエーションもありうる。自国にとっては、勝利したほうを援軍に行かせることで両戦線で勝利を収めるということが簡単に行えるが、敵にとってはそれに対応するのは容易ではない、という状況を生み出せるのだ。
この仕組みが、艦隊運用の面白みを生んでいるし、宇宙という一見地勢学的要素が存在しない場所に地の利やチョークポイントといった要素を導入していて(そもそも『銀英伝』で上述のような設定が採用されたのもこの理由のためだ)、宇宙をただ広いだけのものではなくしている。

結論、つまりStellarisは宇宙を舞台に艦隊戦をするゲームなのか、と思われるかもしれない。まあ、そうなのだが、艦隊戦の背後に、星系に対して資源回収ステーションを設置したり、惑星ごとに適切な施設を建築したり、資源が効率的に生産されるように市民を移住させたり、といった膨大な量の内政的操作があり、その効率化の結果は小手先の艦隊運用よりはるかに大きく勝敗を左右する。Stellarisは宇宙を舞台にした内政ゲーなのだ。これがバレてしまうと、正直あまり面白そうに見えないのが悲しい。でも、銀河帝国を統べる苦労は思う存分味わえる。

↓のチャンネルの「危機25倍チャレンジ」の動画がとても面白く、これを参考にしながらプレイしている。

6/12 読書会 横光利一「純粋小説論」

純文学が、物語を書こうとするこの通俗小説の精神を失わずに、一方日記文学の文体や精神をとり入れようとしているうちに、いつの間にか、その健康な小説の精神は徐々として、事実の報告のみにリアリティを見出すという錯覚に落ち込んで来たのである。この病勢は、さながら季節の推移のように、根強く襲って来ていたために、物語を構成する小説本来の本格的なリアリズムの発展を、いちじるしく遅らせてしまった。そうして、文学者たちは、純文学の衰微がどこに原因していたかを探り始めて、最後に気附いたことは、通俗小説を軽蔑して来た自身の低俗さに思いあたらねばならなくなったのである。

横光利一「純粋小説論」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2152_6546.html

横光の主張は、「純粋小説」という、大衆小説でも純文学でもない第3のカテゴリ(それこそが「最高の美しきものの創造」を行う「最も高級な文学」であるというのが横光の言だが)を仮定してはじめて小説という形態の芸術における神髄とでも言うべきものが現れうる、というもの。

ここで横光がそれを「純粋小説」と呼んだのは、芸術性とそれに対立する政治性、といった批評的価値体系が成立する以前の「純粋」な芸術的価値は、政治的にも社会的にも受け止められうるという事実を前提としているからだろう。だが、この呼称が問題をややこしくしているとも言える。

「純粋小説論」が書かれた1935年当時は、政治性や社会性に極端に偏重していたプロレタリア文学が当時の政府によって政治的弾圧を受け、衰退していった後の時期にあたる。1924年以降急速に勃興したプロレタリア文学は、当時の政治的/社会的問題を一手に引き受けるとともに、そうでない文学(ここでは「純文学」と呼ばれる)を非政治的という意味での芸術性という、窮屈な空間に追いやった。純文学のほうもまたその理屈を受け入れて、社会性や政治性を「大衆性」・「通俗性」として軽蔑し排除することを選択してきた。その結果、純文学には奇妙なねじれが生じることになる。つまり、社会性や政治性を持ち得ない、ごく個人的な身辺雑記こそが芸術性が高い = 純文学的であるという評価を得るに至ったのだ。上掲の引用箇所で横光が批判するのは、このねじれである。

プロレタリア文学の事実上の消滅後、その空白を埋めるべく横光は「新しい自我の襲来」を宣言し、「新しいリアリズムの想像」を期したのだった。

下は読書会のアーカイブ。初の評論だったが、活発に議論ができてとてもよかった。

次回は6/25 22時から。
聖書を(文学として)読みます。
「ヨハネによる福音書」第9章(超絶有名な、盲人の目をひらくシーン)と「マタイによる福音書」第27章(「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」のシーン)を読みます。
どなたでも参加を歓迎します。興味のある方はTwitterのDMまで。

6/14 またコーヒーを買いに行った

母が休日だったので、またまめやにコーヒーを買いに行った。前回購入したケニアの豆はもう8割方飲んでしまっていた。

今度はコロンビアのスプレモを買った。セブンイレブンで売っているスプレモブレンドがあまりにもおいしいので、スプレモ単体だとどんな味なのだろうと気になっていた。私は深煎り寄りが好きなことがだんだん分かってきたので、フルシティローストで焙煎してもらった。

まめやでコーヒーと一緒に食べたチーズケーキがびっくりするほどおいしく、夢中でほとんど食べてしまってから写真を撮った。

スーパーうますぎチーズケーキ

ほかにもいろいろな用事を済ませたあと、近所のホームセンターでHARIOのV60ドリッパーとペーパーフィルターを買った(Amazonのほうが安いのに今気づいた。お買い得です)。

6/15 怒りを抑えられなかった日

私は優しい人間になりたいと思っている。だが、私が生まれ持って抱えた欠陥はそれと正反対の方向を向いている。それは、自分にとって退屈で平凡で価値がないと感じたものすべてに唾を吐かずにいられないような、そんな攻撃性だ。その苛烈な攻撃の対象に他人を(あからさまに)選ぶことは、私が成長していくにつれて少なくなったように感じている。小学生の頃は毎日のように誰かと喧嘩していたことを思えば、ずいぶん成長したのでは、と我ながら思う。

この日は確かに体調が悪かった。低気圧のせいでつねに頭痛がしていたし、今自分に他者を受け入れられるような、それどころか自分自身の感情さえコントロールできないかもしれない状態であることは明らかだったのだが、その冷静な認識と行動は乖離していた。つまり、ただしんどいだけの孤独な一日に耐えられる気がしなかったのだ。

最初に、ゲームでの失敗が私の劣等感を刺激した。私自身が私の失敗を罵る声がする。なんでこんな簡単なこともうまくできないんだ? たくさんプレイしてるはずなのに、どうしてこんなに下手なんだ? どうしてお前は何もわかっていないんだ? 小さな失敗、大きな失敗といくつも積み重なり、一緒にプレイしていたフレンドに対する後ろめたさが苛立ちと混ざる。感情の総量がその瞬間に私の容量を越えて、煮えたぎる怒りに変わる。

そこに何があろうが、誰がいようが、怒りの前では関係ない。むしろ、重要なものがそこにあったほうが怒りにとっては都合がいいくらいのものだ。小学生の時に、(その子は何も悪くなかったのに)好きだった子のコップを思いっきり放り投げて壊してしまったときも、中学生の時にPS2を壊したときもそうだった。私は自己肯定感が高かったから自殺しなかったのではなく、低かったから自殺しなかったのだ。

絶望による破壊衝動の後に残るのは後悔だけだ、ということもよくわかっているのだが、怒りの前ではそんなこともどうでもよくなってしまう。

6/16 内省の日

上記のような内省ができるまで、ぐったりとして過ごすしかなかった。絶望感と怒りと劣等感、そして後悔が休みなしに波状攻撃を仕掛けてくるのだから、何もできるわけがない。こんな日でもコーヒーはおいしく、淹れる時間は私に安らぎをくれる。本当の趣味とはこういうもののことを言うのだろう。対戦ゲームを私の人生から遠ざける理由が一つ増えた。

6/17 日記を書くことについて

人間関係は変化する。人間が変化するのだから当たり前だ。そのことで傷つくのは、今ある関係やかつてあった関係が変わらずそこにあるのだと思い込んでいるからだ。私にできることは、記憶すること、記録すること、そして思い出すことだけだ。

インターネットの人間関係はあまりにもか細い。切ったら切れるし、繋がったら繋がる。そんなか細い紐帯が、それでも確かにそこにあったのだと、私は確認したい。日記はそのための補助装置のようなものだ。

6/18 家族で外出

祖母・弟・母と外出。車内で祖母が楽しそうにたくさん弟に話していたのでよかった。弟は、父の日のプレゼントを父にあげたらしい。私は父を嫌っているので、何か考えようという気もなかった。どんな父であれ感謝するということができないのは、子どもっぽいだろうか。

6/19 また家族で外出

暑い日だった。今度は母と弟と自分の3人で、ステーキを食った。

6/20 痛い夢と最高コーヒーの日

可愛い女の子になって街を闊歩する夢を見た。ディテールがやたら細かかった。私はオッドアイになるようにカラコンを入れているのだが左目を眼帯で隠していて(痛すぎる)、身長は実際の身長より少し高く175cmくらいになっていた。中学の同級生だった人々となぜか浅草を歩いていた(日傘をさして!)のだが、町並みはまったく浅草ではなく、駅も実際のものとはまったく違う、異常な構造になっていて面白かった。入口の近くに中庭があり、そこで何らかの催しが行われていた。長い下りのエスカレーターが地下3階くらいまで続いていたのも覚えている。

中学の同級生以外には、花譜とかClariSとか、最近聴いた女性のアーティストが出てきた。ClariSは割と人物っぽい感じだったが、花譜はかなり概念っぽい感じで出てきたので外見の印象がない。率直に言って女子中学生が見るような夢だった。

私の夢にはよく駅が出てくる。いちばん出てくる駅はショッピングモールと合体していて、だいたいの構造は毎回同じなのだが、改札はいつもランダムな場所にある(コラージュのように変な位置にあるので面白いが、現実の浦和駅の改札も変な場所にある。こんな感じだ)。

浦和駅アトレ北口。
https://kaisatsugazo.net/51464783.htmlより

今朝の夢に出てきた駅は、これとは違う駅だった。夢の中では、それを浅草駅とはっきり認識していたのが面白い。

そんな変な夢から覚めて淹れたコーヒーが自分史上ベストのコーヒーだったので、感動した。昨日から、コーヒーを淹れるときに記録用の動画を撮るようにしていたのだが、動画を撮っていてよかったと思った。

スケールで量って淹れているので再現性が高い

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