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アメショ、ありったけル。/A面


── アメショと僕は新橋SL広場にいた。

小雨の降る肌寒い朝。平日。

僕らは並んで濡れながら立っていた。

通勤時の駅前らしく、通行人の足音が『無関心交響曲』のように聴こえてくる。

「じゃあ、そろそろ始めるぜ」

そう言ったのは、二本足で立って背筋を伸ばしたアメショだ。横に立つ僕を仰ぎ見ている。

「うん、始めるんだね」

僕はそう答えるくらいしか思いつかなかった。

すぐにアメショからクレーム。「おい、坊や。お前のハチマキがズレてるじゃねえか。しっかりと巻き直してシャキっとしろ」

きつい目のアメショ。アメショのきつい目ってけっこうなきつさだ。

日本ではアメショといったらシルバー・タビーだけど、実際にはいろいろなアメショが存在する。でもウチのアメショはシルバー・タビーだ。

「ああ、わかったよ」

あくびが一緒に出た。夜勤明けで本当に眠いのだ。

何でもいいから早く終わらせて欲しい。それに、こうして人前に立つのもすごく苦手だし……。

「オレのハチマキも見てくれよ。なあ、坊や、曲がってねえか?とにかく、なめられたかねえからよ」

「大丈夫だよ」と、あまり確認せずに僕は答えた。

キンキンに冷えた雨が体温を奪っていく。急ぎ足のサラリーマンたちはアメショと僕を一瞥することもなく、次々と横切っていく。

「それじゃあ、今度こそ始めるぜ。坊や、ケツの穴にしっかり気合い入れろよ!」

アメショは拡声器を二本の前足で器用に持って支え(彼は猫だ)、スイッチをONにした。

お決まりのハレーションを一発かましたあと、アメショは行き交う人々に猫としての最高の理念の輪郭を提示するために、朗々と語りかけ始めた。

「えー、おはようごぜえましゅ。本日はこの新橋SL広場をお借りいたしまして、皆々様がたに訴えたいことがございましゅ。どうぞ、この一介の駄ネコのココロの叫びに耳を傾けて頂ければ、これ幸いかと存じまっしゅ。── そもそも、人間と猫の出会いは紀元前まで遡りまして……」

そもそも、事の発端は今日の未明まで遡る……。

◇ ◇ ◇ ◇

(その)未明、肌寒い。まだ薄暗いなかを、僕は自宅マンションに帰り着いた。今日の夜勤もとてもきつくて骨身は置いてきた。

手には途中のコンビニで買った雑誌を持っている。『週刊ニャンドル』というもので、かわいい猫アイドルのグラビアがいっぱい載った雑誌だ。発売日にこれを買って帰らないとアメショはとても不機嫌になってしまう。

「ただいまー、ちゃんと買ってきたよー」

僕は玄関のドアを開けると同時にその旨を報告した。

きっとアメショはリビングのホットカーペットの上で丸まっているんだろう。

── 意外にも反応がない。それに部屋の中も暗い。

もしかしたらアメショはまだ夢の中かも知れない。猫を飼ってる他の家ならきっと玄関のところで待っていてくれたりするんだろうなぁ。

ウチのアメショにそれを期待するのも無理な話か。なんといったって彼の座右の銘は『いぬ要素ゼロ』らしいから……。

部屋の明かりをつけた。飽きっぽい自分が途中で投げ出してきたつまらない趣味の品々が並ぶ部屋が、まるで解凍されたかのように明かりに照らされる。

僕のような失われすぎた世代は凍らされるのにも慣れてはいる。

足に軽く何か当たった。見てみるとそこにはアメショがいた。

テレビにかじり付くようにして何かの番組に見入っている

予想に反して寝てなかったみたいだ。

── 嫌な予感。

アメショがテレビにかじり付くといつもよくないことが起こる。彼はとても影響を受けやすいタイプの猫なので、テレビの世界にどっぷり浸かりすぎてしまうところがあるのだ。

例えば、『野生の王国』系の番組を観たあと急に獰猛になったり、『ムー大陸の謎』を観たあと、ゴーグルとシュノーケルをつけだして風呂場で潜水の練習を始めたりした。さらにプロレスのタイトルマッチを観たあとなんかは、延々とプロレス技(猫がかけてくる技にしてはかわいげがない)の相手をさせられる始末。

ようするに、アメショはすぐその気になってしまうのだ。

とりあえず僕は買ってきた雑誌をテーブルの上に置いた。

すると、その音を聞いて、テレビとくっつきそうなくらいだったアメショが静かにこちらを振り向いた。よく見ると正座をしている……。

「なんだ、帰ってたのかよ。なあ坊や、たのむから邪魔だけはしないでくれよ。いま大事なとこなんだ」

アメショはそう言うと向き直り、再びテレビの中の世界に戻っていった。


さらに注意深く彼を見ると、その体は小さく震えている。

僕は恐る恐るその番組の内容を確かめてみた。

『ペットブームの光と影 ~もしも涙を流せたら~』

サイドテロップにはそうある。

オルゴール音のBGMと深みのあるナレーションで演出されたその中身についてはだいたい察しがついた。

安易にペットを棄てる飼い主たち・動物に対する虐待・ずさんな動物医療の現場・ペットショップの裏事情や、SNSが動物たちに与える悪影響などなどだろう。

猫と暮らしている僕としては、もちろんそういった悲しい現実に憤りをおぼえる。アメショの震えも悲憤義憤入り交じったものから来るんだろう。

でも、今日の僕はとにかく疲れていて、とても受け止め切れそうもなかった。アメショには大変申し訳ないが、シャワーを浴びてそのまま眠るとしよう。

僕がシャワーを浴びてからリビングに戻ると、テレビのチャンネルが切り替わっていた。お笑い番組。芸人たちの緩急無しの笑いの提供で、スタジオ観覧客の笑い声が有酸素運動気味にはみ出てくる。

映像光を浴びたアメショの肩はまだ震え続けていた。テーブルの上の週刊ニャンドルは手つかずのままだ。

こういうときは余計な声をかけない方がいい。

僕はアメショ用の飲み水を取り替えて(アメショは自分で蛇口から飲めるけど、そうして欲しいらしい)から、「おやすみ」と彼の背中に小さく言うと、寝室のベッドの上に横になった。


◇ ◇ ◇ ◇


……夢うつつのなかで僕の耳に何かが聞こえた。

僕を呼ぶアメショの声だ。

「こちらはアメショ、坊や。聞こえるか」

機械音がかったアメショの大音量の声。

「こちらはアメショ、聞こえないのか、聞こえているのか。返事されたし。なおこれは訓練ではない」

訓練でもやだよ。

顔を起こしてみると、耳元に軍隊で使うような大きなトランシーバーが据え置かれていて、声はそこから聞こえてきていた。

僕は反射的に反対側にある置き時計を見た。まだ朝の6時前だ。眠りについてから1時間くらいしか経ってない。

まったく、勘弁して欲しいものだ……。

うつ伏せ寝のままで、そのごっついトランシーバーを手に取り、応答する。

「こちら坊や。よく聞こえるよ。こちらはただいま睡眠中。そしてこれは睡眠訓練ではない。たのむから寝かせてくれ、どうぞ」

なんでこの狭い家の中でこんなやりとりをしなきゃならないんだ。

すぐにさっきより大きい声が返ってくる。寝る前に見た彼とは180度違うテンションになってしまっている。これはもしかしたら本当にやばい展開かもしれない。

「オレが今どこにいるのかわかって言ってるんだろうな、坊や」

「この家のどこかだろ?でなきゃノルマンディーにも上陸したかい?」

部屋が乾燥しているせいなのかやけに喉が渇く。

再びアメショの不敵な声。

「フフフ、どうやらフォーティテュード作戦に引っかかったみたいだな」

「寝てただけだけど……」

「いいか、坊や、耳の穴をボーリング工事してよく聞きやがれよ。オレがいま立っているこの場所はな、『解放区』だ。つまりこれは解放区からの記念すべき第一声なわけだ」

ん……?かいほうく……!?

やっぱり嫌な予感は的中したみたいだ。何かコトが起こる前に(もう起こってるのかな?)アメショを落ち着かせなければならない。

僕はベッドから転げ落ちるように飛び出ると、急いでリビングへと向かった。

入ったとたん、なにかお香のようなエキゾチックな強い香りが鼻を突いた。焚きすぎていて煙が部屋の中に充満している。

すごく息苦しい……。

アメショは……、アメショはいったいどこだ……?

僕は鼻を押さえながら涙目で部屋中を見回す。カーテンまで閉め切っていて薄暗く、視界が悪すぎる。

「おーい、アメショ~、おーい」

とんでもない爆音の音楽が僕のその声をかき消してしまう。

再びアメショの声だ。

「ここだよ~、坊や~。オレはちゃんとここにいるぜ~」

なぜか彼の声はこのやかましい音楽に負けることなく僕の耳にしっかりと届いた。ただ、強烈なエコーがかかっていて、頭の中で揺れて聞こえた。依然として姿は確認できない。

「ここだよ~、お~い。悲しみの底で生まれ変わっちまったオレは生まれたままの本来のオレなのさ~」

その声は光を発しているようにさえ聞こえた。

やがてその声の光は、僕の心の隙間を通って、ちょうどピンホールカメラの原理のようにアメショの像をテーブルの上に作り出した。彼はそこにいた。

猫としては最大級に悟りきった透き通った眼差しで僕をまっすぐに見ている。

そしてそれはたしかに、深い悲しみを越えたあとのそれのように見えた。

「いったい何がどうしたっていうんだよ」と僕。

「解放区へようこそ。たったいま、坊や、お前を”駐ペット人間(親善)大使に任ずる」

口元が自若泰然とした笑み。しかもピンッと張った髭がいつもより長いような気がする。机の上に立ったアメショと僕の視線の高さはまあまあ同じくらいになっている。

僕はくりかえした。「だから何のマネだと聞いてるんだよ」

ちょっと声を荒げてしまった。マンションのほかの住人の迷惑も考えなきゃならないのだ。

「あん?いったい何のマネかって?へっ、ちゃんちゃらおかしいね。おととい来やがれとくらあ。日本三大”あとの祭り”のひとつに数え上げてやるよ。逆にお前さんに聞きたいもんだ。坊や、いったいお前は何をしていた?」

アメショは長いしっぽでクエスチョンマークをつくった。

「なにって……、疲れて寝てたんだよ。見ればわかるだろ」僕はいくらか平静をを取り戻して答えた。

それにしても煙の量がすごい。消防車を呼ばれなきゃいいけど。

「そうだその通りだ」とアメショは僕の言ったことを聞いてか聞かずか、カラ頷きを返してくる。

「スケベな淫夢はさぞかし恐悦至極にござったことだろうよ。このオレが革命のともし火を高く掲げようとしたまさにそのとき、お前は欲望の碇をザブンと降ろしたのさ」

「僕がどんな夢を見ようが勝手だろ。いい加減にいろよな、朝っぱらから。少しはこっちの身にもなってくれよ」

もうこれ以上、今朝のアメショ劇に付き合っても無駄だなと思った。

それにだ、だいたい僕は淫夢じゃなく悪夢を見ていたんだ。たぶんね。だって今がその延長線なんだから。

さてと、もうひと眠りするかな。

僕は換気扇を回してからアメショに背を向けて寝室へ戻ろうとした。

するとすかさずアメショが危険球並のセリフを僕に放り込んできた。

「ほう、権利ってやつかい。へー、何を担保にそんなことぬかしやがるんだ、坊や。いっとくがオレは治外法権なんだ。ペットをペットたらしめる気だな。姑息な奴だ。そんなお前にはオレがみつけたオレ七不思議の一個目を教えてやる。坊や、いいか」

アメショは指を指をコキコキならしている。そろそろ爪を切ってやらなきゃな、と、ふと思う。

アメショの舌鋒はノンストップだ。

「坊や、いいか、人間には人権がある。ちゃんとある。だがどうだ、ペットたちにはそれがない。ペッ権がない。みつけられない。井上陽水だって“踊りませんよ”って言うぜ。じゃあ、いったいそれはなぜだと思う?」

その言葉に立ち止まった僕は振り返って答えた。

「主張しない、もしくは、できない、から……かな……」

「そうだ。その通りだ。オレたちペットは従順すぎたのさ」

まるで権利の章典でも開くかのようなアメショの口元から、ネコ科特有のふてぶてしいヨダレが一本。

「でも……」と僕は口を挟む。「でも、人間には、というか飼い主には、ペットを愛する義務がある」

アメショはテーブルの一番手前の端まで寄ってきて、僕らの距離は縮まった。

「おいおい、お前さんはいつの間に脳ミソと海ぶどうを取り替えちまったんだい?人間の倫理観なんて薄氷よりもはくい。は・く・いんだぜー。法は無知を許さず。ザル法は機知を許さずってもんだ。そんなこたあ、犬道的な立場の犬っころだってわかってるぜ、まったく」

アメショはそのあとに大げさなため息を付け加えた。

こっちがつきたいよ。

彼に言いたい放題言われているうちに、すっかり目が冴えてしまった。二度寝はあきらめることに。

それしても、よくもまあ淀みなくしゃべるネコだ。感心してしまう。こんなべらんめえ調をいったいどこで覚えたんだろう。有識者の方々がもし彼を見たらきっとこう言うだろう。

『こんなアメショに誰がした』ってね。

アメショは二本足立ちに疲れたのか、テーブルの上に四つんばいになって(たまにネコらしさを取り戻す)、何かを区切るかのように伸びをひとつした。

放談の会の終了とともに僕はカーテンを開け、換気すべく窓を開けた。

── 雨だ。

マンションの9階にあるこの部屋の窓から雨の東京を見下ろした。カラフルな傘の歩く花がいくつも咲いている。雨が不可逆的に空から降り落ちてくることを今朝も甘受しながら……。

それらの黙従に似たひたむきさが、東京の朝を彩っていた。

「おい、坊や、まだ話は終わっちゃいないぜ」

だろうね。僕は振り向く。いちいち僕を振り向かせる猫だ。

「ああ、わかってるよ。で、『解放だ』、『革命だ』って言っていったい君は具体的に何がしたいんだい?言ってごらんよ。ビジョンだけで変えられるもんでもないんだよ」

彼の目を見て言った。

すぐに答えが返ってこなかったので、待つ間にコーヒーを入れたり、アメショ用のペットミルクを小皿に入れてテーブルの上に置いたりした。

まだ返答がないので、イスを引いて座り、両手をあたたかいコーヒーカップに添えてさらに待った。

それくらいアメショはテーブルの上で長めに考えていた。そのうちに、答えるどころか口笛を吹いたりフンフン鼻歌を歌い出したりしたので、僕は立ち上がって朝食でもつくることにした。

ドラスティックな疲れにはドラスティックな摂食を、ということで、食材のゆるす限りに簡単なものをたくさんつくった。

僕は気持ちの切り替えが早いほうなのだ。だから今までアメショとうまくやってこれたのかもしれない。ちなみに、切り替えの早さはもって生まれたものではなく、思春期の頃にハンダゴテを使って自分のココロにちょっとした細工を施して得たものだ。心持ちなんてハンダゴテ1本で変えられる。

決して広くないキッチンで集中しながら朝食をつくっている最中もアメショの小言が聞こえてくる。

「この身が朽ち果ててもかまわない」とか、「お前はドライでつまらない」とか「礎になりたい」だとか、「命などとっくに天に預けた」だのと志士めいたことをブツブツ言っている。

はっきり言ってそんなに勝手に命を天に預けてもらっては困るのだ。いったいペット保険に僕の少ない給料から月々いくら支払っていると思ってるんだ。

さて、できた。サラダ包丁をしまう。”気まぐれな誰かの孤独なひとりメシ”みたいな朝食だ。

孤独を深めに掘り下げようとするとなぜか菜食傾向になる気がする。僕だけか。

とはいえ孤独だけはほっといても持続可能だ。それは間違いない。

テーブルに運ぶまでが料理です。アメショも珍しく準備を手伝ってくれる。気分を上げるためにテーブルクロスを引っ張り出してきて敷いた。

アメショの爪が何度も引っかかったあげくにようやくきれいに敷けた。

料理を並べ、向かい合わせに席に着く。

二人とも黙って食べた。いつもそうするルールだからだ。

たしかアメショの提案だった。「メシの時くらい話さないふつうの猫と人間の関係に戻ろうや」だったと思う。

以来ずっとそうしている。

でも今朝のアメショはやはりどこか違っている。まるで隙がないのだ。あまりあからさまに観察するとうるさいからできないけど、とにかく皿はなめないし、口の周りにはなにもつけないし、しっぽも動かさないし、余韻を楽しむための毛繕いさえしない。

猫武士かのようにかしこまって食べているのだ。

── 彼はまだ  ちゃんと入ったままだ。

そのさらなる証拠に彼は僕が遅れて食べ終わると同時にこう言った。

「それじゃあ、でかけるとしよう。坊や」

「でかけるって、いったいどこへだい?」

素っ頓狂な声が出た。

「そんなの決まってるぜ、解放感のバラ売りに出かけるんだ!自由への扉をピッキングしてやるんだ!」

フォークとナイフをかちかちさせて声高に叫ぶアメショに僕は凍り付いた。

──(ご存じないとは思うが)アメショは言ったことは必ず実行に移す猫だ。今までもそうだった……。

── そう、ごく近い将来は衛星のように、ごく近い過去の周りをぐるぐると周りながら”日々”を構築していく。

「本気なんだね」僕は真っ白なナプキンで口元を拭きながら尋ねた。

「坊や。今までオレがマジじゃなかったことがあるか?いいか、オレはな、パイオニーアなんだ。猫であり、パイオニーアでもあるんだ。そのことを思い出せよな」

しっぽが強くタンっとテーブルを打った。

僕は両手をそろえて小さく上げて無抵抗のポーズを返した。……もういいや。なんだかもうどうでもよくなった。

「好きなように……、君の気の済むようにやりなよ、限度を守って」

「おいおい、それは約束できないぜ、坊や。オレはすべての予定調和的なものをホルマリン漬けしたいわけだからな。まあいい。とにかく支度しろ、食器は帰ってきてからオレが洗ってやるから、な、あとそれから、このハチマキを頭にしろ、な」

アメショは僕を急かしながらお手製のハチマキを押しつけてきた。『夢にラビットパンチ!』と書かれてある。

こんなの頭に巻くの恥ずかしいよ。それにラビットパンチは反則技だし……。

いったい『なに活』を始める気なんだろう。

とにかくこれが夢であってくれと祈りつつ、そのハチマキを頭に巻いた。


◇ ◇ ◇ ◇


僕は雨と朝と、それからアメショ的自由主義に一定のめどをつけた。

なんだか今日は長い一日になりそうだ。アメショが自分のハチマキをするのに手間取っているうちに朝食のあと片づけを済ませた。

あらよ、こらよ、とか言いながらハチマキを巻く作業に悪戦苦闘しているアメショのかわいらしい様子を見ているうちに、ふと、アメショがこの家にやってきた日のことを思い出した。二年前のことだ……。

たしかあの日も僕は夜勤明けだった。

あの日、僕が家に帰ると、誰もいないはずの家の中からゴソゴソと物音がした。なんだろうと思いながらそおっと家の奥をのぞくと、そこに知らないアメショがいた。全身ひっかき傷だらけだった。

後ろ姿のそのアメショはその傷口を慣れない手つきで消毒して、体にぐるぐると包帯を巻いている最中だった。

驚いた僕は、物音をたててしまった。

ところがアメショは意に介することなく処置を続けながら話しかけてきた。

「ようよう、ご主人さんのご帰宅かい。おつとめご苦労さん。なんだい、見て見りゃお前さん、坊やみてえにあどけない顔してんな。あいにくオレは取り込み中なんだ。ご放念いただきたい」

けっこうな怪我だけど気持ちがカッカとしてるみたいで荒々しい。

僕は靴を脱ぎ、それから揃えて、ふつうの猫と同じサイズのそのアメショに近づく。

「ほっといてくれと言われても、ここは僕んちなんだけどな。それにしてもひどい怪我だね、大丈夫かい?」

「大丈夫も何もオレは囲ってた10匹のメス猫ちゃんを全部奪われちまったのさ。ちきしょー、あれじゃまるで桶狭間だぜ。アイツらときたら待ち伏せてやがったんだ。でもこれから奪い返しに行くのさ。べつに奪われたから奪い返すわけじゃないぜ、かわいいメス猫ちゃんが本来いるべき場所に戻してやるだけのことさ」

「そうかい」

── そうかい。

まだ事態の飲み込めていない(この事態を完全に瞬時に素直に受け止められる人なんているんだろうか)僕にはそれくらいしか言えない。

なんとか応急処置を終えたアメショは、「それじゃあ、やっかいになったな、坊や。オレはもう行くぜ。二度と会うこともないだろう」と言って、玄関のほうまで後ろ足二本で走っていった。

あんなにちゃんと前足も振って走るとは思わなかった。

「君のことは忘れないと思うよ」と僕は彼の背中に向かって言った。誰だってこんな猫を見たら一生忘れないだろう。

そこまで威勢の良かったアメショだったが、どういうわけか玄関あたりでもたもたしていた。

包帯を巻き直したり、腕立て伏せを始めてみたり、さらには聞こえやすい独り言で、「ちょっとまてよ、闇夜を待つのも手か……。いや、しかし相手も猫だ。夜行性してきやがるしな……うーむ」などとブツブツ言いながら頷いている。

要するに……、アメショは僕に止めて欲しいんだろう。

「勝算はあるのかい?」

「あん?いまなんて言った?」アメショが振り向いて耳に手を当てたので、僕はもう一度繰り返した。

するとアメショは、「勝算?あったりめーよ。このアメショ、日本一の猫、いにしえよりの物語にもコレなき由ってもんだい……」とそこまでまくし立てたあとで急にしぼんでしまい、「ただな……まあなんて言うか、負けるな……自信ねえよ」とデクレッシェンドだ。

「だったら、なにも今から慌てて行くこともないんじゃないかな。せめてカラダが万全になるのを待つべきだと思うよ」

「たしかに、それも手だな……。うーむ、心苦しいがここはひとつ機が熟すのを待つとするか。坊や、悪いがもうしばらくココにやっかいになるぜ」

アメショは自分で言ったことで安心したのか、模範的笑顔を作り、手を(前足)いっぱいに広げてこちらに戻ってきた。

── こうして、アメショと僕は一緒に暮らすことになり、そして機が熟さないまま二年が経ったというわけだ。

だがしかし、今、“機”は違う形でようやく熟そうとしているのかもしれないと僕は思った。まるで胸の奥で超高速の『イルカはざんぶらこ』が行われているような……そんな胸騒ぎとともに。

と、そこまでを一通り思い出し終えたところで、今現在のアメショはどうやらハチマキを巻き終えたみたいだった。

「おい、坊や、なにをぼさっと考えてやがんだ?」

僕はその声で“はっ”として。やたらと非現実的な現実に戻れた。

「あ、いやさ、ちょっとね、二年前を思い出してたんだ。この家に君が来たときのことをね」

「なに?二年前?もう二年になるのか……。『いろもの二年』って言うからな……、オレもそろそろかもしれねえな」

いったいなにが”そろそろ”なのかと聞く暇もなく、アメショはまた玄関の方へ駆けていってしまった。二年前と同じマンガ走りだ。ちっとも変わっていない。

エレベータで降りて、外のバイクスペースへ。思ったよりも大粒の雨だ。

サイドカー付きのバイクにエンジンをかけてあたためる。このバイクは大戦中にオートバイ隊を支えたタイプのものらしいけど、アメショがサイドカーに乗りたくて勝手に選んだものなのであまり僕は詳しくない。

アメショは「はやく、はやく」と急かしながらサイドカーに飛び乗る。そのフィット感たるや、まるでアメショのためにデザインされたサイドカーのようだ。

僕はバイクにまたがってグリップを握る。

「で、行き先はどこなんだい?」

冷たい雨と不機嫌なエンジン音が僕の声のトーンを著しく下げた。

アメショはまるで筋斗雲にでも乗ってるような体勢をとっている。

「はっきり言って新橋だ!まずは新橋SL広場としゃれこもうぜ」

「了解、新橋でいいんだね」と僕はアメショの心変わりを牽制した。

「ああ、間違いねえ。坊や、モーゼっぽいのをひとつ頼むぜ」

さっきは気づかなかったけどリュックを隠し持っている。保護者としては中身が気になるので(危険物が入っていたら僕の責任になってしまう)、チェックしようとすると、

「わー、にゃにしやがるー。とんだパンドラ違いだー、やめろー」と猫っぽく抵抗してきた。アメショが猫っぽいことをするときが一番危険だったりすることを僕は経験で知っている。

強引にリュックを開ける。中には拡声器と、街頭演説の時によく政治家がはめている白手袋(猫仕様)が入っていた。

彼がやりたいことはだいたいわかった(僕はやりたくはないけど)。危険物じゃなくてひと安心だ。

とにかくアメショを安全に座らせてから、バイクを走らせた。

新橋に向けて……。


◇ ◇ ◇ ◇


(回想は終わりです)

僕とアメショが今こうして、雨の新橋SL広場に立つことになった経緯はざっとこんなところだ。

相変わらずアメショは僕の横で足早に通り過ぎる人たちに向かって声を枯らしている……(念のため、ここは新橋です)。

「みなさん聞いてくだしゃい!今こそ、我々ペットたちは立ち上がらなくてはならないのでっしゅ!団結するのでしゅ。マタタビを拒んで狩りをしよう!リードでつながれていない恋をしよう!われわれは負け犬でもなければネコナデでもない。デバ亀でもなければ閑古鳥でもないのでっしゅ……」

アメショの体はすでに雨粒をはじかなくなっていた。そして雨粒は、彼のひたむきさを全面的に否定するかのように降り落ち続けていた。

次から

次へと。

次から

── 次へと。

それでもアメショはめげることなく懸命に訴え続けた。

ほとんど悲鳴に聞こえた。悲鳴なんだと思う。アメショにこんな情熱的な一面があることを僕は今まで知らなかった。

今日ここへ来るまでは、はっきり言って、すぐ熱が冷めるだろうと高をくくっていた。

でもどうやら違うようだ。

アメショの熱は冷めるどころかむしろ高まっているくらいだ。ただちょっと伝わらないだけなんだ。そういうことって多々ある……。

例えばいわく非熱伝導的な社会において、アメショや僕のとるべきスタンスは自ずと決まってくるんだろう。

アメショはきっと社会のそういう部分を、そういう部分ごと打破したいんだと思う。

だとしたら、なぜ新橋を選んだんだろう。

サラリーマンたちに呼びかけるよりも、もっと動物たちがいる場所で呼びかけた方がいいんじゃないだろうか。

例えばお台場とか駒沢公園とか、もっと言えばメタバースの方がましなくらいだ。

── ここは完全アウェイ。

もしかしたらその状況に身を置くことで彼は何かの高みに行こうとしているのかもしれない。

そういう意味で今日の彼はすごく猫離れしているように見えた。


◇ ◇ ◇ ◇



アメショの懸命な努力もむなしく、1時間経っても2時間経っても、共鳴して自由を求める動物は僕らの前には現れなかった。

遠巻きに見ている猫は何匹かいるにはいた。

だけど、彼らが堂々と諸手を上げて自由を叫ぶにはこの街は冷ややかすぎた。

アメショの声が途切れたのを見計らって、僕はそっとその肩に手を置いた。本来よりも猫背気味になってしまっているそのアメショの……。

もう僕は打ちのめされるアメショをこれ以上見ていられない。

「君はよくやったよ。本当さ。ただちょっと時勢が味方してくれなかっただけさ」

彼のその肩からは疲労感が伝わってくる。

「オレは……、オレはよ……、ただの濡れネズミってわけかい?」

アメショは僕と僕以外のものをにらめつけながらそう言った。

「いいや。それは違うよ。君は猫だ」

本当さ。君は猫だ。

「なあ、坊や……、いったい無力感ってやつはどこで引き取ってもらえるんだい?置き場がねえよ、この胸に。そのままにしといたら都の迷惑防止条例ってやつに触れちまうぜ、大きすぎてよ……」

アメショは濡れた体をブルブルっと震わせた。水滴が飛んできた。無力感も少しは飛んだだろうか。

心配したのも束の間、アメショはすぐに持ち前の切り替えの早さを見せ、「何かさっぱりしたものが飲みたい」と言ってハチマキを頭からはずした。”形状記憶された枯渇感なのだ”とのこと。たしかにずっと叫び続けていたから彼の喉は相当渇いているはずだ。

僕だって結構渇いてる。

とにかく僕たちは濡れたままですぐ後ろに建つ『NEWしんばしビル』に入った。この古い商業ビルは、雑多なテナントが乱立していてカオスな場所として有名な場所だ。

入ってすぐにアメショは”バナナミルクフレッシュジュース”が飲みたいとせがんできた。久しぶりの猫のお願いポーズまで披露してくれた。

どちらかというと僕はあったかいものが飲みたかったけどもちろんここはアメショファーストでフレッシュジュースの店に行った。

午前中の早めからこんなにまぶしい店舗は他にない(そして健康ってまぶしさみたいなもので表現される場合が多い)と思わせる店構え。

「いらっしゃいましー」

当たり前だけど店員さんの声もでかい。

僕はカウンターを挟んだ若い男性店員さんの頭越しに見えるメニュー表を見てから注文した。

「えっと、バナナジュースと、それからブルーベリーヨーグルトシェイクで」

「ありがとうございます」と言ったあとですぐに確認のため注文を繰り返すその店員さんは、歯が白くて日焼けしていてさっぱりした髪型だった。

すぐに彼の手元でジューサーが音を立て始める。

ジューサーの中で今、”健康”と”健康”が混ざり合っている。しかも音を立てて……。

アメショは僕の横にちょこんと立って、黙ったまま、まるでベッドメリーでも眺めるような目でそれを見上げていた。おそらくは無意識でだと思うけど、しっぽが回転している。

ふと思う。

僕は、そしてアメショは、無意識の間隙を縫って日々を生きている。それは、ささやかな『ささやかさ』の艦砲射撃のようだ。

そう、退屈に疲れたら、とりあえずフレッシュジュースを飲むべきなのだ……と僕は思いよどんでみた。

すぐに声がかかった。

「おまたせしましたー、バナナミルクフレッシュジュースとブルーベリーヨーグルトシェイクのお客さまー」

どうやらできあがったようだ。カウンターに健康が二つ置かれている。

商品を受け取る際、店員さんが急に表情をしぼませて、僕にだけ聞こえる声で話しかけてきた。

「さっき、お連れのアメショさんん演説聞こえてきましたよ。すげー刺さりましたよ。献血かなんかのことですよね。血っていっぱいあったほうがいいですもんね。とにかくアメショさんにもガンバって言いたくて……」

「ありがとう、でも大丈夫、僕が伝えておくよ」

せっかく気持ちを切り替えたアメショにはとても聞かせられない。 

商品を手に振り向くと、そこにいるはずのアメショの姿はすでになく、向かいのハンコ屋のおやじさんと何やら頷き合いながら話し込んでいた。

アメショはそこで借りたピンク色のハンドタオルで濡れた体を拭いながら釣果の報告みたいな手つきでご機嫌そうだ。

どうやらさっきの店員さんと僕のやりとりは聞こえていなかったようでひと安心。

「ほら、アメショ。ジュースできたよ」

「あいよ」

アメショはこっちを向かずにオヤジさんの方を向いたままで返事した。

僕そっちのけで、オヤジさんとお互いの肩をたたき合って「まあそういうことだからよろしくたのむ」とか言ってる。平均的な招き猫のニヤつきかただ。

ふたりで濡れ手に粟の儲け話の相談でもしていたのだろうか。

もっとも猫の手は額ほどに小さいんだけど……。

最後に握手が終わると、ようやくアメショがこちらを向いた。

「ほんじゃあ、ジュースをいただくとするか」と言って飲み始めるアメショ。

僕も自分のを飲む。たしにスカッとする味だ。こういうものを毎日飲んで入ればあの健康的な店員さんのようになれるんだろうか。

2、3口飲んだアメショが、「やっぱりそっちのがいい」と言いだしたので交換してあげた。

「そろそろ家に帰ろうか」僕はそう言ってみた。

「いいや、まだだ」

だそうだ。

アメショは音を立ててジュースの最後の一滴まですすり込んだ。

「早く帰って、あっついシャワーを浴びたいんだけどな」

「いいや、それはだめだ。坊や、まだ終わっちゃいないし、なにも始まっていない」

アメショはもう、いつものアメショの目つきに戻っていた。少しギラついたあの目だ。

僕はコツコツ貯めておいたため息をそこでついた。

だってまだプロローグにすらすぎなかったわけだから……。

アメショが持っていた紙コップを高々と掲げて叫んだ。

「これより、作戦コード222(ニャンニャンニャン)、通称”猫の手は貸せません作戦”を実行に移す!」

まるで自由の女神のポーズだし。

なに?なに?なんだって?ニャンニャンニャン?

「で、それはどういう作戦で、どういった効果をもたらすんだい?」

参考までに僕は聞いてみた、1秒でも早く家に帰りたかった。

「ははん、さてはオレが思いつきで言っていると思ってやがるな?やい、いいか、オレの顔をよく見てみろっ!招き猫みてえないかがわしい顔してるか?」

後ろ足で背伸びして顔をこちらへ突き出してくるアメショ。

はっきりいってそれについては前述のとおりだ。

というか猫にとってのいかがわしさって何だ?

「別にふつうの猫顔だよ、キミは」

「だったらつべこべ言わずにオレについて来いっ。いいな、坊や」

気のはやるアメショは僕の腕を引っ張る。

しっぽを必要以上に振り回しているので、建物内の他の買い物客のみなさんのご迷惑になっている状況。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。作戦の内容くらいは知っておきたいね」

「ダメだ。作戦の内容は直前まで教えることはできない。猫務規定に著しく違反しちまうからな。ただ……」と、そこまで言ってアメショは急にトーンダウンして僕の腕を放した。

「ただ、なんだい?」

「ああ……、いや、ちょっと言いづらいんだけどよ……、そのー……、命の保証はできかねましゅ」

「・・・・」

「だからぁー、キケンなのー。みなまで言わすなっつーの。まったくぅー。あっ、そうだ!血判して欲しいんだ。オレのこの作戦のために命を預けてくれたという証として」

なぜすぐそこにハンコ屋があるのに?オヤジさんの入れ知恵だろうか。それにまだ預けるとは言ってない。令和の時代に血判もないもんだ。

僕が考え込んでいるふりをしていると(本気で考え込めそうもない)、突然アメショが、僕の右手の人差し指の先をサッと引っかいた。

そこから血が出る。久しぶりに自分の血を見た。

そのはずみで、いつも勤務先に顔を出す保険勧誘のおねえさんの一言を思い出した。

『長生きするリスクについてどうお考えですか?』

おねえさんは僕を見かける度にそう声かけしてきた。笑顔だった。

血を見た僕は、いつも考えないそれを少し考えられそうになった。僕がこうなったのはすべて過去のなにかのせいだということはよくわかっていた。

……長生きするリスク。

記憶の中のそのおねえさんの顔とオーバーラップして現実のアメショの顔に戻った。

「あとは押すだけ」と頷きながら、押忍、押忍、気張っている。このつかみ所のなさこそがアメショなんだけど……なんなんだよまったく。

「で、どこに血判すればいいんい?」

そう、いつだってイニシアチブはアメショが握っているのだ。

「毎度です」とアメショはおもいっきり肉球を見せながらウインクした。


◇ ◇ ◇ ◇


血は止まった。どうやらアメショの「解放ごっこ」はまだつづくようだ。

アメショがサイドカーに乗り、僕がバイクにまたがる。

お互いの距離感についてこれまで考えてなかったけど、たぶんこれが僕らの保ってきた距離感なんだろう。

お互いの距離感を保つ秘訣は……、そう……、結局は距離感を正確に測らないことなんだと思う。

エンジンをかける。力強い排気音。湯気。雨……。

もうとっくに忘れかけていた事実だが、今日は雨だ。それもいちいち突き刺さってくる雨だ。

バイクを走らせて新橋をあとにした。


走り出してすぐにサイドカーのアメショは海賊が使うタイプのぶっとい単眼鏡であちこちを見まわしている。

「坊や、この走りに何かBGMが欲しいぜ。いっちょ歌ってくれ」

単眼鏡のアメショに顎で使われる。

「何の曲がいいんだい?リクエストしてくれよ」

少なくとも僕はそれほど歌いたい気分じゃない。それに道もそんなにすいてない。

「そうだなー、いつものあれを頼む」

今度は髭先で使われた。

「いつものあれでいいんだね」

運転しながら僕はサイドカーのなかに湯船みたいにつかっているアメショの方を向いて聞き返す。

「おうよ」

メタルヒーローの主題歌メドレーで決まりみたいだ。

アメショは熱い魂を歌ったものが大好物なのだ。

ギャバン、シャッリバン、シャイダー、ジャスピオン……。

僕はリクエストに応えて、愛と正義たっぷりの歌を続けて歌う。雨だと逆に何でも歌えるもんだ。

“胸のエンジンに火をつけろ”って歌詞好きだし。

アメショもサイドカーでギャバンの蒸着ポーズでなりきってノリノリだ。このあとの作戦のことをそのまま忘れてくれればな……と思ったら、やっぱりダメだった。

突然アメショが歌を止めて叫んだからだ。

「と、とめろー!坊や、止めるんだ!」

その声に僕は慌ててバイクを止めた。後輪が横滑りして危うくアメショを振り落としてしまいそうになった。

「なんだよ急に」僕は辺りを見回す。何の変哲もない街区だ。

でもサイドカー内のアメショはある一点を眼光鋭く見ている。

「よっしゃ、ニイタカヤマのぼっちまうぜ。よし、あそこだ!あそこに決めたぜ」

二時の方角を右前足で指し示している。

その示す先を見てみると、個人経営っぽい小さなペットショップがあった。ゴールデン街の中のスナックを大きくしたみたいなその外観がやや異彩を放つ。

まだ開店時間前なのか入り口のシャッターが半分閉まった状態に降りている。そのシャッターも錆がひどく落書きも多い。

看板のキャッチコピーには『犬も犬なれ 猫も猫なれ』と書いてある。できれば入りたくないと思ってしまうのは僕だけだろうか……。

アメショはここで作戦を決行するみたいだ。おそらくそれは自由と解放のなにかなんだろう。胃がきりきりしてきた。

サイドカーから飛び降りたアメショはもう止まらない。不退転の決意として、バイクのタイヤを全部パンクさせてしまった。

あーあ。

タクシーで帰るしかないな。

アメショはもう特殊部隊のような接近の仕方で身を隠しながら店に近づいていってしまっている。

「ちょっと待ってくれ」と呼び止めつつも僕はこのままこっそりと帰ってしまいたい衝動に駆られた。だって良いことが起こりそうな要素がひとかけらもない(ごく日常的な範囲の良いこともやなこともおそらくは起こるべくして起こっているし、日常の予期せぬ出来事は十全とした予期を怠った結果にすぎない)から……。

なぜか匍匐前進なアメショが顔だけ振り向く。

「おい、坊や、なにをぼさっとしてやがる。早くついて来い!!」

しかたなく僕はまるで画家のパウル・クレーが気ままに引いた線みたいな歩線であとにつづいた。

先に店にたどり着いたアメショはぴたっと背中を壁につけて突入に備えている。何者なんだ君は……。シンプルにお店の人に迷惑だろそんなの……。

どうせ条例を気にするなら都のカスハラ条例の方を気にして欲しいもんだ。

遅れて僕はふつうのお客さんみたいに入り口についた。

決意のアメショの顔から雨がしたたりおちている。そういうシーンを何度も映画では見たことがある。猫以外で。

「オレにもしものことがあったらたのむな、坊や」

「なにもないよ、もしものことなんて」

詩人バイロンは『神に愛される者は若くして死す』とつづった。バイロンは何度か結婚して何度か離婚した。

僕はシャッターの開いたところからしゃがんで中を見てみた。薄暗くてあまりよくわからないし、人の気配もなさそうだ。

アメショは持ってもないのに拳銃持ちの構えで話しかけてくる。刑事ドラマまで入ってきた。

「いいか、オレがまず中に入って様子を見てくるからここで待ってろ。わかったな、坊や」

「一応そろそろ作戦内容を教えて欲しいな」

「たいていの勝負は戦う前についている 孫子 兵法」

そう言い残してアメショはペットショップ内に潜り込んでいってしまった。ぜんぜん質問の答えになってない。しっぽをひっつかまえようとしたけどするりと抜けて失敗した。

ここで待っていたところで雨に濡れるだけなので、僕も中へはいることにした。もちろんいたって普通に。

「ごめんください」

腰をめいいっぱいかがめてシャッターをくぐる。

やはり店内は薄暗い。納品されてそのままのペット関連商品があちこちで山積みにされたままになっている。その向こう側でひかえめに動物の動く音が聞こえる。ちゃんと動物はいるみたいだ。

先に入ったアメショは、とりあえず自分のニオイをいろんなところにこすりつけてる。

ときどき猫になる。だからよけいにアメショから目を離せなくなる。

入ってきてしまった僕に気づくとアメショは、「おい、なにやってんだ外で待ってろって言っただろ」と口パクで伝えてきた。

猫の口パク(日本語かつ、べらんめい調)をしっかりと読みとれるのは世界広しと言えども僕だけじゃないだろうか。ようは慣れだ。

わかったわかったのジェスチャーで答えておいて、「ごめんくださーい」ともう一度声に出してみた。なぜなら僕は作戦実行の気力ゼロだからだ。

僕のその声はあちこちに山積みにされている、ペットフードやペットシーツの10キロ大袋に当たって落ちた。

── とくに店内の奥から反応はない。レジ付近も開店前の状態にはほど遠い感じだ。

アメショが邪魔してくるのをかいくぐりながら何度か呼びかけてみたけど、やはり誰もいないみたいだ。

逆にほっとした。これならアメショも素直に引き下がるだろうから。

「ほら、アメショ、作戦は延期だね。無人の店舗に奇襲をかけるなんて武士道に反するもんね、ね、早くお家に帰ろう」そして僕はあったかいシャワーにビールだ。

二度寝の間隔の概念は何時間までが対象なんだろう。とにかく寝たい。

これだってきちんとした自由であり、一種の解放だろ?アメショ?

でもそこはアメショ、僕の言葉なんか全く聞いてなくて、どんどん店の奥へ行ってしまい、先ほどから動物の動く音が聞こえてきていたあたりで何かにぶつかる衝撃音がした。

もう行動にでたのかと焦ってすぐに僕も急行する。

そこは、空の展示ケージばかりが並ぶエリアで、そこにしっぽを足のところでくるっと巻いたアメショが放心状態で立っていた。

その場の状況から一度ぶっ倒れてまた立ち上がったようだ。その視線の先にはケージの中のかわいらしいメスのパピオン。長い耳の毛がおしゃれに垂れ下がっていて、尾を振っている。生後4ヶ月の表記。

「どうしたんだい?アメショ?」

本当はなんとなくわかっていた。惚れやすい彼のことだから……。

ひとりでぶつぶつ言うアメショ。「天よ、喜べ、地よ、よろこび呼ばわれ……」という詩篇の一説。どうやら感激を持って何かを迎えているようだ。やな予感が増す。

僕がもう一度「早く帰ろう」と声をかけるとようやくアメショがこちらを向いた。なんだろう、憑き物がとれたみたいな顔になっている。

「……だからお前はだめなんだよ、坊や」

背中の毛艶もいつもよりもいい。そして彼は言葉を続けた。

「お前はだめだめだ。いいか、賢者は歴史に学ぶんだ。愚者は経験に学ぶ。マルクスの言葉さ。坊や、お前のおかげでオレもその意見との一致を見たぜ。なあいいか、オレは成し遂げるんだ。そうじゃなきゃだめなんだ。円周率の下4ケタがトイレットペーパーの芯に書いてあるような気概でぐるぐる巻き取ってやるんだ!」

二本足立ちのアメショは前足で髭や頭の毛を神経質にこすりながらまくし立てた。

まちがいなくアメショはこのパピヨンに一目惚れしたみたいだ。

こちらを交互に見ているパピヨンの潤んだ瞳が僕にこのあとの何かのドタバタした展開を予感させた。

もしかしたらそれはシェイクスピアの言うところの”悲劇的喜劇的歴史劇的牧歌劇とやらなのかもしれない。

長期戦を覚悟して、バイクのところに置いておいたアメショグッツを取りに行くためにいったん店の外に出ようとした。

── 足。

女のひとの。

それを見て僕ははっとした。

半開きのシャッターの向こう側に、こちらを向いた白く細い二本の足があるのに気づいたからだ。しかも裸足。

シャッターの向こうから「ねえ、誰かいるの?」という声が店内まで潜り込んできた(もちろん潜り込んだのは我々です)。若い女の人の声だ。おそらくはこの店の関係者だろう。

……どうしたものか。

第一に、ここで僕らはなにをしていたと説明すればいいんだろう……。まさかアメショのせいにもできないし……。

また声。

「ねえ、なかのひとー、あたし今、手がふさがってるの。誰かいるならシャッター上まで開けてくれない?」

ビニール袋の擦れる音と、瓶と瓶があたる居酒屋みたいな音がいっしょに聞こえてくる。

……まあなんとかなるだろう。

僕はその女の人の裸足の足のにおいがかげそうなくらいまでしゃがんで、シャッターをゆっくり持ち上げ始めた。

もっと錆び付いた音がするかと思った。

ガラガラガラララ……

── え!?

シャッターを一番上まで持ち上げた僕はそこに立つ女のひとの全容を見て絶句してしまった。

朝からの眠気はそこですべて吹っ飛んだ。

なんせ全裸だったんだから。




                (B面へ)つづく

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