アメショ、ありったけル。/B面
── 全裸。
その言葉で簡単に間に合わせられるほどこれは単純な状況じゃない。
ペットショップの店先での出来事を超越しすぎている……。
その女の人は21か22か23歳くらいに見える。いや、26歳くらいかもしれない。髪の毛はかなり短い。ベリーベリーショート。目ぢからが強くて眉毛がない。そしてプレパラートみたいに薄い唇。全体としてかなりクールな印象(全裸で寒そうと言う意味ではない)を僕に与えた。
まいったなこれは……。でも初対面だったから逆に相手の顔だけをしっかりと見れた。
そうだ、とにかくこの場を弁解しなくては。
「あ、あの……、ちょっと雨に濡れたんで、ペットのトリミング用のシャワーでもお借りしようなんて思ったりして……」
しっかりとした冗談構えだ。全裸を見てしまったあとで照れ笑いするのも順序逆すぎて難しいもんだ。
僕はいままで、初めて会った全裸の人に弁解をしたことなんてないので、これが限界だ。
彼女は頭の雨粒を少し振り落としてから店内に入るついでにこう答えた。
「あら、そう。どうぞご自由に。二階に上がれば『にんげん用』のシャワールームもあるわよ」
僕の前を通り過ぎた彼女は両手にビール瓶がまるでロケット弾のように何本も入ったビニール袋を携えている。
僕は濡れた彼女の足跡(全裸の人がタイルの床につける足音ってなぜか無邪気に聞こえる)と、細くすらっとした足を後ろから目で追いながら、改めて全裸であることを確認した。
目のやり場なんてものは所詮こしらえものだと、たった今気づかされた。そういう認識でいいんだろうか。
そもそもなぜ彼女が全裸なのかという疑問自体がこの場においてナンセンスなんじゃないかという気さえした。それくらいに彼女は非日常の上から日常をうまく纏えていた。
おっと、忘れてた。
「あのさ、実はウチの猫も一匹おじゃましてるんだ。ほらあそこのアメショ」
僕が指でさした先のアメショは、まだ、さっきのままで、愛しのパピヨンちゃんとケージ越しに前足をとりあって、愛をささき合っている。
だから全裸の女性が登場したことなど全く気づいていない様子だ。
それを見た彼女は「ふうん」とそっけなく反応して少し奥にあるレジカウンターの向こう側の椅子に腰掛け、台上にビール瓶を一気に並べた。室内灯はつけないままみたいだ。
わかりやすい手のたたきかたで「そうだ」と僕を見る彼女。
「ちょうどいいわ。ねえ、あなたも飲んでいかない?」
ハンドベルみたいな手つきで瓶を持ち上げて揺らしている。
僕は少し悩んで、アメショの方を見た。まだ当分のあいだ熱が冷めそうもない。それにバイクももう使い物ならないし。
今朝から僕の身の回りで一貫している品行方正な禍禍しさを払いたい気持ちも手伝い、
「じゃあ、いただこうかな」と結局そう答えた。
僕はたしかペットショップに入ったわけで……、間違ってもショットバーには入ってないわけで……。
軽く頷く彼女。でも彼女が足を組んだらとたんに目のやり場に困りだしたのは不思議だった。体のどこか一部が隠れると、すごく裸であることが際だって見える。
「とにかく」と飄然かつ冷然な彼女。「ちゃっちゃとシャワー浴びてきちゃいなよ。こっちは用意しとくから、ね」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
こういうとき首の後ろをさすってしまうのはなぜだろう。論文があったら読みたい。
僕はとにかくちゃっちゃとシャワーを浴びさせてもらうことにした。
そして同時にさっきまでの自分の考え方に訂正を入れてさらにきちんと訂正印を押さなければいけない、とも思った。
『予期せぬ出来事は、十全とした予期を前提にしても起こりうる』
それが訂正後の考えだ。
だって、たまたま入ったペットショップで欲しかったあったかいシャワーとビールが手に入ったのだ。おまけに全裸の彼女。
さすがに考え方を変えなきゃだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
2階にあるシャワーはなぜかコイン式だった。
僕みたいにシャワーを借りにくる人がちょくちょくいるのだろうか……?
僕は100円玉を一枚投入して10分間のシャワーを浴びることにした。
剥き出しの配管の途中にある硬いバルブひねる。名前の知らない鳥の鳴き声みたいな音がする。
なかなか出てこない。
なかなか……。
ひねりながら備え付けのシャワーヘッドを見上げる。
そう、この角度……。それは僕のある時期の記憶と強烈に重なる。
── コインシャワー。実はそれは僕そのものと言ってもいいものだ。
僕は冷たいシャワーばかり浴びて育ってきた。
温度調節のまったく効かないコインシャワーで……。
その事実こそが僕の幼少期のすべてだ。
『どんな証明もそれは証明の体系の一部である』そんな言葉みたいに、
僕は僕の過去の一部から僕の証明を試みてきた。ずっと、ずっと……。
“コインシャワーボーイ”そんな風に自分を呼べば少しは気分も軽くなるだろうか。
当時の僕はシャワーとはそもそもコインなしには働いてくれないものだと思っていた。
僕は幼少期のほとんどを叔父の運転する10tトラックの助手席で過ごした。小学校に上がってすぐに両親が僕を叔父にまる投げしたからだ。
理由は知らない。今でも知りたくはない。あのフロイトだって『理由なし』と断じてくれるくらいに些細なことだと思う。
叔父は大手の運輸会社の下請けの下請けのそのまた下請けをしていた。物流の2024年問題なんてまだなにも問題なかったころのことだ。
僕は学校には行かずに来る日も来る日もトラックに揺られ続けていた。叔父はいつも教育に良さそうなラジオ番組を車内で聴かせてくれた。
僕はとくに退屈しなかった。寂しさを覚えた町から遠くにいけるし、はじめから『退屈するために必要なもの』が僕には備わっていなかったのだろう。
とにかく僕にとってはトラックのキャビン大の空間が世界のすべてだった。
シートベルトで縛り付けられた世界……。
それが当たり前だと思ったし、なにも欲しがらなかった。
三日に一度、叔父は僕にシャワーを浴びるように言った。コインシャワーだった。
洗車のついでで止めたトラックからハシゴづたいに降りた僕は、100円玉を握りしめてシャワーボックス内に入った。
そのなかには、およそ簡易的でないものがなにもなかった。ちょうど僕は簡易的なものを親切なものと誤認している時期でもあった。
小さい僕からはとても高いところに備え付けられたシャワーヘッドを見上げた。届かないなにかをうらやむように……。
バルブが硬くて、よく両手で回していた。
結論から言うと、
利用可能な10分のうちの8分は冷たい水で、残りの2分はなにも出なかった。
そのシャワーを浴び終えたあとはいつも濡れた髪のまま外に出て、夜空を眺めながらトラックのキャビンに戻り、シートベルトをしっかり締めた。
叔父は毎週土曜日の夜、大阪行きの便の積み荷を降ろし終えると、僕を残して夜に街へと消えた。
一人の残された僕はブランケットをかけて、夜通し叔父の帰ってくるのをひたすら待っていた。
孤独感を粘土のように心の中でこねくり回すことで眠ってしまわないようにした……。
もしも眠ってしまったら、もう一度人生をやり直さないといけなくなる気がした、そのときはそれが恐怖だった。
叔父はいつも朝まで帰ってこなかった。“夜明け前が一番暗い”とよく言うが、キャビン内はもっと暗かった。
「朝に先を越されたのだ」と弁明する叔父の言葉をなぜか素直に受け取っていた。酒と香水のにおいがきつかったけど窓を開けると燃費のことを言われるのでできなかった。
ヘミングウェイが“何を見ても何かを思い出す”というタイトルの小説をたしか書いてた。
そして記憶は流されていく。意識の排水口へ……。
排水口へ……。
僕はそこでこの現実のシャワーを止めた。熱いお湯だった。
──10分間。
制限された“時間”に別れを告げた僕はシャワールームから出た。
◇ ◇ ◇ ◇
「ありがとう、おかげでさっぱりしたよ」
2階から戻った僕は彼女に言った。
「そう、よかったわね」
彼女はちょうど、白い長手袋をはめているところだった。
白い長手袋だけ……、あとは裸……。これでもう全裸ではなくなったんだろうか?
いや、まだ全裸だろう(少なくとも全裸寄りだ)。
彼女はすでにビールを二本空けていた。そのせいか少し陽気な声になった。
「あのシャワールームに入った男はみんな無垢なコになって出てくるのよ。あなたもわりかしそうみたいね。まあ、“即物性の無垢”ってとこね」
「とにかくいいコインシャワーだったよ」
なんとなく意味を込めて言った。レジカウンター(ほとんどバーカウンターのようなつくりだ)をはさんで向かい合わせで高めの椅子に座った。自然にそうしていた。
「君の名前は聞かない方がいいんだよね」
「最近ではどこも名札はつけないみたいよ」と言って全裸の彼女は笑った。
僕の前にビール会社のロゴの入ったグラスが置かれた。そこにビールを注いでくれながら、「そういえば、ようこそいらっしゃい」と改める彼女はさっきまでよりさらに若く見えた。
紳士的黙礼を返してからビールを一気に飲み干す。感嘆符がついてしまうくらいうまい。
彼女も時折僕に横顔を見せながら早めのペースで飲んだ。くっきりと浮き出た鎖骨が全裸という不安定な事象に、ある種の安定感のような印象操作をしてくれていた。
「ビールは4℃がいちばんうまいらしいよ」僕は空のグラスを置くための枕詞みたいにそれを言った。どうでもいいことが言いたかった。
「そうなんだ、知らなかったわ」彼女の感想はいつも下の句みたいに、なにかが続くことを拒むのかもしれない。でもそれは単に、白い長手袋でビールを飲んでるからかもしれない。
「でも、あたしは飲みたいときに飲みたいように飲むわ。セックスだってしたいときにしたいぶんだけしたいでしょ?」
「そうかもね」と僕は手酌しながら答えた。へんな居心地のよさがあった。ペットショップだということを何度も忘れかける。
彼女はあっという間に3本目を空にすると、一度立ち上げり、レオパード柄のフェイクファーハットを被った。彼女が一瞬マネキンのように見えた。
そろそろ全裸と呼ぶべきではなくなってきたのだろうか?物事にはどこかで線引きが必要になる。
再び席につく彼女。その乳房が決然と揺れた。
僕の視線を汲み取った彼女は、「ああ、言っとくね」と断った上で、こう言った。
「あたしね、酔ってくるとだんだん服を着だすのよ。ほら、よくお酒飲むと脱ぎだしちゃう女の子っているでしょ、あたしはその逆なの」
「個性的で良いと思うよ」
いつも思う。『個性』に対して『個性的』っていう没義的な当て言葉をつくったやつは誰なんだって。使っといてなんだけど……。
「個ね……。全宇宙の個はやがてひとつに収斂されていくわ。広がりすぎたのよ。きっとね、そう思わない?」
彼女がそういう肩のすくめかたをするとは思わなかった。
僕は、「たしかに」と答えた。
「欲しがりすぎたのね……、きっと……。ところであなたは欲しがることに怯えてるみたいだけど」
「え?そんなことないと思うけど……」
……どうだろう。……不意をつかれて戸惑った。彼女には僕の何かが見えているんだろうか。シャワーバルブを捻るような手つき彼女。
そして記憶が降り注いでくる……。
そう、そうだった。あのころ僕が欲しがらなかったのは、無欲だったからじゃなくて、怖かったからだった。この世界をつくるパズルの最後の1ピースがはまるはずの空白がもしもなにかを欲しがったら完成しない、そんなまわりくどい恐がりかただった。
つまり、欲しがる手順じゃなかった。
今のこの特異なシチュエーションが妙な説得力でそう説き伏せてきた。
「いつだって男は逃げているわ」と目の覚めるような声の彼女。「男にとってそれは、例えば『探してる』ってことも、女から見れば逃げてるだけ。それもただ、に・げ・て・る だけ。女に甘えて、仕事に甘えて、非現実性に甘えてる。ようするに、ただの甘ったれ」
「男はただの甘ったれなんだね」と僕は確認した。
僕は説教されているんだろうか。それとも、何気ない会話の中のちょっとした高ぶりなんだろうか。
もう一度、これ、
『モノゴトには線引きが必要になる』というやつ。
どう引くかじゃなくて、どう引かれたがってるか……。
考えていたら、突然、タンッと大きい音。彼女がグラスを台の上に半丁賭博みたいに叩き置いた。中のビールが勢いよくこぼれる。
「欲しがりなさいよ!」
目が据わっていた。僕をまっすぐ見ていた。
「え?」
「早く欲しがるのよ」
「えっと……それは……」
「欲しがりなさいよ、あたしを」
その都度、乳房が揺れた。僕はその揺れたままを見ていた。まるで1億2000万年分のメトロノームのように……。
言葉にできそうだった。
「……僕は君を抱きたいと思うべきだと思う」と言っている途中で、横槍ならぬヨコネコが「タァーー」っと割って入ってきた。彼らしい再登場のしかただ。
台の上で横滑りしながら止まったアメショは彼女の方を向いて言い放った。
「やいっ、お前はここの主か?」
いちいち僕の顔にしっぽが当たる。彼女はというと、この手の動物にはなれっこといった風だ。
「あたしが主ならなんなの?子猫ちゃん、お願いだからビールの中に毛を落とさないでね。去勢しちゃうわよ」
「なんだとー、アル中のくせに、チキショー」アメショはジャブのネコパンチを連打で繰り出している。
せっかくの彼女とのいい雰囲気を台無しにされた僕の方がチキショーって言いたいくらいだ。アメショにちゃんと聞こえるように舌打ちしてやる。
一方のアメショは、雨天決行された盆踊り大会みたいに小忙しく動き回っている。そのおかげで僕はアメショの足の動きに合わせて、ビール瓶やらグラスやらを動かして上げる仕事が増えた。
「で?アメショちゃん?」足を組み直す彼女。「ご用件はなに?店外デートならお断りよ。あたし、猫って好きになれないのよ。あたしがあまりにも猫そのものだからかもね。ごめんなさいね」
── だったらなんでペットショップなんてやっているのかとツッコミたくなるのを僕はこらえた。
もちろんアメショはそれをこらえきれない。カウンターの上で肉球地団駄。
「えーい、女、オレが猫だからって4の5の言うんじゃねえ。この会話は最初から一方通行なんだ。要するにオレはお前に通告してるんだ。浦賀ってんだ。いいか、オレとこの坊やは解放区から来たんだ。今から解放の名の下にあのパピヨンちゃんを奪い去る。いいな」
アメショはクラークの銅像みたいに、例のケージの方向を指した。
でも彼女は一貫していた。「どうぞご自由に」。
どうぞ ご自由 に
それは彼女の人生のテーマなのかもしれない。
「いいのかい?」と僕は心配になった。「この猫はほんとに“やっちまう猫”なんだよ」。
彼女は、アメショのときに大型農業機械みたいなすさまじい実行力を知らない。
「そうだ、よく言った坊や。その通り、オレは『やっちまう猫』だ」
ライオンのガオーのポーズも威圧感は乏しい。
「だから言ったでしょ」と彼女はビール瓶の先でアメショの顎を軽く持ち上げて余裕の笑み。「どうぞご自由にって、あたし言ったはずよ。ただしアメショちゃん、忠告しておくわ。あのパピヨンは二時間以内にここに戻ってくるわ」
それを首を横に振って聞くアメショ。
「いいや、パピヨンちゃんは二度とここへは戻らない。オレの言う『解放』はそれくらい向こう見ずなんだ!」
くるりと空中高くバク宙して台から床に飛び降りたアメショはしっぽを立てて走り出し、そしてそのままパピヨンのいる展示ケージに体当たりした。破壊して連れ出すつもりらしい。
「おーい、大丈夫かい?怪我だけはしないようにね」
僕は一応、彼の保護者という立場である。
例えばペット医療保険というのは、今回のようにネコが解放の名の下に自分で思いっきりケージに体当たりして怪我した場合でも適用の対象になるんだろうか……?
でも僕は首を振った。
そう、保険会社の人だって暇じゃないのだ。
「こちら側が解放されたいくらいです」と一笑にふされるのオチだろう。
ガシャーンという、予想していたよりもやや小さい音が聞こえてきた。僕らが座っている場所からは通路の突き当たり付近なのでよく見えた。
パピヨンの入っていたケージは劇的というにはあまりにあっけなく壊れた。それは解放と呼ぶにはどこか物足りない救出劇のように見えた。
アメショ、叫ぶ。
「さあ、早くここから脱出するんだ!安んじてオレについてくればいいんだ!」
半ば強引にパピヨンをケージの外に出すと、そのまま僕らの方は通らずに連れ立って店の外へと飛び出していった(パピヨンは四足歩行です)。
その際、出入り口付近でパピヨンは店主である彼女のほうを振り返り、どうしようもないくらい戸惑った顔をした。まるで金曜の夜にするはずのデートが火曜日にスライドしてしまったかのような……そんな顔だった。
静穏がもどる店内。
どうやら解放劇は終わったみたいだ。もちろん第二幕がなければだが。
僕は“解放”が後に残していったものを店の中に探してみた。
──でも、なにもなかった。
そのあとで「ほんとうにごめん」という思いを込めた顔を向かい合わせる彼女に向けた。
フェイクファーハットを深めに被りなおした彼女は「さあ、ビール、ビール」と、二つのグラスになみなみ注いだ。
時計に目をやると正午になろうとしている。
「ちょっと聞いてもいいかな」
「ええ、いいわよ」
「その……、さっき君が言ってたやつ、パピヨンが二時間で帰ってくるっていうのはどういうこと?かなり自信があったみたいだけど……」
「それはねえ……」と言って彼女はグラスの縁を指先でなでた。「それは、あのコが女だからよ」。
「おんな……?だから……?」
僕は座り直した。何かがそうさせた。
「いい?あのコはとっても賢いコなの。女のズルいとこをちゃんと持ってるコなのよ。女が女していく上で必要なズルさをね」
「……ふうん」
なんとなくで頷いた。彼女が全裸なことを忘れかけてた。
彼女は眉間に何本かのしわを寄せて話した。
「女のズルいところって、いちいち挙げていったらきりがないわ。……でも、それは男がバカでだらしがないからなのよ」
「男がバカでだらしないからなんだね」
逆にビール製品のキャッチコピーになりそうなくらいにクリアな響きだ。
彼女は少しだけ前に身を乗り出した。
「実は二時間後にあのコの飼い主になる人が迎えに来ることになってるのよ。それはあのコにも伝えてあるわ。いい?女は人生の限られた時期に限られた冒険しかしないものなのよ。それ以外の冒険的行為は女のズルいところが許してくれないのよ」
「なんとなくわかる気がする」とだけ僕は答えた。それ以上何か言うことがそれこそ冒険的なにかに思えた。
「で、あなたはどうするの?」
全裸の彼女の唇がそう動いた。それから僕の頬を手でなでた。
「どうするって?」と僕。
彼女の顔がもっとすれすれまで近づいた。そして艶やかな声で、「あたしなら、あなたを『解放』してあげられると思うわ」。
……僕を……解放……する?
彼女は体を戻すと、薄い唇の間にタバコを一本はさんで火をつけた。
僕は立ち上る煙越しに幻のように彼女を見ていた。
吸って吐いてさらに彼女は話した。
「肉体的にも精神的にもあなたを か い ほ う してあげられるわ。そして、あなたは心底そのことを望んでいるわ」
「潜在的にってこと?」
「そうね」
彼女はタバコを持ってる方の手の肘を逆の手で支えていた。
僕は少し考えてから、「もしかしたら……そうなのかもしれない」と答えた。できるだけ過去のあれこれから切り離して結論づけたつもりだった。でも本当は、彼女の肉体的な魅力が僕にそう言わせただけかもしれない。
「じゃあ、決まりね」
彼女は立ち上がりながら吸いかけのタバコを床に落として裸足の足の裏で踏み消した。
そのままレジカウンターを飛び越えてこちら側に来た彼女は僕の体にからみついてキスした。暴力的なキスだった。
僕の口からは血が流れ落ちた。
本日二度目の出血だ。
触れあった彼女の肌は、ずっと裸だったせいか冷たかった。
「ただし……」とキスを止めた彼女。再び僕の目を見る。「ただし、お金をとるわ」。
「ああ、もちろんだよ」
しゃべったら血の味がした。
彼女は僕の目の奥に棲む生き物でも見るみたいに注意深く見て、僕の両頬に手を当て、さらに言った。
「性交渉って有償なものよ。一見、無償に見えるものでも長いスパンでよーく見てみればそれは有償なの」
「たしかに性交渉は有償だと思うし、そうあるべきだと思うよ」
僕の中の何がそう言わせるのかはわからない。それさえ性交渉の副次的な何かなのかもしれない。なぜか僕には無償のセックスがうまくイメージできない。
お互いが無償で、しかも満たされるセックスの形がうまくイメージできない。
── ただ欲しがるなんて、僕にはとてもできそうもないことだった。
「カードは使える?」
「ええ、使えるわ」
彼女はそう言うと、ずれていたフェイクファーハットを被りなおした。
そこから現実が、一気に、線引きされた向こう側に行ったみたいな現実感が僕を包んだ。
「フシダラなセックスなのよ。あなたが本当に求めているのは……。荒々しくて野性的な、むき出しのセックスなのよ」
その言葉がずっと頭の中で響き渡り続ける。
彼女に手を引かれて、そのつるっとした背中を見ながらふたりでペットショップの二階に上がった。
彼女はいつのまにかロングブーツを履いていた。階段を一段一段上りながら、相手が全裸の時よりも興奮をおぼえている自分に気づいた。
ふと、アメショが頭の中を通った。アメショも今ごろどこかで発情しているかもしれない。
身も蓋もなく乱れた世界の
身も蓋もない 終わり……。
その最後を見ずに済むのなら、目の当たりにしたくはない。
世界は広がりすぎた、そう、そうなんだ……。
── 二階の彼女の部屋には何もなかった。
大きな窓に白いレースのカーテンがかかっているだけだった。
どこか未開拓の空虚感があった。あらゆる生活感がこの部屋を避けているみたいだった。
── そして僕は、今からここで
セックスを する。
彼女は窓のところまで滑らかに歩いていくと、両手で引き裂くかのようにカーテンを開いた。
窓には雨粒。そのいくつかが落ちながら筋をつくっている。
「あら?今日って雨だったのね。全然気づかなかった」
窓を開け僕を振り返る彼女。一連の流れのすべてが魅惑的に映った。
そしてその裸体はまるでピュリスムの絵画のように、雨の東京と調和して見えた。
だから僕は言った。
「今日はずっと雨だったよ。どうしようもないくらいにね……」
窓の外の東京……。その中には頭ごなしの否定もいっしょにある。緊急避難的に僕は、雨の方に感情移入する。
たしか男はいつだってにげてるんだっけ……。
「さあ、いらっしゃい。解放が待ってるわ」
僕はその彼女の広げた手の中へと吸い寄せられていった。
彼女を抱くのにベッドはいらなかったし、元々この部屋にはなかった。
僕だけが服を脱ぎ捨てた。
彼女は窓枠をつかんで向こうを向き、僕はその後ろ側から、解放のために彼女が用意してくれた体位で交わった。
彼女は少し芝居ががった大きな獣のわななきみたいなあえぎ声をとどろかせた。
僕はただ繰り返すことを繰り返し続けた。
彼女が横顔だけを向けて僕に言うのが聞こえる。
「もっと、激しく、バカになって……、解き放つのよ……」
僕はそれに応じるように体を動かす。
視線が彼女の背中から上を向き、外が見えた。
窓の外、薄靄のかかった東京の雨景にはどこか詩的なところがあった。
── 詩的な昼下がり……。
その景色の中に彼女の被っていたフェイクファーハットが落ちていった。窓の外へ。
彼女が僕の動きに、まるで親切な合いの手のように合わせて動いてくれているのがわかった。
それは突然だった。僕は自分が求めすぎていることに気づいた。ほとんど脅迫的にそれはこみ上げてきた。
結局、呼び覚まされたのは、欲しがることへの恐怖感だった……。そう、あの……。
とたんに僕は強烈な吐き気を催した。自分への嫌悪感からだ。
すべてをわかってくれているかのような彼女の声がする。
「いいのよ、それでいいの。あたしの背中に思いっきり吐いて」
── すごく遠くに聞こえた。
彼女は後ろに回した手で僕の手をしっかりつかんでくれた。すごくか細い指先だった。
それは詩的な昼下がりだった。
僕は堪えきれず、彼女の言うとおりにするしかなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「なんだか……ごめん」
服を着ながら僕は言った。脱ぐ前より服が緩く感じた。
シャワーを浴びて戻ってきた彼女は、なぜかバスローブ姿だった。全裸の時よりも痩せて見える。
「べつに謝ることなんかないわ。解放のカタチってひとそれぞれなのよ。だからいいのよ」
どこか寂しげなその横顔。
「君はどうなの?君の解放は?」
「あたしにはそんなもの必要ないわ。だからこそ誰かの“解放”のお手伝いができるのよ」
立ったままこちらを向いた。目があった。
「それは本当の君なんだね」
「そうよ」
そして視線はそれた。言葉が通奏低音のように部屋の中に響き続ける。
たとえば男の気安い同情なんかは全く寄せ付けないオーラを彼女は持っていた。
だから僕はそれ以上を言わなかった。
彼女が部屋のドアを開けながら首を傾げて「行こう」と僕に伝えた。
「さあ、そろそろよ。そろそろあのコたちが帰って来る頃だわ」
僕らが一階の店舗に降りるのとほぼ同時に、アメショとパピヨンの戻って来た気配があった。
すぐにアメショの「どうしてなんだよぅ」という嘆き声が聞こえた。
彼女と僕はそれを聞いて顔を見合わせた。
「ほらね」と彼女はいたずらっぽく肩をすくめる。そのローラー作戦の末にやっと見つけたみたいな彼女の一面がとても美しく感じた。
再び入り口付近のアメショの声が割って入ってくる。
「どうしてなんだ!なんでキミは“ここへ戻ってくる”なんて言うんだよ。オレには理解不要だぜ、まったく。自由を置いてけぼりにするなんて……」
声のところへすぐに行ってみると、アメショは思っていたよりも取り乱していた。
そのそばにいたパピヨンがすこしずつ後ずさるようにアメショとの距離をとった。きっとその距離はアメショにとっては絶望的な距離なんだろう。
千々に乱れそうになる心をなんとか猫砂の重たい袋に体を預けることで支えていた。僕が声をかけると少しだけ前足を上げてかろうじて応えた。
そんなアメショにうるうるした瞳のパピヨンがしずかに口を開いた(おまえもしゃべるんかいってツッコまないでください)。
「だって……、だって……、パピは、キラッキラに輝いて、サラッサラになびかせて、ピッキピキに踊ってたいんだもん。アメショさんといたらたぶん退屈しないとは思うよ。それにすごくキュートだし。でも……、いずれガビッガビになっちゃうんだもん。そんなのやだもん、パピは……」
その言葉は、まるでスポットライトを浴びているかのように強めの抑揚をつけてお披露目された。
まともに食らったアメショはかなりオーバーに頭を抱えてしまう。
そしてへたり込みながら、やっと絞り出せたような声で。
「オーマイガーってこういうときに言うのか。今だな、きっと今なんだ」
友人として僕は何か一声かけるべきなんだろうけどなかなかその言葉がみつからない。
彼女のほうにSOS気味に顔を向けると「でしょ」の顔だ。「さあ言ってしまいなさい」と彼女はパピヨンに無言の表情で促している。
頷いたパピヨンがアメショの方を向く。前足がきっちり揃っている。
「あのね、パピにとっての自由はね、飼い犬としての自由なんだもん。パピにとっての幸せは飼い犬としての幸せなんだもん。ガッチガチに守られたいんだもん。決められた未来ってドキドキしちゃう」
例えば、ダーウィンの進化論は実証されていない、だから仮説に過ぎない、という側面。今のこの動物たちの場面にその事実が何かを添えてくれるかもしれない。
「わかってもらえる?」
「さあな」
へたり込んだままのアメショは振り払うような首の振り方をした。ただ救いのよすがなく、それ以外もなく……。
タオルを投げ込んであげたくなる。もう十分アメショは傷ついた。
「アメショさん、本当にごめんなさい。なんかザラザラしちゃって……。まんまの意味でごめんなさい。それしか言えないもん……」
パピヨンはそこで涙をした。逆に言えばそこまでは涙は流さなかった。
アメショは両耳を外側い向けて現実を遮断するかのようにしっぽで自分の目を隠していて、見ていていたたまれない。
そのあとの気まずい沈黙はわりとすぐに破られた。
店のすぐ外の道路に、一台の車が止まった音がした。
スポーツタイプの真っ赤なボディ。どうやらそのときが来たみたいだ。
運転席の扉が開き、何かを踏みつぶすみたいな足の出し方で中年の男が出てきた。
カーラジオのでかい音。FM。陽気なDJの声。「今日はみなさんにとっておきのラヴのいデリバリングを……」
男は威勢良く、「ようよう、どうもどうも」と声をとばしながら、ベルトなしのジーパンに手を突っ込み加減で店の中に入ってきた。
バスローブのの彼女は愛想のいい笑顔を向けながら、パピヨンの右耳によそ行きの花飾りおをつけてあげている。
僕とアメショは並んで通路の脇に立っていた。アメショはずっと下を向いていた。男はちらっとだけ僕を見て、少し驚いた顔をしたあとは二度と僕を見なかった。
……おそらく、と僕は思った。
おそらくこの男も、僕と同じようにここでシャワーを浴び。そして『解放のお手伝い』をしてもらったんだろう。
男はめくっていた長袖の白シャツの袖をさらにめくって彼女と対峙した。
すっかりよそ行きの顔のパピヨンはふたりの足下でしっぽを振っている。
とっておきのラヴは今日もきちんとデリバリングされようとしている。
彼女が何気なく男の頬に手を伸ばし触れた。そのさりげない受け方が彼女とのあれこれを想像させた。
僕はそのときうまく嫉妬できなかった。
支払いが済むと男はパピヨンを抱き抱えた。
「またいらしてね」と言った彼女はさっきまでとは別の彼女に見えた。
男が店を出るとき、肩に乗ったパピヨンの表情が一瞬だけ固まった。まるで初期化作業に伴うフリーズのように……。
僕の足もとのアメショは、その無添加のサヨナラのシーンに対して背を向けていた。
「坊や、全部終わったら教えてくれや……」
前足も床につけたその体は震えていた。アメショは泣かない猫だと僕は勝手に決めつけていた。
車のドアが閉まる音、エンジンの音。去る音。
僕はアメショの肩にそっと手を置いた。
◇ ◇ ◇ ◇
「というお粗末さ、坊や」
アメショは鼻で少し笑って(猫が鼻で笑うとくしゃみみたいになる)そう言うと、よっこらしょとまた二本立ちになった。
僕がアメショにかける言葉を探しているうちに、アメショはよろよろとした足取りで店を出て行ってしまった。
これでこのペットショップの中に動物が一匹もいなくなったわけだ。
僕は彼女の方をみた。彼女も僕を見ていた。さっきまでの彼女に戻って。
彼女とまだここにいたい気持ちもあったけど、アメショをひとりぼっちにはできないので、急いで支払を済ますために財布をとった。有償なので。
すると彼女はその僕の手を包むように押しとどめて言った。
「あなたからお金はもらえないわ」
「どうして?」
「もらったら負けな気がするの」
「僕の負けからはじまってた気がするけど」
たしか男は逃げ回ってるんだっけ。
彼女は手を離してそのまま後ろで組んだ。
「それにあの猫ちゃんへの慰謝料ってのもあるし、あたし、猫にだけは借りを作りたくないの。自分が猫だから。だから相殺ね」
彼女はかたくなに受け取らなかった。全部が“ご自由に”ってわけじゃなくて、そんな彼女が見れてなぜかほっとした。
「わかったよ、ありがとう」
室内灯がやっとついた。いや、外が明るくなっただけかな。
彼女が僕の頬に落書きするみたい触れてなでた。
「あなたってコントロールされなすぎるわ。悲しい人。いい?覚えておいて、男はいつだって女にコントロールされて悦びを感じるものなの。女はみんな遅かれ早かれコントローラーを手に入れているのよ。あとはお酒を飲んで、トリセツを読むだけ」
頬に当たる彼女の指先が同情を奏でている。
僕にも言葉にしたいことがあった。
「君の解放は本当にいらないのかい?」
もちろん僕には彼女の奥の奥まで踏み込む権利なんてないことはわかっていた。
「ええ、いらないわ」
深いまばたきに乗せて彼女はそう答えた。
「うん……、とにかく、ありがとう」と、いろんな意味で僕。
彼女はレジ締めみたいな作業をしながら片手を挙げた。
「どういたしまして。ひとつ忠告するなら、今日のことは忘れるべきね。セーリングといっしょ。そうしなきゃ、いつまでたってもあなたの場合は前に進めない。でも……」
「でも……なんだい?」
僕は彼女が一度そらした視線を追いかけた。追いついてまた僕を見て彼女はつづきを言った。
「でも……ふふ……オナニーするときは、そのときだけはちゃんとあたしを思い出してね」
彼女はバスローブの崩れをただした。本当はなにか別のことを言いたかった感じに見えた。
「オナニーするときはちゃんと思い出すよ」
店の外に出るとき最後にもう一度振り返ってみた。それはきっと男の持つ弱さの一部なんだろう。
彼女はバイバイを口の動きだけで言ってくれていた。
まるでマジックカットみたいに、こちら側のどこからでもサヨナラできる感じで……。
前を向いた。つまりは東京。
雨はまだ降っていた。今日初めて雨のにおいに触れた気がした。
バイクは跡形もなく消えていた。意外にもアメショはまだ近くにいた。リレーでバトンを受け取る時みたいな体勢でちびちびと歩いていた。僕が追いかけて来るのを待っていていたんだろう。
僕の気配を感じるとアメショは歩くスピードを上げた。
「どこに行くんだい?」僕はその背中に声を投げた。
無言のまま突き進んでいくアメショ。僕も歩くスピードを上げて後を追う。
「なあ、どこに行くんだい?カルチエラタンにでも行くつもりかい?」
今度はしっぽだけぺしりと地面を叩いた。
あとは黙って僕はついて行った。男にはひたすら歩きたいときがあるもんだ。そしてアメショにとってそれが今だ。
── 留魂録。刻みつける足跡。
もし仮に空が晴れ渡っていたとしても、放水車を使ってでも雨を降らせなければならない、そんな日がある。
そういう意味で、たったひとつ救いがあるとすれば、それは今日、雨がちゃんと降っていてくれたことだ。
人通りの多い目抜き通りに入った。段差が多くてアメショを気遣った。信号機がめまぐるしく色を変えている。
人をよけながらアメショは歩いた。東京の街では猫はやはりとても小さな生き物だった。
信号で止まったとき、僕はすぐ後ろにいた。ようやくアメショが口を開いた。
「なあ、坊や、世界中がスローなバラードに包まれればそれでいいよな」
「ああ、もちろんそうさ」本当は声が弱くて聞き取れない部分があった。どちらにせよそう答える気でいた。
「なあ、坊や。男の純情に価値なんか見いだすべきじゃないな」
「ああ」
僕は慎重に肯定した。
雨に濡れた信号が滲んだまま色を変えた。下から上へ。
再びアメショが歩きだし、僕も続いた。
と、そこで、ふらつきながら歩くアメショのからだに通行人の足が当たってしまい、吹っ飛ばされたアメショは、水たまりの中に転がった。
心ない通行人の舌打ち、「あ、わりい、わりい、ん?なんだ、ただの猫かよ」。足早に消える。
僕がすぐに走りより、手を貸そうとすると、水たまり内のアメショはそれを拒んだ。
きっと自分が“著しく印象操作された何か”になるのが嫌なんだろう。アメショらしい。
立ち上がり歩き始め、しっぽを重そうに引きずりながら道を渡りきったところで、アメショは僕に言った。
「オレは思うんだ……。絶対にカテゴライズされまいってよ。世間のカテゴライズから逃れ続けなきゃ、オレはオレであることを失っちまうんじゃないかってな……」
「うん」
まだ一定の間隔を保って歩けていた。並ぶわけにはいかない理由はすでに述べた。
肝心なことは『自分が何者か』ということより、『自分が何者にされてしまっているか』なのかもしれない。
「なあ、坊や。オレはあのコを救おうとしたんだよな?」
前方から来るカップルのあいだをアメショはすり抜けた。
「ああ、そうさ」
「オレは伝えたかったんだ、あのコに……そのことを……そうだよなあ、坊や」
「そうだよ、知ってるよ」
「何を伝えたいかって事よりも、どれだけ伝えたいかって事の方が勝るはずだよな?」
「きっとそうさ。そうあるべきだと思う」
何かの勧誘のひとが僕に寄ってきて、まっすぐ猫だけを見る僕に気づいてすぐに離れていった。長生きするとかしないとかのやつかもしれない。
アメショはひとつひとつ僕に確かめた。それは彼自身の崩壊を必死にくい止める作業のように思えた。
だから僕は、
ここに来る時に歌ったメタルヒーローものの主題歌メドレーの歌詞が教えてくれるようなひたむきな言葉で、
ひたすらアメショを肯定し続けた。
◇ ◇ ◇ ◇
まるで深沈(しんちん?)代謝みたいな雨の中を長時間歩き続けて、とあるバッティングセンターの前を通り過ぎようとしたとき、「寄っていこう」とアメショが振り向いて言った。
高いネットで囲われたそのエリアから、打球音がこだましてくる。
入り口から中に入り、両替機で小銭を作った。
いくつものバッッターボックスが並んでいて、それぞれに球速の表示があった。
通路を進み、両打ち打者専用の広いボックスのところで立ち止まったアメショは、「ちょっと見ててくれ」と言ってバットは持たずにその中へと入っていった。
そしてホームベースの後ろ、本来ならキャッチャーの位置にどしっと身構えるアメショ。
僕はバックネット裏から見守る。
よく見るとアメショは両方の前こぶしを強く握りしめている。
「ちゃんと見ててくれよな、坊や。ちゃんとだぜ」
「わかったよ」
僕がコインを機械に投入すると、10メートルほど先のピッチングマシーンのアームが音を立てて回転した。
時速130kmのストレートが矢のように飛んでくる。
アメショは大きく口を開けたかと思うと、その口でボールをキャッチした。
瞬間、衝撃でアメショの体が振動した。まるで土俵際のように力強く踏ん張って押しとどまっている。
マシーンのピッチ間隔は感傷に忖度しない。どんどん投げ込んでくる。
アメショは次から次へと来るボールを受け止めては吐き出している。
「さあ、どんどん来い!」
そう叫ぶアメショの体がひとまわり大きく見えるのがやけに悲しかった。
床にいっぱい転がったボールが回収口へと流れていく。
僕はそれら一連の感傷劇を黙って見届けた。
何かのメドがついたところでアメショはバッターボックスから出てきた。硬派なアメショはきちんと礼をしてから出た。
バッティングセンターの外に出たところでアメショが不意に「ここでお別れだ」と言って僕を見た。
最初、それがなんのことだかわからなかった。
一陣の風が吹き抜けた。
雨はもう……上がっていた。
「坊や。そろそろだって言っただろ。オレ達は結局『そろそろ』だったんだ。オレはどこかでおもいっきり過充電がしたくなったんだ」
それがアメショの考えだった。
僕はしゃがんでアメショと同じ目の高さで話した。
「そうか……。残念だな……。いや、すごく楽しかったからさ。君が家に来てから……」
僕は本当にそう思っていた。アメショはずっといるもんだと思っていた。
「なあ、坊や。お前でよかったよ。お前で本当によかったよ」
アメショは僕の肩をたたいて鼻をすすった。
僕は黙って頷いた。
そう、
雨はもう上がったのだ。
僕は立ち上がり、空を見上げた。
── たぶん 慣れるんだろう
アメショのいない暮らしにもいずれ……
その、どうしようもない『慣れ』を人はもっと憎むべきなんじゃないかと僕は思った。
完
最後までお読みいただきありがとうございました。
どうかあなたに素敵な解放が訪れますように。
僕は心からそう祈ります。
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