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汚部屋でもいい人たち

 誰かと一緒に住んでいると、「部屋を片付けたい人」と「汚くてもいい人」に二分される場合がほとんどだと思われる。
 そういう間柄では、頻繁にすれ違いが起きる。テーブルに散乱している多くの物が気になってそれを片付けると、「どこにいったかわからなくなるから余計なことをするな」と騒ぎ立てられるというのも、まさにこういう事が原因として起きるものだ。

 私はできることなら、「片付けたい人」に含まれるかもしれない。だけど私以外の家族は、「別に汚くてもいい」といって憚らない。使った皿は当然のように自分では洗わないし、それを私がやったとして「後でやろうと思ったのに」と悪びれもせずに言い放つ。

 おそらく、そうやって言うのは「必要になった時にまた洗う」という態度なのだろうが、日々の家事を私が中心にしているのだから、そんなことをされたらたまったものではない。料理の時にじゃまになることは勿論、不衛生で食あたりなんて起こされた日には、怒鳴り込むのはそっちのほうだろう。

 それでも私は、この状況を変えることができないでいる。

 どうでも良いと言ってしまえばそれでいいのかもしれない。私がやらずに、汚い部屋に興味も向けることもなく、彼と一緒に笑ってテレビでも見ていればいいのかもしれない。

 それでも私はこんな汚い部屋でなにかに興じようとは思えなかった。何かをするのであれば、まずこの汚い空気感をなんとかしようと思ってしまう。何かを真剣に取り組もとするのなら、この汚い空気感は確実に障壁になってしまうだろう。

 ゲームをするにしても、仕事をするにしても、勉強をするにしても、視界の端に映る雑情報が必ず私の集中力を見出してくるときが必ず出てくる。それに、もし汚い部屋で暮らすことが常態化してしまえば、人間的な生活がどんどんできなくなってしまう気がしていた。

 正直言えば私は家事が好きじゃない。まるで何かに縛られているような気分になるし、朝はしっかり寝ていたい。それでも家事をするのは、整った部屋での集中力の高さや休日にしっかり休むことができることをよく知っているからだ。
 部屋が散らからないように面倒なルールをこなすのも、日常的な制約を意図的に課すことで、極端に頭を使わないということを避けて、人生に対してのパフォーマンスを向上させる意図がある。

 それなのに、この家の連中はそういう私の気持ちを一切合切無視して「あれはどこにやった」とか「どうしていじるのかな」なんてふざけたことを言い始める。そもそも、私だって好きで自分の貴重な時間を使ってこんなことをしているわけではない。ルールに従わずに人にやらせた挙げ句、「それは君がするから」なんてことを言われてこっちはなんと言えばいいのだろうか。

 行く宛もない怒り。それを理解されないことに対してのもどかしさ、相手の気持ちに少しの共感も寄せることができない不快さ。
 汚い部屋を「これが一番いいんだ」と言っているその態度に対して、私は怒りを隠せなかった。いつもそれで言い争い、私が買ってきた整理整頓グッズを「邪魔」といって捨てた時に、ようやく私は「汚くていい」という気持ちについて考えることにした。

 どうして、どうしてこれほどまでに汚い部屋でも良いと断言できるのだろうか。
 別に家にいたって、何かをしているわけではない。ただただテレビをたり、時にはゲームをしたりして自堕落に過ごすだけだった。別に部屋が汚いからといって、すべての人間が自堕落に生活しているというつもりはないけれど、もしかしたら、彼らにとって「部屋が汚い」ということは別に問題のないことなのかもしれない。

 床にものが転がっていたとしても、彼らはそれを「片付ける」という発想はせず、「避けて進めばいい」と考えているとするのならば、合点がいくかもしれない。
 テーブルに物があるのが常態化していれば、むしろ「ものがない状態が異常である」と考えれば、あの異常な反発は理解できる。それが常になってしまうと、彼らの中で「異常」であると判断してしまうのかもしれない。

 これは私の考えだけれど、少なくとも、認識としてはそういう事も考えられる。汚したとしても、それに対して特段の後ろめたさがないからこそ、「そんな意味のないことに対して時間を使うのか」という発想に行き着くのかもしれない。
 デメリットを一切感じておらず、それでも大丈夫と思っていれば、たしかにそれを強要されることは不快になるかもしれない。

 だがそれで「はいわかりました」ということはできない。客観的に見て部屋が汚いほうが問題なのは言うまでもないのだから、まず考えるべきは「部屋が汚い」ということを相手に理解させることだった。

 人間が生活していけば必ずそれを維持していかなくてはいけないのに、それを彼は根本的に考えていないようだった。それをやってくれるから、自分はやらなくてもよい。問題が起きた時にすればいいのだから。
 相手がその思考にいる限り、こちらからなにか言っても「うるさいだけ」でしかない。

 ふと、あまりにも疲れてしまっている自分がいた。

 ただただ、これまでできることを延々としてきて、自分を曲げずに部屋を清潔に保ってきたはずなのにこっちの心まで折れそうになってくる。
 そんな時、私はどうすればいいのだろうか。できることは限られてくる。

 ひとつは、相手との生活をやめてしまって一人で暮らすということだった。わざわざ無意味なところでコミットするのはやめて、とっとと自分の好きな生活をすればいい。それをせずにこの生活を続けている時点で、私はきっとそこまでの決意ができていない時点で、この選択肢は望んでいないのだろう。

 もうひとつは、相手のことを変えてしまうことだ。
 相手に徹底的な掃除を強要することで、自分に相手を合わせることを要求する、それだけで良い。相手のふざけた主張を一切合切無視して、鉄のルールを敷くことで、こちら側の要求をすべて通す。
 多少強引かもしれないけれど、そうでもしない限り、自分のことを正しいと思いこんでいる彼にとって、自分のことを曲げることはありえない。

 私が持っている手段として、私を曲げることなく部屋を維持することはこのふたつしかない。逆に言えば、それだけの覚悟がないと自分の思い通りにことを運ぶことはできない。
 そこまでのことをできない時点で、私は自分を曲げることを強いられることになる。全ては私の指先にかかっていて、それをするかどうか、私の掃除に対する気持ちにかかっているのだ。

 若干の理不尽を突き付けながらも、私は未だそこで悩んでいる。
 もっと良い方法はないのかと願う反面、どうにもできない道すがらで頭をまたげている。

#清潔のマイルール


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