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創作の独り言 しんどくなったとき

 何か一つのことに打ち込んでいると、自らの技量に対して自信を持ったり、自分がどの程度の技術を持っているのかを客観的に捉えることができるようになってくる。非常に良い喜ばしいことであるが、これが時折強烈なしんどさを生むことにもなると私は思っている。

 第一に、技術を最も向上させるのは「打ち込む時間」であることは言うまでもない。能力があったとしても研鑽にかける時間が多ければ多いほどに能力が向上していく。ただその成長は一直線ではなく、基本的には成長と後退を繰り返しながら少しずつ技術がついてくる。しかしそれだけでは、本当に技術として進歩しているのかというとまた別の要素が関係している。
 素晴らしいほどの研鑽をおこなっていたとしても、自分が目指す方向性と合致していなければ意味がない。サッカー選手になりたいのに、野球の練習をしているようなもので、しかもそれが自分では気がつかないような状態だろう。技術そのものを問う場面では、このようなことが頻繁にある。

 そのような方向性の違いをおこなさないためにも、積むべき研鑽を客観的に認知する力が必要となる。そのためには、自分が目指す上で何が必要で、何が素晴らしいものであるのかを見極める視点が最低限必要で、そのような視点を手に入れるためには基礎的な知識や経験が必要になる。
 いわば「技術に対しての視点」である。良いものを理解できないもので、優れたものを作ろうとしても決して良いものは生まれないだろう。

 これがどうして「しんどさ」を生むのだろうか。
 それは一定のラインになると、自分の悪いところがやけに目につくようになるからだ。いいところはあって当たり前、なぜなら今までの大量の継続という努力がそれを思わせる。これほどまでに自分は努力しているのだから、この程度できているのは当たり前で、逆にどうしてこんなところも上手くできていないのか。苦しくて仕方がなくなる。
 もしそれが数値的な価値評価を受けることになるのなら一入である。これだけの時間をかけたというのに、思うように評価が伸び悩むこととなれば、そのような懊悩に落とされるのも無理はないだろう。

 そうなってしまえば今まで好きだったことが途端に苦しくなる。「しんどく」なるのだ。楽しいから続けていたはずなのに、それが一定の水準に達すると途端に苦しくて仕方がなくなってしまうのは皮肉なことかもしれないが、それを超えていかないと上達と結果はありえない。
 ではどうやってそれを超えていくのか。人それぞれであるが、体感ではおよそ半分の人がこのしんどさに耐えきることができなくて踵を返してしまう。それもそのはず、この苦しみはまさにそこに対峙したものでなければ苦しみがわからない。

 何をしても、どんなことを言われても、無尽蔵に悪点が見えてしまう。決して距離の詰まることのない理想と現実が目の前に隔たっているようで、心の中で「自分は向こう側にはたどり着くことはない」と思ってしまっている。
 残酷であるが基本的にはそうなる。理想まで足をかける人間はほとんどおらず、大体の人間は手をかけるのに精一杯でその先に行き着くことはありえないと表現してもいい。理想というある意味での極地に至るためには、弛まぬ努力に加えて才能という物が必要になってくる。多くの分野において成功するものが少ないのは、才能と好きという2つの全く違う事柄を合わせて持っている人間が少ないことに起因している。好きだからこそ結果がついてくるのであれば、この世は夢を現実にした者で溢れかえっている。

 だが、だからこそ私達は好きという気持ちに対して偽りを持ってはいけない。前述の通り好きだということは結果として実らないことが多い。それでも、結果なんて気にせずに好きだと言えるほどの極地を見いださなければ何一つ残るものはないのだ。
 結果なんて目に見えている。見えているからこそ好きであり続ける。それほどまでの所にたどり着くまでに「しんどさ」とひたすらに向き合わなければならない。好きなものと本質的に付き合っていく上ではこれが必要であり、だから人は篩い落とされていく。

 私もまさにその篩の最中。
 好きであり、クオリティを高めていくからこそに些細なミスすらも許せなくなる。自分の物語に対してのハードルは上がっていき、完成したとしても公開するまでに至らないものなど両手では数え切れないほどに眠っている。
 一方で、それが好きだと胸を張っていうことができる。同時に私の行く末などもう決まっている。私は最初から何も残すことなどできないのだから。何も残ることがないからこそ思いっきり楽しみながら、人々の群れがなんの気なしに踏みしめていく床を引っ掻き回して、薄い爪痕だけを残していく。

 自分の可能性を否定するとまでは言わないけれど、過信はしない。
 それが「しんどくない」方法であると気がついたのはここ最近の出来事。どうでも良いのだ。例えばこの記事がどれくらいの人が見て、どれくらいの人が反応をするのか、気にしていた時期も勿論あるが、正直な所それを気にしていたら「しんどさ」のほうが遥かに強くなっていく。自分にはそこまで研ぎ澄まされた感性があるわけでも、素晴らしい語彙力を持っているわけでもない。
 これほどまで長く続けて来たからこそある確信。自分の技量をより正確に理解できるようになってきたから、私は胸を張って自らの程度を誇ることができる。

 何一つないけれど、それでも楽しさだけが私の筆を走らせるもの。
 逆に言えばそれだけあればいいのだから。

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