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才能

 時折、自らの才能のなさを痛感する時がある。時折、と言うにはあまりにも強い焦燥と無力さが心自体にのしかかり、それまでに行ってきた全てのことを無駄だと思わせる強烈な無力感。
 日々生きているとそう言うことがある。例えば、自分がしていること、努力していること、これだけは負けないと思っていることを軽々と乗り越えてくる人たちを見て、劣等感に晒されない人間の方が少ないかもしれない。

 例えば私は文章を書く、小説を書くという世界に普段身を置いているわけだが、自らの才能のなさを感じない日の方が少ないだろう。闇雲な様相で博士のページに言葉を投げ捨てる自分は滑稽極まりないし、常々哀れにすら思えてくる。
 その後に訪れるのは底知れぬ絶望感。どれだけの時間を投じたとしても、私は決して優れることはないのではないかという不安が常に影を踏んでいて、行動すること自体が無意味に思えてくる。

 別にこれは文筆に限った話ではない。私のように才能のなさを痛感し、不安に駆られ、どうして自分はこんなにも出来ないのかと赤い無念さを抱く、毎日そんな人間は山のようにいて自らを貶めている。
 苦しみ、嘆き、嫉妬し、自分がどの程度の者であるかを知っていく。まさにこれほど屈辱的で焦燥感に満ち溢れることはないかも知れない。誰だっては自分は特別だし、自分のこと物語が存在するのだから、その中で「自分が世界の脇役」だと知らしめられるのは恐ろしくて仕方がない。

 それでも、私を含む多くの人間がこの世界においては脇役である。

 悲しいほどに、私は脇役。けれどそれをやめるつもりは毛頭ない。
 恵まれた要素もなく茫漠と日々を過ごす中で、私ができる唯一の自由に自分の思い通りにできることなのだから、やめる意味なんてない。
 確かに才能は偉大なものだ。そして、私は凡人も凡人であると言う事実は紛れもないもので、それに打ちのめされてしまう。

 だが、だからといってそれをやめてしまう理由になるのだろうか。
 もし仮に、それをやめなければならない状態になったとして、そんな状態になるのはどういう状態だろう。ものにもよるが、例えばスポーツで怪我をしたとかであればまだわかるが、例えば文筆業や絵などの仕事をしながらも並行して行えるものであれば、やめる必要もない。
 圧倒的な才能の無さを自覚しているのはむしろ強みである。自分にはさっぱり才能がない、だからこそ試行錯誤を常に絶やさないし、貪欲に自分の技術を研鑽することができる。

 それでも人の才能に嫉妬してしまうことはある。それは当たり前だ。嫉妬はしないほうがおかしい。存分に嫉妬して、「自分もいつかこれに肩を並べるぞ」という前向きな意欲に結びつけば万々歳であるし、何一つ悪いことがない。
 故に「才能がない」というのはある意味では才能である。もしかしたら、時間による研鑽というさらなる高みへ目指す足がけになるかもしれないからだ。

 そういえば、私はこれまで淡々と当たり前のように「才能」なる言葉について語ってきたが、実際どのようなものを才能として捉えるかは人によって大分違う。私が思う「才能がある人」というのはかなり感覚的で、恐らく自分では絶対に作ることのできない作品で、しかも途方も無いクオリティを持つものを見たとき、簡潔に言えば「凄まじい作品」に遭遇したときである。
 自分では到底理解することも作ることもできない未知の領域、そんなものを与えるには十分すぎるほど、時折「才能」を感じることがある。

 しかしそれは本当に「才能」なのだろうか。「才能」にはいくつも種類があると思う。誰も想像もつかないような作品を作るのもまた才能であるが、例えば多くの物事を組み合わせて新しいものを作るのも才能、そして「好きである」ことも才能。
 私は自分に対しての唯一の才能として、「好き」であることを推したい。私は純粋に文章を書くことが好きだから続けるだけ、もしこれが何かしらの形で実を結べばそれで良し、好きだから書き続ける。それを原動力にすれば、壮大な夢に躓いてやめてしまうこともない。

 より根源的に考えれば、「好きである」ということは何より強い才能かもしれない。
 能力として何かしらの才能があったとしても、それを好きじゃなければ身も蓋もない。能力があってもやらなければ才能は全く活かせないし、最終的には好きで延々と楽しんでいる人に競り負けるかもしれない。
 勿論すべての物事に「好きであること」が最大の才能だと断言できるほど私は人生経験が豊富ではない。例えば「好き」だけで何かを続けている人が真に正しいのであれば、プロスポーツ選手なんて職業が生まれることもないだろうし、極限の技の剣戟のなかで制することはできないだろう。

 だが、「好き」であることが、人生において自分に最大の悦楽を生むのであれば、私は最終的に職業になるかは副次的なものだと思っている。好きだからそれをする、だから私の人生は楽しいのだと最後に言えていれば、それでいい。

 だからもし「才能」という悪魔に振り回される人がいれば、何かを好きでいることが最大の才能であると教えてあげるといい。続けることができなければ、能力は生かされないし研鑽もされない。
 嫉妬してもいい、でも好きである気持ちを裏切らない程度で嫉妬することを心がけよう。そうすれば、「好き」という「才能」を十分に活かすことができるのだから。

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