第二章 - 鏗鏘のアラベスク 1


目次 → 「煉獄のオルゴール」
前回 →  水疱の記憶-3
次回 →  鏗鏘のアラベスク-2

-1

 完全に意識が途絶えた音が聞こえた。その音は、アラベスクの音色と混ざりあうように鼓膜を揺さぶり、苦しむ呼吸音のような音を僕に伝え続けていた。
 巡る思考の中は、先程見えた光景でいっぱいだった。あの踊り場での映像は、明らかに僕自身の記憶である。しかし、最後の光景は、自分が愛していると伝えたはずの優一を突き落としたことを示唆するものである。
 自分自身そんな事ができるとは思えない。今までの混濁した意識の中に登場したのは「優一」という人物で間違いないが、あのときの脈動と感覚を思い起こせば自分自身の気持ちに嘘偽りは存在しない。だけど、あの記憶も間違っているとは思えない。あれが僕の妄想であるのなら、もしくはこの歪な世界が作り出した幻影なのだとしたら、どうしてそんな意味があるのだろうか。それに付随する合理的な理由がどうしても浮かばない。
 一方で、自分自身が想い人を突き落とすとも考えにくい。でも、直近の自分の行動を考え直すと発狂していたと推測するに十分値する。それならば、どうして僕はそんな行動をとったのか。その疑問に思考が及ぶ直前、僕の眼球は光を取り戻した。

 真っ先に飛び込んできたのは、瑠璃だった。
 次に消えていた体中の感覚が戻り、僕は瑠璃に膝枕されている状態で、僕の顔はちょうど瑠璃を下側から見上げるような姿勢になっている。
 それに対して、瑠璃は僕の視線に気づいたのか、僕の方を見下ろしてゆっくりと微笑む。なにかもの言いたげに見えたのは気の所為だろうか。しかし、確実に、僕は彼の表情の強烈な違和感を覚えていた。それは確かだった。
 瑠璃はというと、その気持の揺れに気がついているのか、作り物っぽい笑みを垂れ流したまま僕に話しかける。

「突き落として悪かったね。どうだい? どんな記憶が見えたの?」

 彼の言葉に、僕は混乱じみた苦しさを覚える。
 その口ぶりからして、僕に何が起きたのか半分程度知っているらしい。
 恐らく、あの水に入ったときに見えることについては知っているらしいが、それ以外のこと、もっと言えば僕自身の記憶についてはわからないらしい。
 それもそうだ。彼が知っているのはこの世界の事柄のみなのだ。僕の記憶については僕の管轄するものだけで、彼が知っているはずがない。
 思い返せばここは、「黄泉路の分岐点」なのだ。

「……あれが、僕の記憶」
 僕が自分に言い聞かせるように吐いた言葉に対して、答えたのは瑠璃の方だった。
「そうだ。君が見てきた世界は、君が持っている記憶。おそらく君が認識していない最奥の記憶だろう。どんな物が見えた?」
 彼の問いかけに対して、僕は素直に答えることができなかった。というのも、見てきたものが多すぎて、到底一つにまとめることなどできなかった。それに、一番頭の中を支配している事柄については、一言で表すことはできないだろう。
 かすかな迷いの後、僕は混乱をかぶり振るように彼の問いに答える。それは、何度も見てきた「オルゴールを回す者」についてだった。

「何度も、現実とは思えないオルゴールを回す奴がいた。皮を引っ剥がされたような、人型の化物……。あれは、なんだったの?」

 僕の問いかけに対して、瑠璃は露骨に驚いたような表情で首を傾げる。
 どうやら、彼もその存在については知らないようだ。それどころか、瑠璃はそのことについて更に僕に訪ねてくる。
「一体どういうことだ……? 君が見てきたものは、確かに君の記憶を形成したものだ。その中に、現実でないものが存在することはありえない。どんなものだったか、もう少し教えてほしい」
 瑠璃の声色は恐ろしく動揺していて、こちらまで不安を感じるほどの震えをはらんでいる。
 その声を認識した後、僕は一つ一つオルゴールを回す者について話始める。

「僕は3回、記憶の中で場面転換があったんだけど、その中のどの場面にもそれが見えた。しかも、そいつが現れるとき、音の外れたオルゴールが常に流れていて、状況によって音があったり、消えたりしていた」
 動揺からか辿々しい説明になってしまっているのが致命的であるが、間違ってはいないので訂正することもなく瑠璃の応答を待つ。
 しかし、言葉が返ってくることはなく、視界にはただ沈黙してしまっている瑠璃だけが残存している。

「……瑠璃…………?」
 僕は、か細く彼の名前を呼ぶ。まるで、知らない場所にたった一人取り残されてしまったような不安感に駆られたのだ。その不安感を補うため、何か返してほしくて彼の名前を呼ぶが、彼から返ってくるのは不安げな吐息と窄められていく表情のみである。
 それが一体何を表しているのか、僕には見当もつかない。
 僅かな時間に生じている沈黙に対して、僕の中に存在している不安という言葉は一義的なものではなく、僕自身の記憶に対して、行いに対しても向けられるものだった。

 そんな中、瑠璃は僕の表情の変化を察したのか、すぐに表情を翻しまた作り物の笑みを浮かべる。
「ゴメンね、不安な気持ちにしちゃ管理人失格だ。ただ、オルゴールを回すっていう存在が君の中の存在であることは確かだと思うよ」
「……本当に?」
「勿論。実は、僕にもよくわからないんだ。人の記憶というものは実に不思議なものだ。それをそのまま投影するこの世界は、まだまだ僕の知らないことも多い」

 瑠璃は僕に語りかけてくるというより、自分自身の不安と混乱を拭おうとするようにそう口走った。実際、かなりの動揺を孕んだその言葉に対しての信憑性は薄い。
 その気持を体現するように、僕は怪訝な視線を瑠璃にぶつける。すると、瑠璃はため息を付きながら僕の頬をその手のひらで包み込む。
「君だって、自分の記憶に対して疑問を覚えているだろう? だって、映し出される君自身の記憶を、その世界の根源たる君が認知できていないのだから。君が見てきた世界の創造主は確かに君だ。そして、あの世界の本質を君自身理解しているはずだ。どうして、君はそんな婉曲的な手段を用いていると思う?」
 瑠璃の言葉は的を射ている。その問いかけに、今の僕が答えることはできない。どうして僕は、記憶を持ち合わせていながら、その記憶を求めているのか。そして、死を前にしてもなお、その記憶を持ち続けていたいと願う所以はどこにあるのか。それらすべてを僕は知らない。いや、認識できないというべきだろうか。
 それを認識できなければ、僕は死に切ることができないのだ。その答えをここで見つけるしかない、多分彼はそのことを知っていてこの問をしているのだろう。
 若干の意地悪さを感じつつ、彼の問に対して首を横に振った。
 すると、彼は僕と逆の反応を取って更に続けた。

「だからこそ、君はここでその記憶を見つけるんだ」
「どうやって見つければいいの……? あの記憶に、僕の探していた答えはなかった。どうすればいいの?」
「大丈夫、すぐに見つかるさ。おいで、案内しよう」

 瑠璃はそう言いながら、立ち上がり手招きしつつ先へと進んでいく。
 僕は若干の不審さを感じつつ、反面彼に従うことしかできない自分に苛立ちを感じながら彼の手を追うことにした。
 彼の招く手を追って立ち上がり、そっと歩いていくと、あたりの光景が先程までとは異なる形相になっていることがわかる。先程まで森のような場所だったそこは、美しい花園のような場所だった。かすかな喧しさを覚えるほどの花たちは、凛として立ち尽くしながら、一本の道を作り僕らを誘うようだった。
 しかし、その花園には一種類の花しかない。その花は朝顔で、うねうねと伸びる蔦が不気味さを醸し出すように土を覆い尽くしている。それに、朝顔の花には本来存在するはずのない真っ青の花や、気味の悪い緑色の花、果ては大量の色彩を持つ鬱陶しい花まで存在する。

「どうして、朝顔しかないの?」

 僕のストレートな疑問に対して、彼は首をかしげる。
「さぁ。この世界をコントロールするのは君だからね。この空間や、さっき君が飲み込まれていった水瓶にしても、ハニカム構造状のケースに入れられた臓器にしても、全て君の産物だ」
「僕が望んだっていうこと?」
「そういうこと。君の目的を達成するヒントにするんだよ。だからこの世界は常に変形している。この先、君が記憶を求めた扉がある。だけど、その先に広がっている光景は、先程のものと同じであるとは限らない」
「……僕が見た記憶に連動して変わる、ということ?」

 自らの解釈をそのまま伝えると、彼は少し首を傾げながら答える。
「記憶に連動して変わる、というよりも、その記憶を見た君の感情に連動して変わる。だから、この世界でみるものはすべて君の移し身だ。すべてのものに意味があると捉えて、考えてみるといい」

 その言葉を聞き、僕は黙りこくったまま彼を追い越さないように注意しながら、朝顔の楽園を進んでいく。
 永遠に続いているような花の道は、微かな不気味さえも感じさせる。どこか狂ったような、それでいて愛おしさを感じさせるそれは、ちくりと痛い鈍痛を心に生じさせる。
 しかし、その心は一瞬にして朝顔に見透かされ、美しく喧しい色彩を放っていた朝顔はたちまち鈍色へと変わり、斃れていくように存在しない地上へと伏していく。

「拒んだだろう? この花を」

 瑠璃は、僕が自らの感情に気づくより前に告げる。
 その言葉が深く心に刺さり、僕は伏していった花々に追悼の意を込めて瞳を閉じ、自らの中にある混沌に目を向けることにした。
 どうして、僕は朝顔を望み、そして今大量の朝顔を拒絶したのだろう。その真意はつかめず、晴れることのない曇天に染まる心をひれ伏し、瑠璃の言葉に返す言葉を探す。
「……わからないけど、こうしたのは僕だ」
「そっか。それなら、さっさと記憶を見つけよう。この花園が枯れ果てることのないように……」

 瑠璃はそんなことをつぶやきながら、再び大きな門の前に僕を案内した。
 その扉は、一番最初に見た記憶の扉ではなく、更に異形のものへと変貌していた。生きているような扉はそこにはなく、ボロボロに腐敗した赤褐色のメッキが無数に剥がれていて、鉄の扉が風化し続けた結果、こんな色になったと言われても納得てしまうほど気味の悪い色彩だ。それに加えて、扉には大量のクランクが中途半端に融解したままめり込んでいて、扉全体が剣山の如き形相を持っていた。

「これはまた……不気味なものになっているね」
「これも、何かの暗喩なの?」
「恐らくはそうだろうけど、ここまで意味不明なものが現れたら僕にもわからない。きっと、記憶の戻った君なら、それがわかるだろう。さぁ、中へ進もう。中も同じように変化があるはずだ」

 奇怪ともいえる不気味さを孕んだ扉は、瑠璃の言葉とともに開く。
 だが、僕は扉が開いた瞬間からけたたましい頭痛に苛まれることになる。それは、吐き気を生じさせるほどのオルゴールの音色だった。恐ろしいほど甲高く、強烈な眩暈を生み出す低音が混ざり合い、不協和音と表すことすら足らないアラベスクの音色が体中を覆い尽くし、僕の視界をこれでもかというほど揺さぶってくる。

 ぐらぐらと揺れ動く視界の中で、僕は扉の中に広がっている奇妙な光景を視認する。
 先程まで扉を開けた真正面に存在していた、ハニカム構造のガラスケースは完全に破れていて、床全域に収納されていた臓物が飛び散ってしまっている。けれどそれだけではなく、床には大量の歯車のような円筒状の金属が飛び散っている。それは、細々とした凹凸が乱雑に配置された特殊な部品で、一瞬それがなんなのかわからなかった。
 それを気づかせるように、オルゴールの音色は一際大きさを増していく。僕はその音色に導かれるように、ふと上部をゆっくりと見上げる。
 すると、そこに鎮座していたのは天井にめり込んでオルゴールを鳴らす異形の化物だった。

 僕はそれを見て何度めかの意識消失に直面する。しかし、すぐに倒れることはできず、体を持ち直しながら瑠璃の肩を掴む。
 一方の瑠璃は、僕の体に起きた変化を目の当たりにして、軽いパニックを起こしているのか、必死に僕の体を支えながら語りかけてくれる。
「どうしたんだ? 大丈夫!?」
 幸い彼の声を認識することはできたが、声帯が震えてうまく発声することができず、僕は上部に存在しているオルゴールを回す者を指さして必死に助けを求める。
 でも、瑠璃はその指先を見ても「理解できない」といった表情で僕を見る。その時、瑠璃はオルゴールの音も、それを回す者も認識できていないことに気がついた。けれど、気がついたところで鳴り響くオルゴールの音色は止まることなく、僕は完全に意識から手放してしまう。

 消えていく視界の中、床に散乱していた金属片の正体を悟ることになる。
 これは、シリンダーオルゴールのシリンダーだ。どうしてそんなものが散乱していたのかはわからないが、恐らく上部に存在したオルゴールを回していた者と何かしらの関係があると思われる。そんなことを思いながら、僕の視界は完全に帳が下りてしまった。

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