創作の独り言 文章以外のスキル
私は主に「小説」をメインの創作物として取り扱っていて、基本的には文章能力とストーリー構成能力が求められる。基本的な二大スキルであるが、逆にこれ以外のスキルが必要になる場合もある。
というよりも、そのスキルをどこで活かすのかにもよってくるが、現在の情報化社会の中で収益化を考えてプロを目指すのであれば、むしろ文章力とストーリー構成力よりもそれ以外のスキルのほうが重要になるだろう。
これを考えるうえで、この記事では文章を媒体にしたものを「小説」として表し、多くの媒体によって複合的な要素を持つものを「作品」として表現する。
ではストレートに、どうして文章以外の能力が必要になってくるのだろうか。それは、素直に文章による幅の狭さである。文章で表現された世界は基本的に幅が狭い。
まず根本的に、日本人である私が文章を書く場合、「日本語」でしか表現されることがない。どんなに素晴らしい作品だったとしても、日本語で表現された文章は日本語を母国語とするものにしかわからない。この言語的な幅の狭さも理由の一つである。
それだけではなく、文章は極端に「動的な表現」が向かない。最近の小説はライトノベル等で行間を相手に想像させて、できるだけ表現を簡略化して動的な表現を行うものも多いが、それでも他の媒体のように脳に負担をかけることなく、一瞬にして理解まで促すことは難しい。文章の伝達スピードは基本的には遅いため、鬼気迫るような流麗な表現は厳しく、むしろひたひたと心の底に染み渡ってくるような表現を得意としている。
そのため、小説はやはり限界が生じる。無数に広がる想像を具現化するための手段でありながら、文章はその幅が極めて限定的だ。
では現在の社会で見るとどうだろう。
この文章はコンピュータで書かれており、それが一瞬にして世界に向かって公開される。当然ながら、私のような個人が情報を配信したとしても、そこまで大きな変化が生じることはないが、何かしらの反応の連鎖があって、一時的ながら爆発的なレスポンスが生じることを「バズる」と表現され、時折それが起こることもある。
文章や小説などはこの「バズる」現象がそもそも狙いづらい。なぜなら、理解までに時間がかかり、かつそれを開始させる初動の段階で「みたい」と活気させるような何かが必要になる。それを起こす事のできる文章を作るのはまさに至難の業であろう。なにせ多くの人の心を掴まなければならないし、それを人為的に作ることができれば、もう既に有名人である。
一般的な能力しか持たない私が、ありあわせのもので、たとえばプロを目指していくとなれば、できることはコツコツ作品を積み重ねていくことに加えて、もう一つやることがある。
それは、積み重ねていく作品の種類を増やしていくことだ。自分ができることの掛け合わせでいい、例えば小説に加えて自分が得意なことをもう一つ組み合わせてみる。自分がしていることの幅を少しずつ増やしていき、それらをすべて然るべき所で公開する。これを繰り返すだけだ。
まさに小説以外の能力である。文章を書くだけではなく、それをどのようにして活かしていくか、どのようにして新しいものへと変わっていくか、いわばありあわせの「能力を組み合わせること」自体が別のスキルになってくる。
さて、能力の組み合わせは勿論成功を目指す上で鍵になるものであるが、もう一つこの社会において重要な能力が存在している。それが「マーケティング能力」である。
一見何かのビジネス書にでも書いて有りそうなことだが、インターネット社会においてこの「マーケティング能力」がすべてを制するといっても過言ではないだろう。
というのも、昔はこの能力を活かすのは難しかった。条件が厳しいというのもあるし、運に依存するところも大きかったからだ。
だが現在においてこの「マーケティング能力」は純粋に個人の力量が作用する。SNSという巨大なツールが存在しており、それを活かすも殺すも自分次第。ある意味ではこの情報化社会は純粋かつ絶対的な弱肉強食の社会となっているのかもしれない。
SNSを継続的に利用するというだけでも能力は大きい。ツイッターで一日数十回つぶやくことのできる人はそれだけ多くの人の目に留まる可能性があるし、他の人との交流も増えれば自分自身の作品が他の誰かに届く可能性も飛躍的に高くなるだろう。
「マーケティング能力」といっても、やることはまさに技術が物を言う世界だ。徹底的な情報の試行錯誤と精査によって、日々のツイートすらも伏線として緻密に計算された策略に、やがてインフルエンサーともなれば瞬く間に作品は多くの人が受け取ることだろう。
当然ながらこの爆発的なレスポンスは危険性も備えている。情報が流布するのは一瞬であるし、匿名性の暴力も決して見過ごすことのできないものだ。
しかし本物の「マーケティング」のプロはそれすらも追い風に変えてしまうだろう。大量の炎上騒動はある意味で人の目に留まるし、それそのものが大きなマーケティングになる可能性だってある。
素晴らしい小説をかけたとしても、それが誰にも見られなければ価値は判断しかねるものとなってしまう。
表現された文章よりも、それをどのようにして人に届けるか。それが重要な世の中になっている事自体、この社会がすっかり実力社会になったことを十二分に表現しているようである。
だからこそ、今から収益化を目指すプロフェッショナルは、自分の分野以外のものすらも刃を研がなければならない。酷烈な社会になったと思うべきか、はたまた努力次第でなんとでもなれると思うべきか、どちらにしても創作者にとっては、苦労の第一歩である。
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