ソウルメイト

僕には、高校3年間ずっとクラスが一緒でよく遊んだり、休み時間に馬鹿みたいになんでもない話をしたりしていた友人が2人いる。1人はこの間も書いた幼稚園からの幼馴染でもう1人は、同じ大学に進学した女の子である。僕らは、よく自分が抱えるストレスを発散するように愚痴会を開催していた。これは、巷でよくある愚痴会とは異なり、なぜそうなってしまうのか、解決策はなんなのか、と議論を繰り広げ愚痴をブラッシュアップしていき最終的に結論に持っていく高次のものだった。ように思う。結論が出なかったら家で考えてきて次の日に持ち込む。LINEなどでこれをするとスピード感や説得力に欠けるからだ。大学に入ってから、この1年間そのような高次の思考作業を楽しいだろうと思ったことはないししたこともない。それもあって日頃のストレスが負のベクトルのもののまま残り続けることがあまりにも多すぎた。僕は、高校時代は3人で議論をしてそれをクリアしていたことをつい最近まで忘れていた。情けない。人生の質が明らかに落ちている。それに気付かされたのは、4月2日に幼稚園からの幼馴染の方が関西に来て久々に3人で遊んだときである。いつもより頭が疲れて大変だったが、あの満足感は他では味わえない。頭が疲れたことにショックも受けたし情けないと思った。これが大人になるということか、擦れるということか、諦めようと思ったが諦められなかった。自分の周りの大人たち、親や兄貴はそういったことを諦めてしまったのだろうか。それとも僕らが思春期を拗らせているまま大人になりきれていないマージナルマン(境界人)なのだろうか。答えは出ないが周りに幻滅したくないから、周りの大人(身内)はキラキラしてる綺麗なものだと思いたいから、前者は切り捨てる。でも僕以外の2人は前者の考えをよく取るタイプだ。それは悪いわけではないし、僕よりもある意味大人だなとも思う。親のことを懐疑的に見ることができる、その視点を僕はあまり持ったことがない。もちろん反抗期というものがあって、反論したり反抗したりしていたがそれは僕が未熟故の癇癪のようなものでしかない。けれども僕と正反対で、2人は親には反抗したことがないのだ。だから、反抗できる環境で育った僕が羨ましいらしい。全くもって意味がわからない。そんな決定的な相違点があってもなお、同じ空間、時間を共有することで自分が生きてるなかで最も不毛で豊かな(?)遊びができることに驚くし、どこか根本がやはり繋がってるのだろうと思う。ここに1つ呼び名をつけるとただの友達でもなく、親友という括りでもない。そこに名前をつけるなら”ソウルメイト”だと思う。一生大切にすると決めているし、そういう友を増やしたい、日々感じる。

「ソウルメイト、募集中です。」

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