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東日本大震災の震災遺構を巡って ~震災遺構 浪江町立請戸小学校~

今回投稿するのは、福島県双葉郡浪江町(なみえまち)にある、震災遺構浪江町立請戸(うけど)小学校です。


浪江町の東日本大震災による被害や影響について

最初に、浪江町の東日本大震災による被害や影響について整理しておきます。

浪江町は、東日本大震災では震度6強の揺れを観測し、15メートルを超える津波の被害に遭いました。死者・行方不明者は182人、地震や津波による全壊家屋は651戸に及びました。

また、東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響により、発災日の2011年3月11日の数日後から町の全域に避難指示が出され、当時21,000人ほどいた町民は全国にわたって散り散りとなってしまいました。

突然の避難と、長引く避難生活による被災者の心身の負担は大きく、災害関連死も443人に及んでいます(令和5年12月31日現在)。

その後、町の避難指示区域の見直しに伴い、町の除染やインフラ、生活基盤の整備などを集中的に進めた上で、2017年3月31日に町の一部区域の避難指示が解除されました。

現在においても、残りの避難指示区域の避難解除に向けて環境整備を進めているところであります。居住人口も徐々に増えているところではありますが、約2,200人ほどと、震災前の人口(約21,000人)からは大きく減少している状況です。

震災遺構浪江町立請戸小学校について

ここからは、請戸小学校についてです。

浪江小学校は、1873年、浜谷善一氏宅に広業小学が創立されたことから始まりました。その後、建て替えや改称を経ながらも長年にわたって地域に根付いてあり続けてきました。

そして、2011年3月11日の東日本大震災では、大きな地震と津波による被害により校舎に大きな被害を受けました。

当時通っていた児童93名(うち、1年生11名は地震発生時はすでに下校済)と教職員は、学校から約1.5キロメートルほどにある、大平山(おおひらやま)という標高40メートルほどの高台の場所へ避難し、無事でした。

教頭先生のみが校舎に残り、避難場所として請戸小学校に訪れてくる可能性のある地域の住民方へ別の避難場所への誘導や、児童を迎えに来た保護者への対応を担っていましたが、その教頭先生も大平山へ避難した後、15:33頃に津波の第一波が沿岸部に到達します。

そして、津波は、請戸小学校の1階部分を完全に飲み込み、2階の床面にまで浸水することとなりました。

請戸小学校からの被災後の避難経路図
震災遺構浪江町立請戸小学校ホームページより

前述したように、浪江町は震災後から全町避難を余儀なくされ、請戸小学校も手つかずのままでありましたが、一部避難指示解除後から請戸小学校を震災遺構として保存・活用する方向性として整備が進められました。

「地震、津波による被害に加え、原発事故により震災後からそのままの形で残さざるをえなかった請戸小学校の今の姿をできるだけ変えずに残し伝える」を基本理念に検討が進められ、2021年10月に震災遺構浪江町立請戸小学校として開館しました。

福島県内で、現在唯一の東日本大震災の震災遺構(後世に向けた教訓として残された、被災の痕跡を残す建築物・構造物のこと)でもあります。

ここから下は、今から2年前の2022年4月になりますが、請戸小学校を訪問した時の写真と説明です。↓

請戸小学校の外観
請戸小学校の外観と見晴らし台(手前)
少しわかりにくいですが、見晴らし台の時計は津波到達時刻の15:37頃を指したままです。
見晴らし台の2階部分にかけての場所に、津波到達点の標識が付けられています。
校舎内1階の教室
1階職員室の倒れている分電盤
1階部分。天井も崩落しているのが分かります。
1階部分。様々な物が津波の影響により折り重なっているのが分かります。
本やノート、ペンなども浸水してしまいました。
1階体育館。卒業式に向けた準備もされていましたが、そのまま当時の姿で残されていました。
プールにあった手すりです。折れ曲がっているのもあるのが分かります。
プールの手すりに関する説明。
校舎2階にある、卒業生や地元の方のメッセージが寄せられた黒板。
震災遺構内にある説明パネル。
小学校から大平山への避難の説明です。
当時、学校の避難訓練では大平山を実際に全校で登ることはありませんでしたが、この時の避難時は、大平山への入り口を知っている児童の声かけもあり、滞りなく山への避難が進みました。
大平山へ避難しているところです。その頃には、沿岸部には津波が押し寄せていました。
請戸小学校を含む請戸地区は甚大な被害に遭いました。
大平山で児童全員の無事を確認してからは、山の反対側に下り、国道6号線まで目指しました。
国道6号線は地震の影響により渋滞していて、その影響でたまたま停車していた2台のトラックが、全員を荷台に乗せて町役場まで運んでくれることになります。
17:00頃に児童や教職員は浪江町役場近くの体育館に到着をしました。保護者が迎えに来ていた児童は無事保護者のもとに帰ることになりました。一方で、迎えがなかった児童は体育館で一夜を過ごしました。

請戸小学校は、東日本大震災の被災直後から校舎内に留まらず、より高くより遠くへ避難することで児童全員の無事を確保できたケースでした。

どこへ避難するか迅速に判断しそれを行動へ移せたこと、教職員だけでなく地域の方々、そして、児童のとっさの判断や声掛けもあってスムーズに避難をできたとも考えることができます。

また、災害時の児童全員の安全を第一に考え、保護者への引き渡しを優先させず、高台への避難を最優先として実行したことも私たちが教訓として受け取ることができます。

請戸小学校を訪問して2年を経過しますが、この記事を投稿するにあたり改めて整理する中で、そういったことを私自身考えました。

最後までお読みいただきありがとうございました。


参考文献等

浪江町 「なみえ復興レポート令和6年4月」 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/20421.pdf

復興庁 「東日本大震災による震災関連死の死者数(令和5年12月31日現在調査結果)」
https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-6/20240301_kanrenshi.pdf

@Press 「大震災・大津波からの避難 その時どう生徒を守り抜いたのか ~全員無事避難することができた浪江町立請戸小学校~」https://www.atpress.ne.jp/news/348129

Dialogue for People 「あの日、請戸小学校(福島県浪江町)の子どもたちは山へ向かった――“犠牲者ゼロ”は阪神淡路大震災の教訓から」
https://d4p.world/news/25303/


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