慢性父親欠乏症|#エッセイ
この数日来、ずっともやもやして、ジレンマのような想いに囚われている。
―――どうやら、「父親欠乏症」に罹っているようだ。
理由は見当がつく。noteでJAZZの記事を書きつくったこと。そして取り上げたCDで、ナット・キング・コールを聴いたせいだろう。
ナット・キング・コールのVocalは亡き父の雰囲気そのまま。
優しくて温かくて、ちょっとおどけた楽しいところがいつも心を和ませてくれた。
▶After Midnight/Nat King Cole
スイングジャーナル推薦盤。
追悼の意味を込めて、大好きな父親のエピソードについて、思い付くまま語ってみたい。備忘録です。
ちなみに、日本人で似ているのは小林薫と山中教授。
🌿バイクの背中
実家は自営業(高級フルーツ専門店)だった。毎日、仕入れの注文をしに行くのに、父はバイクを使っていた。
(品物は後で届けてくれた)
本当は、さっと注文に行ってさっとお店に戻るほうが良いのだが、幼稚園の頃、我儘な私は父に「一緒に連れて行って!」と度々せがんだ。
私に甘い父は、足手まといになるのを許して、ヘルメットを被るように言って、バイクの後ろに座らせてくれた。
風を感じながら景色が速く過ぎていくのは珍しかったし、父の背中にしがみつくのも嬉しかった。その背中の大きさに、頼りがいと安心を感じた感覚は、今でもすぐ甦らせることができる。
🌿凝り性
父についてキーワードを挙げるなら、「野球/ゴルフ」、「音楽」、「お洒落」だと思う。
中学から球児だった父は、40代くらいまで社会人野球を続けるスポーツマンだった。ミットを持って小走りでグラウンドを走る姿が、楽しそうで格好良かった。
家でもずっと巨人戦のナイターを観ていた。チームプレイが似合う人だった。
野球を引退した後、しばらく何もしていなかったが、行きつけの親友の喫茶店で何処かの会社の社長と知り合い、頻繁にゴルフに行くようになった。
その時は、私のグルーブ会社でよくゴルフウェアや用品を買ったものだ。
お店が閉まってから、空いたスペースで素振りの練習を毎晩黙々とやっていた。何かを始めたら夢中になるところは、私も同じだ。
―――
音楽に関して言えば、京都の大学に通っていた頃、軽音楽部に所属して全国各地へ遠征に行っていたらしい。
グループサウンズみたいな感じだろうか。
恐らく、父は石原裕次郎の若い頃に憧れていたのではないかと思う。
JAZZ、ラテン、ハワイアンの音楽をこよなく愛した。父の寝室にはオーディオ機器の良いのが揃っていて、当時はカセットテープだったが、気に入った音楽を選り抜いて録音していた。
この偏愛ぶりも、私は受け継いでいると思う。
そして私や弟に、ナット・キング・コール、ブレンダ・リー、映画音楽など、味わいのあるスタンダード音楽が入ったテープを毎晩聴かせてくれた。
こういう音楽がずっと記憶のベースにある。偶にそれらが耳に入ってくると、懐かしさの波に巻き込まれそうになってしまう。
―――
また、気取った印象は皆目無いけれど、父も祖父も伊達男だった。
祖父の時代はオーダーメイドの習慣が残っていたが、父はレディメイド(既製服)。熟れた感じで色々と着ていた。
そのお洒落のバイブルが、雑誌「男子専科」だった。
基本は英国趣味の服が多かったように思う。
本好き文字フェチの私は、「男子専科」を盗み読んで(愛読するとも言う)いたが、滅法面白かった。
(横に逸れるが、コラムが特に良かった・・・中野翠氏、植草甚一氏など)
男の美学。
男の嗜みとその手引き。
さり気ないマナーについて。
大人を形作るファッションは、
何を選ぶべきか・・・
スマートな男性の流儀とライフスタイル全般が網羅されていた。勿論その中には、音楽も含まれる。
父はずっと欠かさず「男子専科」を購入していたので、感化されるところは大いにあったのではないだろうか。
私にとってはもう「感化」以上で、
「物」の嗜好、理想の男性像、思考の方向性等々、中学生に成るか成らずかでそれらを「男子専科」に決定付けられた。
▶雑誌「男子専科」アーカイブ
🌿優しさ
父を語るとき、「優しさ」は絶対に外せない。思い出すだけで涙が出そうなくらい優しい人だった。私たち家族に、だけではない。誰にでも、遍く。
子どもが好きで、甥姪たちは、幼少時よく可愛がってもらって懐いていたから、みんな父との何らかのエピソードを持っている。
自分の子が生まれたとき、父が存命ならどれだけ喜んだだろうと思い、産院で涙を堪えたことがあった。
お年寄りにも親切だった。お店に来てくれるお客様を思い遣って、ちょっと荷物が増えたら、どんなに忙しくても後で家まで配達していた。(細かい個別配送は無かった時代)
足の悪い伯母にも優しかった。
車椅子を乗せるために、車種はいつもステーションワゴン。
旅行などに出掛けた先では、まだバリアフリーが普及していない道で車椅子を押して、時には持ち上げたりおんぶをしたり、疲れた顔ひとつ見せなかった。
そんな父だから、まさか悪性がんに罹るとは思わなかった・・。
その頃のエピソード。
↓ ↓ ↓
父の享年は57歳だった。その当時の母は50歳。
本当に若過ぎたと思う。
想い出はとびきり濃くて鮮やかなものばかりだけれど、それが早く旅立ってしまった父の、私への置き土産なのだろうか・・
2、3日まえ、テナントビルの片隅に「占い」のコーナーがあるのが目につき、ふらりと立ち寄ってみた。
占い師の女性に生年月日を伝えると、何やら色々紙に書き始め、ペンを持つ手を止めてから、開口一番に私に伝えた。
「―――お父さんが、いつも守ってくれてますね・・・」
まだ何も言っていないのに。
いちばん聞きたかった、その言葉が出たことに、私は何故か・・・
不思議とは思わず、納得していたのだった。
お父さん、ありがとう。
会いたいよ。
🌟Iam a little noter.🌟
🤍
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