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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021/03/17追記)

「「生きていくことは、変化していくことだ」と云われます。/私はこの物語が終局に迎えた時、世界も、彼らも、変わっていて欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。/それが、私の正直な「気分」だったからです。」(庵野秀明/『新世紀エヴァンゲリオン』コミック版1巻「我々がは何を作ろうとしているのか?/連続アニメーション『新世紀 エヴァンゲリオン』がスタートする前に」)

 この言葉は、当時放映開始直後の熱狂と同時期に読んだ自分にとってとても重い言葉で、そして今回ようやく、監督はここに書いた言葉の、けりをつけた、けじめをつけた、と感じている。その「けり」「けじめ」のために2時間35分の大半が費やされていると感じている。
 自分にとっての『シン』は、そういう《律儀さ》《誠実さ》をエンジンにした映画だった。そのことの事実は、自分にとってはとてつもなく重い。

 1995年から始まった『エヴァ』という物語に出会った人――たとえば僕――に宛てて書かれた、長い手紙のような映画だった。
手紙を受け取るまでにずいぶんと時間がかかったけれど、読むときはほんの2時間35分ほどで読み終わってしまう。その手紙には僕の知らなかったこと、知りたかったこと、が書いてあって、そして映画は、「その手紙が届くこと」を何よりも優先している作りての《意志》が感じられるものだった。
その《意志》が感じられたという、僕にはとりあえず、それで充分です。

   ∞∞∞

(ここからは内容への言及を含む感想です)

 それにしても、作品と出会う、つきあう、ということは、つくづく人間とのそれに似ている。『エヴァ』というタイトルにおいてはとりわけそうだった……少なくとも自分の場合は。"好きになる"、"嫌う"、場合によっては"憎む"、そして、ずいぶん時間が経ってから再会し、"あのときのこと"について語り合ったりもする。たぶん、そういう作品と出会えたということそのものが、ひとつの幸福なのだと思う。人間とのそれに似て。

 『シン』は、例えば「謎本」(考察本はあるかもしれないが)の類が量産されるような作品の、真逆の作品だ。そういう意味での「問題作」ではない、『エヴァ』が四半世紀をかけて、「そういうところ」に着地点を見いだせたこと、そのことに成功し、そのためのフォルムを選びえたこと、それがうれしい。

 「そのためのフォルム」を代表するもののひとつ、それがシンジの父・碇ゲンドウの、自分について語る長い独白のシーンだろう。

 こんなに長く語るゲンドウをみたのは初めてだった。
 ある意味では「ゲンドウに語らせない」ということに象徴されるさまざまなフォルムが『エヴァ』という作品の強烈な個性のひとつだったといえる。説明しないこと、謎をふりまくこと、そのエネルギーをカンナのように用いて作品のエッジをするどくすること、つまりは「問題作」としての『エヴァ』というありようをひたすら先鋭化させていくこと……そしてそれらが、最もきわまったところで、90年代の『エヴァ』は終わった。そのことを、誰かはその先鋭さゆえに称賛したし、誰かはそれを理解する深い考察をしもしたし、誰かは、「信頼を持って会いに来た人にいきなりビンタを食らわしたり皮肉を言って悦に入るような」(小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』ライナーノーツ)メッセージを受け取って深く傷つきもした。

 ゲンドウに長く長く語らせるということは――そして、それを含めた、本作におけるさまざまな【律儀】な語りは――、90年代にあったそういう「エヴァをエヴァたらしめていた強み」を手放すことを意味している。そして、ぼくが終始感じていた、作り手にとっての、この『シン』における最優先事項とは、まさに自分のような人間に対して、ひとつの「手紙」を届けることだった……そうぼくは思っている。そのためには、「長く長く語るゲンドウ」が必要だった。そして、その「必要」から逆算して、この映画のフォルムや語りの構造や編集やその他の「器」「形式」に関するものが決定していったのだと思っている。

 だから、この映画が、見る人によって「エヴァらしさ」の放棄と映るとしても当然だろうと思う。また、そのことを、どれくらいの減点要素と判断するかも、人によって異なって当然だ。結局のところ、「面白かった」とは、「その人がその作品、映画、アニメに、何を求めているか、その優先度」の表明だろうと思うからだ。
 そして、ぼくという人間にとっての優先度は、この『シン』という映画が選んだ「最優先で伝えたいことがある、そのために必要なことをする」という意志と姿勢に、強く肩入れすることを選んだ。そういうことだと思う。

 だから、最後に書きつけるこれも、誰とも、もしかすると作り手の姿勢とすらも関係のない、ぼくがぼくとして書いておきたいことでしかない。

 惣流・アスカ・ラングレー。ぼくはたぶん、あなたが報われること、ひとつ先へ、ポジティブな未来へ進んでいけること、そのことを「最優先」に願いながら、90年代に『エヴァ』を観続けていました。アニメというジャンルで出会ったさまざまなキャラクターのなかで、もしかすると、あなたが最も切実に「肩入れ」したキャラクターだったかもしれないと思います。

 あなたによく似た「式波」という名前の彼女は、たぶん、それを掴んでいけるのではないかと思います。「あなた」のことは、わかりません。ただ、ぼくはこの『シン』を観終わって、こう考えることにしました。
 「あなた」はきっと、ぼくらが映像としては観ていないだけで、あの1997年の映画館の浜辺から、その先へ、「あなた」としての選択をしていったのだろう。だって、『シン』が救ったのは、90年代の『エヴァ』を含めた、その総体であったことは、映画を観ればあきらかなのだから。

 フィクションの素晴らしさは、それを観た人間めいめいが、それを自分のものにして、持ち帰り、ことあるごとに思い出したり、考えたり、想像したりすることのなかにあると思います。「観客は、映画館に出かけていく以上、作品を奪ってこなければ意味がない。」(山田宏一)のだから、ぼくもそれに倣って、惣流・アスカ・ラングレー、「あなた」の、あのすさまじい風景の浜辺からはじまるその先の(それは、あの浜辺であなたの隣にいた彼とともにあるのかもしれませんが)未来を、観客の特権として、信じることにします。

 『シン』は、そういう気持ちにさせてくれる映画だったのです――たとえ「あなた」は出ていなくとも。

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