話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選

話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選

 (以下、放映日順)

■『小林さんちの メイドラゴン』
  #06 「第6話 お宅訪問!(してないお宅もあります)」(2/16)
■『けものフレンズ』
  #12 「[ゆうえんち]」(3/29)
■『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ [第2期]』
  #25(通算50) 「#50 彼等の 居場所」(4/2)
■『正解するカド』
  #01 「ヤハクィザシュニナ」(4/7)
■『リトルウィッチ アカデミア』
  #21 「[ワガンディア]」(5/28)
■『僕のヒーローアカデミア [第2期]』
  #23 「轟 焦凍:オリジン」(6/3)
■『覆面系ノイズ』
  #12 「♭12 とどきますように」(6/30)
■『異世界食堂』
  #05 「menu9 カツ丼/menu10 プリンアラモード」(8/1)
■『BORUTO -ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS』
  #19 「うちは サラダ」(8/9)
■『血界戦線 & BEYOND』
  #05 「とある執事 の 電撃作戦」(11/5)

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 TVアニメのオープニング/エンディングが好きだ。へたをすると本編を見ているときより、出だしと末尾にくっついているこの《いつも番組のはじまりと終わりを音楽とともにかざっている、携わったスタッフのクレジットをのせた映像》に見入っているときのほうが多いかもしれない。それらはさまざまな創意や技術やセンスの集約したミュージック・ビデオのように、それじたいで完結し独立した映像作品として、アニメ本編から切り離されたところで見ることが可能なものだ。と同時に、物語のなかで起きるであろう出来事への予感やそこに生きるキャラクターたちの紹介、ときにはその作品の"表現としての方向性の提示"といった重要な役割を担うものであって、それはけして作品と切り離すことはできない。そういう二重性も、オープニング/エンディング映像の見ることの楽しさや魅力の理由となっている。
 【話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選】を選ぶにあたっても、まずとっかかりは自分のこの好み、気分にしたがってみた。というわけで、まずはこの一年のあいだに見たなかでもっとも好きなオープニングをもつ■『僕のヒーローアカデミア』から……。
 じんわりと現れたメインタイトルが消えると、思い思いのやりかたで伸びや柔軟や屈伸に余念がない主人公たちの姿がゆっくりとしたリズムで捉えられる。組んだ手や腱を伸ばす足元や盛上がった肩を丁寧に拾いあげるそのリズムはまるで、キャラクターたちに合わせて映像も呼吸をととのえているようで、見ながらこちらも吐く息が深くなるような気がしてくる。そして楽曲がサビを迎えるや一転、各人がその能力を思うさま発揮している姿を描いたパートに突入すると、前半で溜めていた力を一気に吐き出すような勢いに圧倒され、息をのむことになる。文字通り「息づかい」そのもののような、素晴しい映像だ。
 呼吸ということでいうと、今回挙げた【#23 「轟 焦凍:オリジン」】は、ととのえた息を思い切って爆発させているほうの一本だ。特殊な能力「個性」を持って生まれることが一般的になった社会で、「無個性」に生まれながらもヒーローを目指す主人公・緑谷出久と、片や非常に有名なヒーローの息子に生まれながらも、母親をめぐる因縁から父に対してつよい屈託を抱いている轟焦凍の、体育祭(ヒーロー志望者たちの学園である以上、ハードな"体育祭"であるのはいうまでもない)での激突。氷や血しぶき、酷使に悲鳴を上げる肉体とその痛みに耐えている表情、相手を見据えて信念をぶつける会話、サイコロ状に砕けて爆風とともにはじけるセメントの破片、そして訪れた幕切れまで、熱さ全開で走りきっている。

 次は、この一年でもっとも好きだったエンディングをもつ■『リトルウィッチ アカデミア』【#21 「[ワガンディア]」】について。この、メタモルフォーゼの波状攻撃とでもいうべき忘れがたい映像には、本作の物語のエッセンスがこれでもかと凝縮されている。
 子供の頃に体験した魔法ショーでの感動を胸に伝統ある魔法学校へやってきた主人公アッコ。魔法はからきしで空を飛ぶこともできないが、持ち前の元気印で憧れの人・シャイニーシャリオに近づくことを夢見ている……アッコのそんな憧れ、夢、うまくいかない挫折感とそれにめげない信じる心、それらが色と線だけに抽象化され、そのことでより鮮明な情感を伝えるアニメーションとなっている。
 サブタイトルにある「ワガンディア」とは、森に聳える巨大な木の名前だ。「言の葉」を集めることで憧れのシャリオに会えるかもしれないと期待に胸をふくらませるアッコは、その想いにつけこんだクロワの言葉に惑わされ、花粉を浴びれば二度と魔法が使えなくなるというワガンディアの木へと向かう。周囲を花粉に囲まれ、絶体絶命のなか転落するアッコを救ったのは、我が身をかえりみずかけつけたアーシュラ先生だった。アッコの危難にためらいなく身を挺したアーシュラの姿は、この前の回で、ダイアナの苦境に迷うことなく首をつっこんだアッコ自身の姿と重なってみえる。互いに、相手が危機にいることをほうっておけない……アッコが魔法学校で育んでいった、そんなたくさんの繋がりは、やがて物語のラストに訪れる奇跡のような大団円へと結びついていくことになる。

 毎回アタマと終わりにつくことをいちおうの前提としているオープニングとエンディングだが、時折それは特殊なかたちに変形する。第1話や最終話といった特別な回ではとりわけその頻度が高く、■『覆面系ノイズ』【#12 「♭12 とどきますように」】はそんな変形がおこなわれたエピソードのひとつだ。オープニングクレジットが本編にかぶる形で表示され、そのとき、劇中のライヴ会場で歌われるin No hurry to shoutのナンバー"ノイズ"が、いわばこの回のオープニング曲にあたる。そしてこれが、ものすごくかっこいい。
 ニノ、ユズ、モモ、3人の高校生がおりなす三角関係……という恋愛ストーリーであり、それと切り離せないかたちでバンド・ストーリーでもある、という作風のエッセンスが想定よりずいぶん重めの鈍器に結実してガツンと殴られたような、そんなライヴシーンだった。セットリストなどおかまいなしにのっけからバンドの新曲"ノイズ"を歌い始めるニノと、ボーカルの無茶な見切り発車にあぜんとしながらもくらいつくユズたちメンバー。どうにか乗り切ったと思いきや、かきむしるみたいに始まるリフとともに始まった2曲目"カナリヤ[ANIME SIDE]"の、「シャウト」と「ただの絶叫」のあいだにある任意のどこかみたいなニノの歌唱。性急で繊細で暴走上等な状態になっている紅一点のボーカルと、彼女を繋ぎとめようというメンバーたちが、破綻寸前で踏みとどまっているギリギリ感。演奏のなかで確認され、認識され、(再)発見される「繋がり」。素敵である。

 もうひとつ、最終話で通常からの変形がおこなわれたオープニングをもつ作品をとりあげたい。■『けものフレンズ』【#12 「[ゆうえんち]」】だ。
 前回のラストで巨大なセルリアンに飲み込まれてしまったかばんを救おうと決意したサーバルは、ヒグマたちと協力してセルリアンに追いすがるが、あまりの巨大さに足止めすらかなわない。「かばんちゃんを返して、返してよ!」。サーバルのその叫びに呼応するように現れた博士と助手、そしてジャングルの闇のなかに、かばんがこれまでの旅路で助けてきたフレンズたちの火のような目の光が浮かび上がる。最終回でのオープニング曲が流れはじめるのは、この瞬間だ。そしてメインタイトルが、かばんと助けるために人肌脱ごうじゃないか、矢面に立とうじゃないか、と駆けつけたおおぜいのフレンズたちと、鬱蒼とした木々の背後に、黒々と浮かび上がる……。
 どう表現したらいいのか、圧倒的に「正しいこと」が起きた、というアドレナリンが溢れ出すのを感じた、そんなシーンだった。「正しいこと」が起きて、そして実際そのとおりにかばんは生還し、物語は大団円と、新たな旅と、新たな出会いを垣間見せながら終わる。『けものフレンズ』の幸福感の理由は、作品とそんなふうな信頼関係を結ぶことができたという喜びのなかにあるのかもしれない。

 『けものフレンズ』に関しては、続編での監督交代が話題にのぼったことも記憶に新しい。ところで次に挙げる■『血界戦線 & BEYOND』もまた、前作から監督がバトンタッチする形で始まったシリーズである。
 新しいシリーズでは、物語としては前回の続編としてすでにお馴染みのキャラクターたちが登場しつつ、そのレギュラーメンバーたちを一人ずつ、各話で掘り下げていくエピソードが印象に残った。【#05 「とある執事 の 電撃作戦」】もそのなかのひとつで、秘密結社ライブラのリーダー・クラウスに仕える、執事のギルベルトさんの活躍を描いている。アニメに登場するキャラクターのタイプのなかでも「デキる執事」というのが幼少時に見たギャリソン時田(『無敵鋼人 ダイターン3』)以来無条件に尊敬してしまうロールモデルなので、ごつい戦闘用スーパーカーといった趣の車を乗り回し、後輩執事の危難を救うギルベルトさんの勇姿を拝むことができてたいへん充実した。
 そしてもうひとつ、新シリーズを見ていてうれしくなるのは、エンディングアニメーションの演出を担当しているのが、前作の監督であるということだ。
 実際にどのような経緯で監督が交代することになったのかの実情はわからないし、また無理に知りたいとも思わない。ただ偽らざる実感として、2話以降に初めてこの新シリーズ用エンディングを見たとき、最初に感じたのはバトンタッチした相手へのエールであり、作品への変わらぬ愛情表明だった。監督という立場から離れたとしても、そこには繋がりはちゃんとある、そのことを、エンディングアニメーションという形で、個性的な文体の挨拶を送ってくれた……繰り返すが、実際のところどうだったかには興味がない。ただ、そういう「心意気」を想像させてくれるような仕事は、見ていて元気になる。物語と同様に、作り手の人たちもやっぱり繋がっていて、人と人が繋がっていくその網の目のなかに作品が生まれていくんだなあということのすごさを、改めて考える。

 ■『BORUTO -ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS』はナルトの息子であるボルトを主人公に、3月に放映終了した『NARUTO 疾風伝』の「次の世代」たちを描いた続編である。ただし、今回とりあげた【#19 「うちは サラダ」】から数話分においての主人公はボルトではなく、サスケとサクラの娘・サラダ。外伝コミック『七代目火影と緋色の花つ月』をアニメ化したもので、サスケがいない寂しさから、自分の本当の親を確かめたいという衝動にかられた彼女の冒険が描かれる。
 自分の両親について疑心にかられたサラダがサクラに突っかかるくだりでは、庭に干してあるシーツの使い方が、見ていてうれしくなる充実の演出設計だ。風にゆれるシーツ越しに、サスケのことを問いかける瞬間のサラダの表情、そして、それに答える瞬間のサクラの表情、そのいずれもがシーツにさえぎられ、互いの姿は布越しのぼんやりした影のようにみえるだけだ。そしてサクラがそのシーツを取り除いた瞬間、まるでそれを合図に互いの感情が顕在化したように、ふたりは口論になってしまう。
 このシーンは原作コミックでも、やはり洗濯物を干した庭での会話になっている。原作にあったシチュエーションを忠実に受け取りながら、そこにアニメ版の演出家がさらに創意を付け加えるかたちで、母娘の感情のいきちがいをいっそう際立たせるシーンに仕上げてみせている。原作とアニメ版のみごとなバトンリレーで成立した、充実しきったエピソードだ。

 OL(小林さん)の家でメイドをすることになったドラゴン(トール)の日常を描いた■『小林さんちの メイドラゴン』。シリーズ全体を通してつよく印象にのこったのは、話題にひとくぎりつくごとに"閑話休題"といった趣で挿入される遠景が刻んでいる、のんびりした、しかしかなり中毒性のあるリズムのことだった。そのつど発生している「間」の味わいは、もちろん今回とりあげた【#06 「第6話 お宅訪問!(してないお宅もあります)」】でも、語り口の基調になっている。
 この回は、こちらの世界に来ているトール以外のドラゴンたちの日常にスポットをあてたエピソード。ゆったりとした語り口のなかに作画された密度の高い描写が、ぴょんぴょん跳ねたり、ただたんに歩いていたりするシーンに説得力を与えている。そして、そうした日常的なしぐさの描写の密度は、たとえばクラスメートであるリコの家に遊びにきたカンナが「自分はちゃんと人間の女の子として小学校に溶け込めているかという不安」を語るとき、その不安や心細さにもやはり説得力を与えているし、ファフニールと滝谷の同居生活の場面にあっては、生活感、つまり「すっかり人間界の生活に馴染んでいる」という感覚に、説得力を与えている。

 ファンタジーな設定を下敷きにした異文化交流もの、ということでは、■『異世界食堂』もそのひとつだ。違っているのは、こちらの「異文化交流」は週に一度、「洋食のねこや」の扉が異世界のさまざまな場所とつながる日、あちらからのお客様が来るという接点のみ、つまりこの店内での食事だけに限定された「異文化交流」という点である。
 たとえば【#05 「menu9 カツ丼/menu10 プリンアラモード」】に登場する、獅子の頭と頑強な肉体を持つ魔族の偉丈夫ライオネル。彼は初めて「ねこや」を訪れたときに先代店主からふるまわれたカツ丼の旨さに感激し、以来必ずカツ丼を注文するようになった……といういきさつが語られる。店主の側からすれば、彼は毎回大声でカツ丼を注文し満足そうにたいらげる昔なじみの客であって、それ以上でも以下でもない。ライオネルがハーフエルフの傭兵に敗れ剣闘奴隷にになったことも、怪物マンティコアとの試合を前に自信喪失していたことも、カツ丼をたらふく食ったことで自信を取り戻し、以来勝ち続けて今に至るということも描かれるが、しかしそれらはライオネルが自分の世界で抱えている事情で、いずれも「ねこや」の店内には持ち込まれない。
 異世界からの客たちは、めいめいが自分の人生を抱えていて、それぞれの所属する国や種族や宗教や価値観にしたがって生きている。その個人事情を毎回描いたうえで、そんなにそれぞれ違っていても、場合によっては敵同士であっても、「週に一度この店へやってきて思い思いの好物を食べるのは幸せだ」という一点においてだけは同じ……。そう考えると、元気が出てくる気がする。

 突如羽田空港に出現した超巨大立方体に飲み込まれ、安否不明となった旅客機。一切の物理的干渉を受け付けない立方体を前にとほうにくれていると、なんとその立方体のなかから、旅客機に乗り合わせていた政府の交渉官とともに、「異方」から来たという謎の男・ヤハクィザシュニナが現れる……。■『正解するカド』【#01 「ヤハクィザシュニナ」】は、今年見たアニメのなかでも、「第1話での衝撃」の大きさによって強く印象に残るものだった。
 物語は終盤、予想よりもずっと人間臭い展開や動機を帯びていくことになるが、1話の段階ではもちろんそんなことはわからない。この先どうなるのか検討もつかない度合い、拡げた風呂敷の不敵な大きさとその拡げかたの個性において、記憶にきざまれた一本だった。
 30分なり何分なりの枠をとって、週に一度ずつ放映されるTVアニメ作品について、全部終わってからの作品評価、というものとは別に、見ているさなか、まだ先が読めない、その時点での輝きみたいなものについて、憶えておくことも大事なことのように思える。TVアニメとつきあうことは、そのかなり多くの時間を、「まだ終わっていない作品を見ている途中」の状態で過ごすことになるはずだから。

 はじまりかたの印象深さで選んだあとは、その終わりかたで今年もっとも強く印象に残った一本を選ぶことで、10選の最後にしようと思う。■『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ [第2期]』の最終話【#25(通算50) 「#50 彼等の 居場所」】を見終わって、ほんとうに大勢のキャラクターの死を見届けたと思った。そのなかには、慎重派で妹思いの腹心・ビスケットのように、あまりにも理不尽すぎるとしか思えない死もあった。
 昭弘は最期の瞬間、イオクを道連れにできたことを「いい土産話が出来た」と感じながら死んでいった。
 昭弘とともに、最後の最後まで戦場で戦うことを選んだミカ。「悪魔」として討ち取られる、その最期の瞬間まで、獣のような駆動で一体また一体と敵モビルスーツを葬っていくガンダム・バルバトスの戦いはすさまじいの一言だ。コクピットで、ミカはつぶやく。
 「俺には意味なんてない。けど、今は、俺には、オルガがくれた意味がある。なんにも持っていなかった、俺のこの手のなかに、こんなにも多くのものがあふれてる」。

アニメーション関連のデータ整理に携わっています。
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