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コラムとやらを書いてみた。

先日、某タレントさんの発言をヤフーニュースで見た。
スポーツをただ応援しているだけの人が、自分が何か成し遂げたわけでもないくせに、どうして(自分のことのように)喜んだりできるのか。理解に苦しむ。
実に興味深い質問だなと思った。
彼女の発言の意図がどこにあったのかはわからないが、裏読みすれば、人の人生の一部に乗っかって騒いでるだけじゃないか。あんたらの手がらじゃないだろ。という感じなんだろうか。

 私は、スポーツ観戦が好きだし、代表戦などはジャンルを問わず、なんでも応援。TVの前で、一喜一憂する方だから、そんなことは疑問にさえも思わなかった。でも確かに、一理ある。
私もファンかどうかに関わらず、ただそこで、試合を見ているだけの人である。応援しているのだから!というのはこっちの勝手な都合。選手やチームのこれまでの道程を、したり顔で熱く語ったとしても、所詮、主人公側ではない。そのくせ、関係者でもないくせに、おめでとうございます!なんて言われて、ありがとうございます!なんて、堂々と言い放つ。
このモヤっとした疑問の正解はあるのかな。

 スポーツ観戦による脳や精神への効果はドーパミンによる…なんて私は医者ではないからそんなことはわからない。
ただ、そもそも自分が実体験をしないと感動は味わえないのだろうか。
本や映画はどうだろう。架空の出来事で、自分とは関係ないから、笑えないし、泣けないのだろうか。実際は、大海原に航海に出ることもできないし、誰かと命懸けの恋もできないのが現実だ。それでも、何気なく見た絵画に理屈なく涙することだってある。
スポーツはノンフィクションだ。
血反吐を吐くような練習をし、何かを犠牲にしてまで叶えたい夢がある人を、私たちはただ、羨望の眼差しで見ることしかできない。勝ちたい、一番になりたいという純粋な思いに、心が揺さぶられる。
その瞬間に立ち会えた自分が、世界で一番幸せ者だとさえ思えてくる。
スポーツはプロパガンダだ、同調主義だと騒ぐやつは、この際ほっておく。

確かに、お気に入りのチームや代表チームが、勝とうが負けようが、明日からあなたの人生が格別、大きく変わることはない。金銭的に満たされるわけでもない。むしろ、散財する可能性の方が高い。
それでも、スポーツを通じて、極上の光景を知り、感情をシェア出来たなら、それだけで儲けものじゃないか。
決勝ゴールも満塁ホームランも決めたわけではないけれど、誰かの思いに共感できる自分が素敵じゃないか。
そして今夜もまた、小さな店で流れるナイターに、岡本やったぞ!俺の見立て通りだ。とはしゃぐ黄ばんだダボシャツのおっさんに、目を細める。
そこにはいつでも主人公に寄り添う脇役の誰かがいる。

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