初恋

   さき さなえ

夢を見た。
にぎやかな大通りを歩いていると、だれかとぶつかりそうになった。すみませんと言って相手を見ると男性である。とたんに「あ、江田先生!」と大きな声を出していた。   
先生は何も言わず、ただ優しい笑顔で私を見ている。                 
それだけの夢だ。                               
 
夢はしょっちゅう見ている筈なのに、いつも内容が思い出せない私である。目覚めた瞬間は覚えているのに、数秒もたたないうちに、夢は私の手が決して届かないどこかへ消え去ってしまう。それでもこれまでの人生でかなりはっきり思い出せる夢はいくつかあるけれど。
 
江田先生の夢は、目覚めたあともはっきり覚えていた。短い夢。そのあと続きはあったのだろうか。わからない。続きがあったとしても何にも覚えていないし、思い出せない。                                     
はっきり思い出せるのは、江田先生が優しいまなざしで私を見て笑ったその顔。短すぎる夢だったのに、目覚めたあと、いつまでたっても、先生の笑顔は頭にこびりつき、離れない。           
 
江田先生は、私が小学5年の時の担任だった。すらりとした超イケメン。何よりその優しい人柄と笑顔で子供たちに人気があった。先生の厳しい顔や怒った顔など一度もみたことがないし想像もできない。私は先生のことが好きでたまらなかった。
 
今思うと、小学5年の私の気持ちは「初恋」そのものだったと思う。            
 
 
同じクラスに大の仲良しの生徒がいた。在日韓国人の女の子で、とても頭が良く、きれいで、物腰が柔らかく、声も何もかもすべてが優しさに包まれているような生徒だった。私は彼女が大好きでいつも一緒にいたものだ。                             
ある日、私たちはそれぞれの親が持たせた小さな花束を持って、結婚されたばかりの先生の家へ遊びに行った。先生は養子にいかれたので、名前が江田先生から雄松先生に変わっていた。
 
私はこの日のことを今、はっきり思い出すことが出来る。先生は私たちの訪問と花束をものすごく喜んでくださり、先生に負けず劣らずとても優しそうな、メガネをかけた奥様を紹介 してくださった。アルバムを見せてくださり、お菓子を入れた器を私たちの前に置いて食べるようにすすめてくださった。それから下へ降りてゆかれた。
 
アルバムを見ながら、私がお菓子を一つとって口に入れようとしたその時、先生が二階へ上がってこられた。その瞬間、私はお菓子を食べることなどできず、思わず左手で握りしめて、先生の家を出て帰るまでぎゅっと握っていた。お菓子はつぶれてしまった。先生の前で食べるなんて、ただ恥ずかしくてできなかったのだ。                         
 
このシーンは何故か、のちのちよく思い出した。先生との思い出は、ほかには特にない。
6年になると担任の先生も変わったので、先生とはそれっきりになった。
                                        
 
高校1年になったある日のことである。私は市内の繁華街を制服を着てひとり歩いていた。
そのとき前方から、雄松先生が自転車を押しながら歩いてこられるのが目に入った。
先生は目ざとく私を見つけて近づいてこられ、昔のままのあのとびきり優しい笑顔で私に話しかけてくださった。何とおっしゃったか、一切覚えていない。私は自分でも驚くほど胸が高鳴り顔がほてり、嬉しいけれども、ただ恥ずかしかった。数年ぶりでお会いしたのに、高校生になって私は体重も増え、外見も相当変わっていた筈なのに、先生はすぐ私に気が付いてくださったのである。
                    
夢で先生にお会いするまで、先生のことは忘れてしまっていた……。数十年もたって、夢の中で先生に再びお会いしたおかげで、色々なことを思い出した。お菓子のことも、高校生の私が自転車を押しながら歩いておられた先生と遭遇したあの日のこともすべて夢のおかげ。まるで昨日のことのように
鮮明に思い出すことができた。
たった2メートルと1メートル四方のお布団の中で、素晴らしい思い出をよみがえらせてくれた夢。枕元にノートとペンを置き、夢を見て目覚めたらすぐ書き留めておこうと思っている。
 
こんなことも思い出した……。
先生のところへ一緒に遊びに行った同級生の女の子と、あるとき、近くの小高い山の公園へ行った。お弁当を持って行った。彼女がお弁当箱のふたを開けると、ご飯の上にスライスされた大きな紅ショウガがびっしり乗っかっていて、とてもおいしそうだった。家へ帰ると母に頼んで、同じように作ってもらい食べた。その後何回も同じものを食べた。                
 
雄松先生と、きれいで優しい仲良しの友達。このふたりのことを、今はいつでもはっきり思い出すことができる。もう決して忘れたくない。「夢」に心を込めて感謝!である。 

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