定直彦の前身としてのtvc(トーリク・V・チャイカ)
神秘家エクリチュール
ああ、こらが、救い、をもとめるということか
・信仰は、神学は、 断筆
■ゼンタイシュギということ ・ゼンタイシュギは、独裁者と全体主義という蜜月の関係から、独裁的全体者と全体的為政者という蜜月関係に進化したところのものだろう ・独裁的全体者とは、民衆、である(民衆、とは、民衆と聞いて、自分のことか、とイラッとする人々のことである) ・全体的為政者とは、完全に無力化された政治家(トランプ大統領や日本の為政者など)である ・ゼンタイシュギ、はカタカナ的である ・なぜなら、目下進行中の事態は学術的には言語化されないから、である ーーーー
・一切絶望することができずに絶望自体になってしまったその現実こそ民衆である(その体験や心に絶望はないが、外郭や現象のすべてが絶望を遂行し続けている) ・つまり、絶望を抱くものは、絶望自体ではない ・特に何も思わずに円満的に巨大企業などの一構成要素として存在し続けることはひとつの絶望の遂行形態なのである ・だが、どのように救済されればよいのか。そもそも救いを求める愛をこそ喪失した民衆が ・とにかく、民衆自体が差異化され続ける必要があることはひとつだろう(だか、だれが、ど
神という語から考えていかなければ、全く意味はない 神を省いて考えても、最後は、神、という語によってすべて相対化、破壊されるからだ
・実存とは疎外の結果である ・実存など全体主義による、個性の孤立化でしかない ・つまり、実存主義が座礁したことはそもそもの原因が全体主義側にあるからにほかならない ・実存とは、実存者の問題ではなくそれを囲っていた全体主義側が全面的に解決すべき課題なのである ・そもそも、実存は、全員で担われるべきものなのである
・小さな物語同士(人同士)が、今、出会いあい、家族的一致関係を生成していっている ・独裁的全体主義(空気性民衆主義)、難しくは、経済ー政治ー技術の自同機構による、大きな物語を、打開するべく、このようになっている
イエス様に感謝
■ぎりぎりになって、ばーん、となるまで ・限界状況突破としての超包者との交わりまではわかるが、では、その後に超越から内在へと向かうことになる意志、の、その意味、は、どの言葉、で、そもそも言語化(体験やクオリアの準共有)されることが可能なのか(限界状況突破、一者合一、受肉的転回、嘔吐からのアンガージュマン、ケノーシスや死に至る病からの信仰――記号的にはどれでもよいとして) ・キルケゴールは信仰、マイスター・エックハルトは説教、ニーチェ、ゴッホは発狂、サルトル、ヤスパースは執
外学、が行われるべきだ 外学は、学外、ではなく、学外とされるものを正式に対象とした、外学、である 諸学に摂取されていくところの拡張性 なぜなら、学内は学に窒息していることは間違いない ほんとうに、学外ではなく、外学が求められている 哲学外学 神学外学
宗教芸術 ではなく 芸術宗教 をしたい
零即一→ゼロがひとつ 一即零→一つではゼロになる(1も相補性) ああ、これが、位相言語性(ローエの一端だ)
意味の誤配にひそむ真実性 ヤハウェは日本では、はじめ、大日、と約されていたらしい(なんともエヒィエ的である) 後にとんでもねー!とカトリックがチガウチガウをいれたが、意味の誤配こそ神のはからいっぽい
はじまり〜おわりの世界は神が創造されたが、その終末後(ヨハネ黙示録)、にあるといわれる、永遠の世界(アイオーン)〜天国、ははじまりもおわりもない、ということでいいのではないだろうか そした、はじまり〜おわり、の世界に、すでに、永遠の世界が流入している、と考えて空海を読むなり