見出し画像

【エッセイ】自分の気持ちを恥じない決意と心の拠り所だったカフェが閉店してしまった話


お気に入りのカフェがあった。
いわゆる和カフェに分類されるお店で、とても素敵な空間なのだけれど、お洒落なお店に行くと感じてしまう“素敵なお客でいなければ”という変な気負いを感じることなくいられる。


 コミュニケーション能力が乏しい私は、入店時やお会計のときの必要最低限しか会話をしないが、それでもマスターの人柄や距離感をいつも好ましく思っていた。

馴れ馴れしくない。放っておいてくれる。
でも、ちゃんとこちらのことは気にかけてくれている。そんな安心感。


 そのカフェで気に入っているメニューがあった。気に入っていると言っても、1、2度しか食べたことはないのだけれど。

和カフェらしい、黒豆のホットサンド。物珍しさから頼んでみたら、優しい黒豆の甘味にすっかり魅了されてしまった。黒豆が好きなのと、黒豆は体にいいのだから、私は今体にいいものを食べているのだという安心感があるのもよかった。

ただ、いつも空腹な私のブラックホールが毎度そのカフェに行くタイミングでは空腹を感じず、食べたくても食べられない。本当に空気の読めない腹である。だからなのか、執着心も相まって、自宅で小腹が空く度に『ああ、黒豆ホットサンドが食べたい』と思い出すのだった。

夜遅くまで営業してくれるのもありがたかった。

嫌なことがあったときや、まだ家に帰りたくないような心もとない気分の夜なんかは、心の拠り所を求めるかのように行きたくなるから、それは大抵、夜なのだった。

店内に流れるゆったりとした時間に身を預け、ウジウジと嫌なことについて考えたり、ちょっと泣いたり、けど数分も経てば「でもまあ、今この時間って悪くないかも。幸せかも。ああ、このお店があってよかったなあ。」とまたウルっときたり、そんなふうに過ごす時間がたまらなく心地よかった。


 嫌な出来事を過去の1つのエピソードとして完結させてしまおう、その出来事よりもここで過ごした時間のほうが輝いているじゃないか!なんて思えてきて、帰るころにはちょっとスッキリしている。行きはとぼとぼ俯きながら歩いていたのに、帰り道は「ああ、夜空が綺麗」なんて空を見上げる心の余裕さえある。空を見上げるのは『心に余裕がある素敵な人間くらいだ』と思い込んでいる器の小さな私は、空を見上げている自分に酔う。


自分に酔いながら、落ち込みやすいけど、回復も早い。そんな自分も悪くないなと思うのだった。


 基本的に自宅以外では緊張し、くつろげない私にとってそのお店は貴重な存在である。

諸々の事情で引っ越しすることになったとき、一番に思ったことは『もう、ふら~っとこのカフェに行けなくなってしまう』だった。

引っ越しに難色を示す私に夫が問う。
「何が気になるのか?」
理由を聞いた夫は、なんだそんな理由かと失笑した。

・・・

 私はこのカフェの存在に救われた夜が幾度とあったのよ。あなたに出会うよりも前から。いいえ、あなたと出会ってからだって。あなたに著しく欠乏している『共感能力』を身に着けてくれたら考えますけどね。

そんなことありえないでしょう?

だって『共感』の重要性を理解していないから、例え目の前にアラジンの魔法のランプがあったって願わないでしょう?共感能力が欲しいだなんて。


・・・

 
当時、今よりも『自分が思うこと』に自信が持てなくて、夫に“なんだそんなことか”と笑われて恥ずかしいと思ってしまった。



“カフェごときで、メリットしかない引っ越しを渋る女”


そんな自分がすごくダメな人間に思えて、それでも二つ返事で承諾ができなくて、モヤモヤしていた。

そのモヤモヤの正体が今ならわかる。

私が大事にしていることを、「夫」と「私自身」から軽く扱われたことへの寂しさと悔しさだったのだ。


 傍から見たらどうでもいいようなことでも、当人にとってはすごく大切なことは、ある。私はあのとき自分の気持ちよりも、夫が言う“効率”や“普通に考えたら…”という世の中の常識を優先させてしまった。

結果は変わらなかったとしても、私自身と夫から“それくらい大切な存在なんだね”って寄り添ってもらっていたら私の心はもう少し報われただろう。

ごめんね、私。


 他人の大事にしているものを大事にできる人って、自分の大事にしたいものを(他人から理解されなくても)大事にできている人なのかもしれない。私も、自分の大事にしたいものを大事にできる人でいよう。他人の大事にしているものを“そんなこと”と笑ってしまわないように。



 ところで、落ち込んだとき、人に話して元気が出る人もいれば、1人になることで元気になる人もいる。外向的か内向的かの違いなのだそうだ。

夫は前者であり、近ごろ落ち込んでいる奴は胸の内をすべてさらけ出してくる。


大切な人が落ち込んだときに、寄り添い、話を聞くことができるということはきっと幸せなことなのだと思う。

…だがしかしである。夫は、自分と人を比べることはないが、人と人とはしょっちゅう比べる。貶すときだけでは飽き足らず、褒めるときでさえ比べるし、その比べる対象が実在するのかしないのかわからない、抽象的な存在だったりする。


 私は今、カウンセラーのように心を無にして夫の胸中を聞いている。こんなに心がやわやわの、未熟なカウンセラーがいていいのだろうか。いや、いいはずがない。


カウンセリング中、夫が話す内容の中には“君とはこういうところが合わない。他の女性とだったらと想像してしまう。想像してしまうことが君に申し訳なくて辛い”といったものもあり、その女性は実在する人物というよりかは、夫が脳内で創り上げた“素敵な女性とはこういうもの”という理想なのである。

夫よ、おぬしが求めている存在は人間ではない。人形である。いつか今より技術が進んだら、大枚はたいて可愛い女の子のロボットでも買ってくれ。設定を駆使して理想の女の子とやらを創り上げてくれ。そのためにもどうぞ長生きしてください。


それにしても、 何日もこういう日が続くと、いくら自分の心に侵入させまいと注意を払っても、気がつけば私の心の中にはモヤモヤが蓄積されていて、ついに感情の砦が決壊してしまった。

アダルトチルドレンの私は、比べられるのが大嫌いなのだ。心に溜まったモヤモヤを ぶつぶつ呟きながらうぉんうぉん泣いた。ちょっと自分でも引くくらい、真夜中に1人でうぉんうぉん泣いた。


 次の日の夜、心の拠り所を求めてお気に入りのカフェに行こうと車を走らせた。


しかし、到着したのにお店がない。あるのは建物の残骸だけ。何度見ても、これは夢だと思っても、私の目が捉えるのはがれきの山。

私の心の拠り所は、なくなっていた。 
知らぬ間に閉業していたのである。

泣きっ面に蜂。
 このまま帰る気にはなれず、一度も行ったことのなかった「おかげ庵」に寄ってコーヒーとケーキを食べた。コメダ珈琲の和風版らしい。


食べながら思った。
もうあの空間で、あの黒豆ホットサンドは二度と食べられないのだな。悲しいな。忘れたくないな。


切なくてたまらなくなった夜。
その店の店員さんの笑顔に、ちょっぴり救われたのでした。


 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?