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弔問客に親子漫才する

父が亡くなったのは18年前。駅ビル内で心臓発作を起こし、一度天に召された。当時AEDは街中にまだなく、偶然居合わせた親切な方の通報で救急搬送された。数十分後に病院のICUで一回は蘇生したものの、その後一度も意識が戻ることなく、2週間後に本格的にこの世を去った。70歳だった。

その2週間はいろんなことが起こり、私と母と兄は右往左往しつつ、父の最期が近づいたり遠のいたりしている様子をつぶさに見ていたためか、当時はそのような実感がなかったが、周りの方々からは、
「それでもまあ長闘病にならずに、ねえ」
などと言われたので、みんなの憧れ逝去スタイル、ピンピンコロリの部類に入るのだろう。

葬儀の時は、父を知る弔問客からはお悔やみの次には7割方、
「しかし驚きましたよ。あなたのお父さんほど健康な人はいないと思っていましたからね。100歳まで生きると思っていました」
と続き、皆一様に驚いていた。そうなんですよ、私もそう思ってました。

父はお酒やタバコは一切やらず、趣味はクラシック音楽鑑賞と全方向で健全だった。会社員時代は、6時起床、10時就寝を休日でも貫き、定年退職後も同じ生活サイクルで食事も適量で毎日脇目もふらず散歩していた。毎日おやつは食べても中肉中背をキープ。一度八方尾根に行った時、山道を歩くあまりの速さに母も20代だった私もついて行けず、
「速すぎるんだけど!」
とブチギレたこともあった。父はふん、と少し照れていた。照れるな、気遣え。心肺機能など、かなりいい方だったのではないか。高血圧はあったが、通院するような病気もない健康体で、近所の方は自分の夫や父親に、
「あそこのお父さんを見習いなさいよ」
などと常々言っていたとか。そんな地元じゃ負け知らずな健康アミーゴだったのに、ヘビースモーカーを通しつつ93歳で大往生だった父の父、私の祖父より23歳も早く逝くとは思わなかった。

葬儀の後の親戚や親しい人々との会食で、あんな健康優良おじさんがねえー、みたいな話に及ぶと母は、
「そうなんですよ。前日までお墓参りに行ったりして普通に過ごしていたんですよ」
と答えていた。母は父が2週間生死の境を彷徨っている間中、基本ずっと病院にいたので葬儀の頃は疲労はピークに達していた。倒れるのではないかと心配で私は常に母の隣にスタンバッていた。そして、
「そうそう、お墓参りの日はとても暖かかったのに、倒れた日は急に寒くなったんだよね」
などとひな壇芸人のように母のトークを盛り上げていた。すると母は少し悔しそうに、
「前の日に暖かかったからか、油断してちょっと薄手のジャンパーで出かけたのも良くなかったんだと思います」
などと続けた。実はその薄手のジャンパーは割とブランド品だったのに救急隊員がハサミで思いっきり切り裂いたのを、母は病院の家族室でブツクサ文句を言っていた。それを思い出して悔しいのかも、とも思ったがそれは伏せて、
「前の日はコート着ていると汗ばむくらいだったし、晴れていたから油断したんですかね」
と父のフォローなどをして、父も母も思いやるいい娘ふうの発言などをしていた。

通夜、告別式が終わると、葬儀に来られなかった人や、人伝に父の死を知った方々が家にお悔やみを言いに来るようになった。それも徐々になくなって来たと思ったら、どなたかが父がいた業界の専門誌のお悔やみ欄に掲載したらしく、2ヶ月後位に再び、
「○○を見て来ました」
などと父と親しかった方々がいらっしゃるようになり、お線香をあげてもらう日々が再開した。

家まで来たのだから、皆さん少し私たちと話していく。ご丁寧なお悔やみを頂くと、
「○○を見て本当に驚きました。ちょっと前にお会いした時はお元気でしたので」
はいキタコレ。業界誌を見て驚いて来て下さった方も、葬儀の時の皆さんと本当に同じことをおっしゃる。
「そうなんですよ。前日までお墓参りに行ったりして普通に過ごしていたんですよ」
母が、細胞レベルに刻んだのかと思うほど、一言一句葬儀の時から全く変わらない合いの手を入れる。よく覚えてんな、堂に入ってるわー、などと感心しつつお客様にお茶を淹れていると、母は言い終わり、こちらを見た。声にならない『カモン』が聞こえた。

は? あ、ああ。慌てて母の話を継いだ。
「そうそう、お墓参りの日はとても暖かかったのに、倒れた日は急に寒くなったんです」
私も、もう何10回も言ってるので、澱みなく同じ言葉が出てきた。余裕で語尾だけ丁寧語に言い換えることもできた。すると母は、今度は自分のターン、とばかりにちゃんと、ちょっと悔しそうに続けた。
「前の日に暖かかったからか、油断してちょっと薄手のジャンパーで出かけたのも良くなかったんだと思います」
ちょっと! ちょっとちょっと! 何これやっぱりネタ? 驚く私に、母は全く意に介さず、言い終わると、『はいどうぞ』顔でまたこちらを見た。これ、いつの間に漫才になったのか。いくよくるよのつもりか? 私と母だと、くるよくるよになるが、などと雑念が湧きつつも、そんな素振りを少しも見せずに私も続けた。
「前の日はコートを着ていると汗ばむくらいだったし、晴れているから油断していたんですかね」
完璧にネタじゃん、と思うと後半は笑けてきたが、場が場なだけに堪えてネタを終えた。まるで当日を思い出して泣くのを堪えているかのような感じになってしまった。弔問にお見えになった方は、皆、
「本当に悲しいことです」
などとしんみりされていた。私たち親子はスベっていたのだろうか。ウケられても驚くが。

その後も何人かお見えになり、その都度、このネタを母娘漫才で披露し続けた。1周忌の頃には弔問し尽くされたようで、漫才を披露することも無くなったが、あと2−3回続けていたら、「おあとがよろしいようで」などと締めていたかもしれない。


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