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いじめ被害者が激深な自己否定感を持ってしまう理由を考えてみた

こんにちは、瀬尾りおです。

今回はいじめを受けるとどうして自己否定観念が激深になってしまうのか、自分が経験したことも踏まえつつ考えてみました。


いじめを受けるとなってしまいがちなこと

いじめを受けると、例えば

  • 後ろから聞こえたくすくす笑いが自分を笑っているように聞こえる様になる

  • 初対面の人が自分を嫌っているのではないかと想像するようになる

  • コミュニケーションの中で少しでもネガティブな反応をされるとそれを過剰に捉えてしまう

  • いじめを受けたと知られると相手から低い評価を受けるのではないかと怯える様になる

  • 業務連絡の様な必須の連絡でさえ、自分が話しかけたら迷惑なのではないかと考え躊躇してしまう

  • 自分の話なんて場を凍らせるだけだと、世間話の途中で何も話せなくなってしまう

  • 人の輪に入る必要がある場面で、自分が輪に入ると和気藹々とした空気をつまらなくさせてしまうのではないかと想像して入れなくなってしまう

などなど、枚挙にいとまがありませんがとにかく自己評価が低くなりそれに伴った行動を取ってしまいます。

これらがどうして起きてしまうのか、自分なりに考えを整理したので書いてみたいと思います。

いじめは善悪観の暴力

いじめは悪くも何でもないことを『悪い』として攻撃の理由にし、正当化した攻撃をくわえることだと私は述べてきました。

つまりいじめは善悪観で人を殴る行為なのです。

では善悪とは何でしょうか。ニーチェの定義によれば、善悪とは、不特定多数にとっての利益/不利益だと言います。例えば、平等に分け与えることが善なのは、それが不特定多数の人々にとって利益となることだからだ、というのがニーチェの主張です。

さて人は基本的に、善に従って生きています。なぜかというと、社会を作り協力し合って生きることが人が進化の過程で獲得した生き方だからです。
社会の中で生きるためには社会全体にとって利益になることをしなければ、社会から追い出されてしまい、生きていけなくなります。社会に帰属するため、倫理、道徳、正義、法、などさまざまな形で定義される善に従うことは、人間の生存本能に刻まれた必須事項なのです。

世界から「生きていてはいけない」と言われる

子供は親の教えや自分の経験から何が“善”か、何が社会の中で生きていくために必要かを学び、それに従って生きています。もちろん、それは未完成で間違うこともあるでしょう。しかし基本的に、子供は自分の知っている“善”に従って生きています。
そんな子供が、自分は“善”と信じている行為を“悪”だと言われ、その証拠とばかりに所属しているコミュニティから仲間外れにされたらどうなるでしょう。

これは生命の危機です。いじめは、人が進化の過程で手に入れた「社会の中でしか生きられないから、社会に帰属するように生きる」という行為を不可能にさせられる、生きたいという本能に働きかける行為だと言えるのです。
平たくいうと、世界から「お前は生きていてはいけない」と言われることがいじめであるように思います。

私はそうした感覚を持った記憶があります。私は2度いじめを受けているのですが、2回目のいじめが始まったと感じた時に、急に足元にぽっかり穴が空いてそこに落ちていくような感覚を覚えたことを覚えています。(落下死の感覚があったということです。)

「お前は生きていてはいけない」と言われた時、「そんなことはない」と思える自己肯定感があればいいのですが、おそらくそういう人は稀なように思います。
もちろん、「そんなことはない、自分は生きていていい」という気持ちが全くゼロになってしまうわけではありませんが、学生時代の友人から突きつけられた「お前は生きていてはいけない」に完全に反対することは難しいことが予想されます。

つまりいじめを受けると、「自分は生きていてはいけない人間だ」と思い込まされる、と私は思っているのです。

この「生きていてはいけない」という感覚が、冒頭に挙げたいじめ被害者の強い自己否定感につながっているように思います。

払拭するには

この感覚を払拭するには、人によるとは思いますが、誰であれいくばくかの時間が要るだろうと思います。

(いじめを受けたことごと忘れられた人、それから元々持っていた自己肯定感が強かった人はそうではないかもしれませんが。)

世界から命じられた「お前は生きていてはいけない」をどうやって払拭するか、それは、世界から命じられた「お前は生きていてはいけない」に反逆することです。

私が経験したことを元に、どうやって反逆するかを羅列していこうと思います。

1.好きな事に熱中する

まず、自分の楽しいと感じることにとにかく熱中して、「生きていていいに決まっているじゃないか」という感覚を育てることがまず一つのアプローチだと考えられます。

私の場合は、幼児退行して子供の頃大好きだったヒーローもののアニメをむさぼるように観ました。遊戯王5D'sというヒーローもののアニメが私が廃人の様になった時期放映されていたのですが、そのアニメをかじりつくようにして観ていました。
また、JAMProjectというヒーローアニメのテーマソングを歌うアーティストのCDを買い、浴びるように聞いたのも覚えています。(当時はサブスクなど無かった時代でした。)
要するに私は”ヒーローものが好き”という自分の好みに嘘をつかずに行動しました。
実は今も遊戯王5D'sやJAMProjectのファンで、頻繁に見返したり聞き返したりしています。

2.理性的に理解する

別のアプローチとして考えられるのは、「自分が生きていてはいけないほど悪い存在であるはずがない」と理性から理解することです。

私の場合これは、いじめの手記を集めそれを分析して「いじめはいじめられた側が悪いのではない」と自己理解することで達成しました。

私はクラス全員の女子から総無視されるといういじめを受けたのですが、これはたまたまクラスの全ての女子が無視するほど私を嫌ったという可能性もあることから、いじめ加害者の非を認めにくいいじめであったように思います。
そういった『世界から「生きていてはいけない」と言われる』を否定しにくいいじめを乗り越えて、大学進学、Core30の企業に就職という“偉業”を達成出来たのは、この理性からのアプローチをすることが出来たからだと自分では思っています。

3.行動療法

最後に第3のアプローチですが、行動療法もいじめによる自己肯定感の欠落に有効なように思います。
要するに、無理やり自己肯定感があるかのように振る舞うのです。

ユング心理学に『ペルソナ』という概念があります。ざっくり説明すると、人は皆仮面をつけ外しするように、置かれた場面ごとに振る舞いを変えているというものです。
さっきまでカツオに怒鳴っていたサザエさんが、かかってきた電話に出る時には怒鳴り声をひそめ「イソノでございます♪」とよそいきの声を出すのがその一つの例です。

私はこの概念を知った時、「演技してもいいんだ!」とひらめきを得た気持ちになりました。要は、誰もが無意識に仮面のつけ外しをしているなら、それを意識的にやったとしても許されるのではないか、と考えたのです。
私は大学に進学し、同期と話さなければいけないシチュエーションになった時、女優になったつもりになり、自分が考える“普通の子”を演じました
人に対して恐怖心など持っておらず、笑顔で人に接し、たまには冗談を言い、また冗談を言われたら屈託なく笑う、そんな“普通の子”のイメージを自分の中で固め、それを演じました。

演じているうちに、それは私の新しい一面になりました。演じている自分が本当の自分(の一部)になったのです。
これは実行するには思い切りのよさというのか、とにかく勇気がいるので、誰にでも勧められはしませんが、行動の方を変えることでいじめで負った傷を治すというのは一つの手段だとご紹介しておきます。

その人ごとにアプローチがあるはず

上記は、冒頭に挙げたような深い自己否定感を払拭するために私がやったことです。
おそらくですが、その人ごとにその人に合った払拭の方法があるのではないかと思います。

  • いじめとは、世界から「生きていてはいけない」と言われることである

  • いじめによる強い自己否定感を払拭するためには、世界に反逆する必要がある

この2点を押さえ、その人ごとに合った方法を見つけるのが解決への近道であるように思います。

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