【ショートショート】プラスチック症候群
薄暗い無菌室の中、白衣を身にまとった初老の男がベッドに横たわる女のそばに歩み寄る。
「Y子、もう少しだ…。もう少しで君を助けられる。」
男が優しく語りかける。しかし女の返事はない。それどころか手足はぴくりとも動かない。まるで石膏像のようだった。
この病気は菌やウイルスによるものではない。
原因は2020年代から問題視されていたマイクロプラスチックだ。マイクロプラスチックは微小なプラスチックのことで、飲料や食料など体内に取り入れるものや、タイヤの摩擦などで大気中にも存在する。当時は人体がマイクロプラスチックを体内に取り入れた後、対外へ排出されるのか、それとも体内に蓄積するのか研究が行われていた。
転機が訪れたのは2040年7月、原因不明の体調不良者の続出。最初は不眠や発熱といった症状が目立っていた。多くの医師は寒暖差によるストレスであると診断した。症状を訴える人が多いからか7月のテレビ番組は寒暖差による体調不良を防ぐための特集が日夜取り上げられていた。
しかし8月になると、7月から体調不良を訴えていた10代女性がテニス部の活動中、サーブフォームの姿勢のまま突然ピタリと動かなくなってしまう。
事実上の植物状態となった女性はその後の検査で皮膚が以上な硬度を持っていることが判明した。
皮膚の主成分を調べるとポリエチレンテレフタレートやイソプレンであることがわかった。これらはペットボトルやタイヤの主成分として馴染み深いプラスチックの一種だ。
国はこの病気をプラスチック症候群と名付けた。各国の研究機関が5年間治療法を模索してきたが、解決の糸口は未だ見つけられていない状況だった。ただ一人を除いて。
男は2年前までは妻であるY子と一緒にプラスチックの再利用法を研究する機関で働いていた。しかし、Y子がプラスチック症候群になってからは研究機関を去り、一人で解決法を探していた。
そして昨夜ついにその試作機が完成した。
試作機はドーム状の形をしており、中央にくすんだ銀色のベッドが置かれている。このドーム中に入っている生物に特殊な波長のレーザーを当てる。このレーザーにあたった生物の体内にあるマイクロプラスチックは従来から生物の体内にある酸素原子や水素原子に分解される。プラスチック症候群は体内に蓄積されたマイクロプラスチックが許容値以上に達すると発症する。レーザーを当てることで体内のマイクロプラスチックを許容値以下に下げることができれば、プラスチック症候群で体が固まってしまう心配はない。
また、男はプラスチック症候群ですでに固まってしまったマウスにも実験を行った。するとマウスはまるで長い眠りから覚めたかのように再び生命活動を再開した。この結果が示すのはすでにプラスチック症候群で体が固まってしまった人間も元に戻せるということだ。
「マウスでの実験は無事に成功した。あとは実際に人体に使ってみてどうなるか。しかし、研究機関を去った身。私が知りえる人間でプラスチック症候群の人間などいない…。そうか、私で実験をすればいいのか!私はプラスチック症候群の予備軍だし、硬化宣告も受けている!」
男は興奮し我を忘れ、ドームの中で横になった。
「これが成功すれば、Y子は…Y子は…。」
しかし、男は忘れていた。プラスチックは熱エネルギーによって分解されるということを。そしてマウスと人間とでは体内に蓄えられるマイクロプラスチックの量が桁違いであることを。