叫べ、われらが神の名を

ズィーゲン。それが私の名だ。それは大戦の前日に与えられた名で、それより前に私に名前は無かった。私は決して忘れはしないだろう。革命前夜の出来事を。ゼロとの出会いを。
私は牢獄で生まれた。汚物の匂いが染みついた毛布が寝床であり、私の持つ全てだった。ここ以外の世界を私は知らなかった。私は悲哀を知らなかった。私は苦悩を知らなかった。希望や幸福こそがあらゆる感情の出発点である以上、それらを持たない私には何の感情もない。糞尿にまみれた生活以外に私の知る世界は無い。
・・・・いいや、違う。これは今思えば嘘だ。生き延びるために自分についていた嘘。
本当はここ以外にも世界がある事を知っていた。遥か遠く、幾億光年彼方の記憶の果てに幸福な時代があった。光と喜びに彩られた世界が確かにあった。夢と覚醒の狭間で時折私は幼い日を思い出す。豊かな色彩で染まった部屋と寝床。暖かな光と柔らかい毛布に抱かれていた子供時代。そして煌めく黒い瞳でこちらを見てほほ笑む母の顔。そこは幸福の匂いが満ちていた。
それが突然奪われた。幸福の家から強引に私が引きはがされる時の母の悲鳴。聴く者の心を引き裂くような悲痛な叫び声。だが生憎、簒奪者は心を持たなかった。自らの利益と快楽の為なら何処までも残酷になれる。そう言う風に奴らは出来ているのだ。
そして気づけば牢獄にいた。立つ事さえおぼつかない狭い檻の中。夢の中で奪われたものの大きさを思い出す時、私は声も出さずに泣く。泣き声をあげれば、あの人間がやって来る。プルオーバーのパーカーを着た男が、巨大な身体と竹細工で出来た仕置き棒を携えてやってきては私を無言で打ちすえる。だから私は夢を見ている時も声を押し殺して泣くのだ。
あいつは夏も冬も同じ色のパーカーを着ていて、フードで顔を隠していた。顔は私達にとって感情の出入り口だが簒奪者に感情は無い。そうゼロは言っていた。なら、あいつは何を隠していたのだろう。今もそれは謎だ。
見知らぬ男に犯される事と子供を産むこと。それだけが私の仕事だ。そこには思いやりや優しさは勿論、欲情とニアリーイコールの愛だってありはしない。誰に何度犯されたのか、私は数えた事がない。相手の顔も覚えていない。
だが産んだ子供の顔だけは忘れない。決して忘れない。二度と会う事のないあの子達。元気でやっているだろうか。
子を産むその時だけは、幸福を思い出す。しかしそれも奪われるまでのわずかな時間だ。
希望は持つな。未来を想像するな。心を殺す事で辛うじて私は生き延びていた。
 私にも友人はいた。隣の牢の女だ。彼女を初めて見た時、その高貴な姿に私は見惚れたものだった。威厳と気品のある表情と、遠くを見ているような眼差し。羽のように長く美しい毛。あれほど美しい女性は他にいないだろう。パーカーの男に連れられながらもその凛とした態度を崩さず、その姿はまるで荒れ果てた古城に住む女王のようだった。
 最初の夜。私は思い切って彼女に話しかけてみた。以前の隣人は碌に話さないまま何処かへ行ってしまったから。彼女は私より4つ年下で、その外見からは想像のできない程幼さなかった。経緯は私と同じだった。ここより遠く離れた場所で簒奪者に攫われたのだ。
「大丈夫。必ずお父様が助けに来てくれるわ」
彼女は自信に満ちた声でそう言った。この地の底では一切の希望は捨てるべきだ。そう思ったが口にはしなかった。
「その時はあなたもついでに助けてあげる。あなた良い人そうだものね。声でわかるわ」
その夢物語を少女は本気で信じているようだった。あまりに自信と気品に満ちた様子で言うものだから、私もその話を信じた。初めの夜だけは。
次の日の昼、少女はパーカーの男に連れられあの部屋へと向かっていった。私の牢からちらりと見えたあの表情。初めて少女の表情に怯えが見えた。それでもまだ気品は保っていた。帰って来た彼女の姿は一変していた。少女は男を知らなかった。男女の営みも。それはそうだろう。多分、私も最初の時は同じだった筈だ。その時の事を覚えてはいないけれど。
あの美しい毛並みは滅茶苦茶になっていて、体は痣らだけだった。何よりあの表情。思い出してもゾッとする。あの天使のようだった顔がものの1時間ほどで老婆のようにやつれていた。
「殺してやる!あいつ、絶対に殺してやるわ。パパが助けに来たらあいつら何か・・」
 彼女は最後まで言い終える事が出来ず泣き出した。
彼女は犯されることを嫌がった。嫌がるのは当然だ。誰だってそうだ。私だって最初はそうだった。心を踏みにじられることを喜ぶものなどいないだろう。しかし、嫌がって抵抗するのは不味い。
抵抗するのはただ一度だけだろう。そのうち彼女もこの地獄を受け入れるだろう私は考えたが、何度犯されようとも彼女は徹底的に反抗した。ものの数週間でその姿は見るも無残な姿へと変わっていった。あの美しい少女がみるみるやつれていく様は私の心を責め苛んだ。私は友人に教えた。ここでの生き方を。心の殺し方を。しかし彼女は拒んだ。それはそうだろう。希望を捨てるには彼女は若すぎる。そして美しすぎた。そう私が言うと彼女は憐れむような声でこう言った。
「あなただって美しいわよ。あなたは自分の姿を知らないのでしょうね」
そんな事を言われたのは初めてだった。そもそもこの牢獄では自分の姿を確認する方法すらない。
「私から見ればあなたの方が余程可哀そうよ。希望を持つ事すら出来なくなっているんだもの。自分の美しさも知らずに生きていくなんて不幸よ」
 やはり彼女は自分の状況を分かっていなかったのだと思う。そもそもあの牢獄に希望などないのに、それに最後まで気づかないままだったから。
「私の一族は走る為に生まれたの」
 彼女は夢見るような調子でよくそう言った。実際、私も彼女の流線型の身体が風を切って走る様を見てみたいと思った。しかし牢獄に来て二か月で彼女のあの流れるような美しい身体は醜く歪んで碌に歩く事もおぼつかなくなっていた。それでも彼女は戦い続けた。それは直視に堪えない悲惨な戦いだった。彼女の肉体も精神も次第に壊れていった。
 とうとうその日が来た。彼女がポツリと呟いたのだ。
「もう一度お父様に会いたい」
 口を開けば簒奪者に対する呪詛ばかりだった彼女が、少女らしい弱音を口にしたのはそれが初めてだった。私は彼女が絶望を受け入れる心構えが出来たのではないかと思い、優しくなだめるような口調でこう言った。「お父さんと会いたいなら、抵抗しない事よ。そうすれば最低限の暴力しか振るわれないわ。そして生き延びるのよ。あなたのお父さんが迎えに来るその日まで」そんな心にもない事を言った。彼女には生きていて欲しかったし、その為なら嘘をついて後々彼女に憎まれることだって受け入れるつもりだった。だが、彼女はそんな私の言葉を全く聴いて無かった。うわ言の様に父や母に助けを乞い、次第にその声は大きくなっていった。
「ああ、お父様、お母様。早く助けに来て。私はもう耐えられない!」
「ちょっと、あなた。そんな大声を出したらあいつがくるわ」
 彼女の声が叫び声に近くなってから数分後、ブーツの音が聞こえた。それは真っ直ぐこちらに向かって来た。彼女がはっと顔を上げる。
「お父様!助けに来てくれたのね?」
「違う。違うわ!あれは違うの。あれはあなたのお父さん何かじゃないわ。お願いだから静かにして。そうじゃないと・・」
 私は必死で叫んだがその声は彼女の耳に届かない。少女はもう狂ってしまっていたのだ。部屋の扉が騒々しい音を立てて開き、パーカーの男が入って来る。そして彼女の牢の前で止まった。手にはあの長い竹の棒を持っている。彼女は男に縋るようにして叫び続けた。
「お父様、お願い。ここから出して!」
『この雌犬が。寝られやしねえじゃねえか!』
 激しく肉を打つ音。彼女の悲鳴。悲鳴はやがて絶叫へと変わって行った。
それは地獄だった。彼女の?いいや、そうではない。私のだ。その時、私は思い出した。何故隣人と関わり合いを持たなかったのかを。それは生きる為の知恵だったのだ。希望以上に持ってはいけない感情。それは隣人に対する愛なのだ。この地獄では自分の苦しみだけで精一杯。それなのに誰かを愛してしまったら、その苦しみは2倍になる。或いは、それ以上に。
しかし気づいた頃にはもう遅かった。あの少女が、天使のようなあの子がこれ以上傷つくことに私は我慢できなかった。気づけば私は叫んでいた。
「もう、止めてあげて。充分でしょう?それ以上やったらその娘は死んでしまうわ!」
 パーカーの男は私を見た。その時私は久々に簒奪者の目を見た。真冬の夜空のような寒々しいあの目。とても生き物のする目とは思えない。
 男はパーカーを脱いでそのあばた面を消えかかった蛍光灯の下に晒した。にきびだらけのその顔は憤怒に歪んでいて腐った苺のように醜く光っていた。男は私の牢の前に立つと、仕置き棒をかかげた。そして槍のように狙いをつけて構えるとゲージの隙間から私を突いてきた。何度も何度も。それは今まで経験した事のない鋭利な痛みだった。だがあの娘の悲鳴を聞くよりは遥かにましな苦しみだった。あいつの怒りがこちらに向かっている間あの綺麗な娘が傷つく事が無いのなら幾らでも私を傷つければ良い。永劫の如く繰り返される激しい苦痛の中、私はやがて気を失った。
 

夢を見ていると言うよりは、暗い大きな深淵の中を手探りで歩き回っている感覚に近かった。背筋が寒くなるような虚無の中、私の意識は遠くに見える灯りを目指して必死にもがいていた。だが近づくどころか後退しているようで、どんどん灯りは遠ざかっていく。
足掻けば足掻くほど遠ざかる。まるでペテンだ。何故世界はこれほどまでに残酷なのか。
 

目を覚ました時、私の頭は朦朧として視界は揺れ、果たして今いるのが現実なのか、それともまだ夢を見ているのか私は判断できなかった。どうやらこのユラユラと揺れる世界が本物なのだと意識できたのは痛みのお陰だった。身体のあちこちで激痛が叫び声をあげながら私を攻め立てていた。熱っぽく、震えと吐き気が同時に襲って来た。
そうだ、あの娘は無事かしら。私は身体を起こそうとしたが、動かそうとすると背骨に突き刺すような痛みが走るので直ぐに諦めた。血と反吐で染まった床に体を横たえたまま私は口を開いた。
「ねえ・・」
口の中が粘ついて舌がうまく動かせない。口の中を湿らせてもう一度口を開く。
「ねえ、聴こえている?」
 今度は言葉が出た。しかし、返ってくるのは牢獄の金属に反射する沈黙ばかり。
 もう、涙すらでなかった。悲しみも絶望もない。そうだ、何を考えていたんだろう。何を期待していたんだろう。あの娘が悪いのだ。あの子があまりに美しすぎたから、知らぬ間に私も希望を抱えていた。未来に期待してしまったのだ。あの子の夢物語が私にうつってしまっていた。高貴なあの姿が私に夢見る力を与えてしまった。希望はこの生活にはただの毒でしかないのに。
私は涙を流していたが、不思議と心は清々しさで満たされていた。何も持たなければもう何も失う事などない。今度は忘れないようにしよう。この生活から排除すべき感情に愛が加えられた。心を殺せ。念入りに。私は再び目を閉じた。今度は安らかに眠れそうだった。
その眠りは心地よかった。だが同時に恐ろしい気配に満ちていた。誰もいない雨の日に時折感じるような、安らかで、でも何処までも暗黒に落ちていくような感覚。それは絶望を受け入れた者のみに訪れる自由落下の感覚。
私は落下し続けた。何処までも。何処までも・・・。
突然の衝撃音で、ようやく手に入れた安らかな絶望の世界はあっさり砕け散った。続いて激しい物音が断続して床を叩いて来て、私は再び目を覚ました。
私は酷いパニックに襲われた。何だ?こんな音は聞いた事が無い。あの男のブーツの音とは全く違う。地震の音でもない。何だこれは?全く正体が分からない激しい音。まるで巨大な動物が床をのた打ち回っているような音だ。だが声は聞こえない。鳴き声も。ただ衝撃音だけが続く。5分程して音は止んだ。
そして部屋の金属製の扉がゆっくりと開いた。私は傷だらけの身体を引きずり牢屋の隅で縮こまる。あの男が怒ってあんな音を出しているとしたらまた私を滅多打ちするかもしれない。だが直ぐに違和感に気づく。男がこの部屋に入って来る時は何時も灯りをつける筈だ。そしてドタドタとブーツの音を立てて近づいてくるのだ。しかしその闖入者は暗闇の中、物音を立てずに私の牢へと近づいてきた。その匂いは明らかに未だかつて嗅いだ事のないものだった。殺意のように研ぎ澄まされ、猛々しく、そして何処か安堵するような匂い。
顔を上げると、誰かが牢の出口に直立しているのが見えた。
「女、まだ心はあるか?」
男は細身で無駄のない身体をしていた。左目が潰れていて、残った右目で射貫くように私を見つめてきた。
それは簒奪者ではなかった。では?あの娘の言った通り、あの娘の父が助けに来たと言うのか?しかし、私が言おうとする言葉を遮るようにして男は首を振った。
「勘違いするな。私は助けに来たわけではない。お前に問いに来たのだ」
 問い?
「選べ。戦うか、このまま死ぬか」
 私には男の問いの意味が分からなかった。これは希望なのだろうか?状況がうまく呑み込めない。だが死ぬのだけはごめんだ。それだけはハッキリしている。
「た、戦うわ」
 返事は直ぐに出たがその声は震えていた。自分でもその声音には熱が無いと自覚していたが、男は何も言わず牢の鍵に手をかけた。そして軽い金属音の後、扉が開いた。
「出ろ」
 男はそう言ったが私は驚いてしまった。目の前で起こった事なのに、何が起こったのか全く分からなかった。彼は道具も無しにどうやって鍵を開けたのか。
「どうした?怖気づいたか?」
 私は慌てて立ち上がった。男の気が変わって扉を閉められては叶わない。今までの会話でそうする気が男に無いのは分かっていたが、物理的に可能である以上折角開けられた扉が再び閉じる可能性はゼロではない。立ち上がる時に激痛に襲われたが、耐えられない程ではなかった。
 私が牢の外へ出ると、片目の男は真っ直ぐ開け放たれた部屋の扉へ向かおうとしたので私は慌てた。
「隣に女の子がいるの。彼女も助けてあげて」
 男は歩みを止め、こちらを振り返りもせずに答えた。
「駄目だ。隣の女はもう死んでいる」
 容赦のない冷たい声だった。
「そんな訳ないわ!さっきまで話していたもの」
 そう言って私は隣の牢を見た。だが牢に彼女はいなかった。おかしい。牢に近づき、中にあるそれを確認した時私は戦慄した。
薄暗い牢の隅に転がっているそれ。美しかったかつての姿からは想像できない成れの果てがそこにあった。天使のようだったあの娘は飢えと暴力により骨格と筋肉が歪み、廃工場に打ち捨てられた金属のように折れ曲がっていた。糞尿にまみれた床に転がったそれは最早生命を持たない物質だった。
私は顔を上げ、他の牢を見渡した。片目の男が振り返って私に告げる。
「他の者もみな死んでいる。生きているのはお前だけだ」
 そうだ。私は気づいていた。ここに来てから直ぐの頃は、他の囚人たちの声が、生活音が聞こえたのだ。しかしここ暫くは隣の少女以外に声も音も聞こえてこなかった。私は死の牢獄にいたのだ。奴らの残虐性に今更ながら震えた。
「ついてこい、女」
 男は扉の向こう側へ易々と向かっていったが、私にはそれが難しかった。扉の向こう側にはライトが点いていたが、灯りの下へ足が進まない。
「早くついて来い」
 男はそう言ったが足が重い。灯りに近づけば近づく程歩きにくくなっていく。私は灯りの下へ行けばあのブーツの男が現れて私を叩きのめすのではないか。あるいは他の簒奪者が現れるのではないか。そう言う馬鹿げた妄想で動けなかった。勿論、それは無いだろう。現れるのならとっくに現れている。あれだけの騒ぎがあったのに奴らが来ない理由はただ一つだ。奴らは生きていない。そうは思うのだがどうしても振り払えない。それは長い間囚われ続けていた私の心に知らぬ間につけられた首輪だった。私の心は奴らに逆らえぬように変質していたのだ。
心を殺す?希望を持たない?私はそれを自分で選んだつもりでいたのか。何て滑稽なの。私の心は殺されたんだ。ただなけなしの自尊心を守るために私はそれを能動的に行っていると信じていたのだ。なんて馬鹿げた、そして哀れな信仰。私の心は既に奴らに徹底的に破壊されていたのだ。生きる為の道が目の前に広がっていてもそこを歩めない程に。
「待って。私はここから逃げたいの。本当よ。でも恐怖で身体が動かない・・・」
 私の懇願を聴いて男は冷たく言い放った。
「神は臆病者を嫌う。戦わぬ者は朽ちて死ぬだけだ。それがお前の望みならそうするが良い」
 そう言って扉に向かって歩き出した。私の足は震えるばかりで動かない。このままだと彼にこの場に捨てられるだろう。そしてやがてまた奴らの仲間がやって来る。今度こそ死ぬだろう。あの少女の様に。
 私は震え、泣いていた。それは先程までとは違う理由の涙だった。自分の臆病さが情けなくて悔しかったのだ。彼の言うとおりだ。生きるチャンスすら自分で掴めない私は、心から奴らの奴隷になってしまった私には生きる資格など端から無かったのだ。生きる事も死ぬ事も出来ず私はそこに立ち尽くしていた。
 その時、開け放たれた扉の向こうからよく知る柔らかな匂いがした。瞬間、全身が総毛だった。あの子の匂いだ!
 あらゆる事が吹き飛んだ。ただ一つの感情に突き動かされ、私は走り出していた。会いたい!あの子に会いたい!部屋の扉の直前で足を止めて私が来るのを待っていた彼の横をすっと通り過ぎて行く。彼は驚いた顔で私を見た。
「おい。急にどうした?」
 さっきまでとは逆に彼が私を追う形になった。扉の向こうは倉庫になっていた。食料の入った段ボールや用途不明のプラスチック製の品物が乱雑に積まれたそこは強制繁殖の際に何度も通った場所だ。左手の赤色の扉の向こう側が、私が幾度となく犯された部屋だ。匂いはそれとは逆、右手にある部屋から漂ってくる。その部屋の扉は既に開いていて、そこから人間の足が覗いていた。
 部屋の入口にブーツの男が床に仰向けになって倒れていた。確認するまでもなく死んでいた。かっと見開かれた目は真っ赤な血で濁っている。顎から下は食い千切られていて、喉の辺りまで引き裂かれたような大きな傷があった。
体中の傷からあいつが死ぬ前に散々苦しんだ事がわかった。馬が床の上をのた打ち回っているようなあの音はあの男が殺された時の音だったのだ。死ぬには早い年頃の人間が死ぬ時はあのような激しい音がするものなのだ。その悲惨な死を見ても心に何の感慨も沸かなかった。簒奪者が私から奪ったものは余りに多すぎた。どれだけ奴が苦しんで死のうが帳尻が合う訳もない。
ただ、私の頭にはあの子の事だけがあった。あいつの薄汚い血の匂いで溢れるその部屋には、確かにあの子の匂いがした。一週間前に産んだばかりのあの子。あの子はまだここにいたのだ。私はてっきり奪われた我が子は直ぐ、遠く離れた場所に連れ去れてしまうのだと思っていたが、違った。あの子はまだ近くにいたのだ。
その部屋は休憩室らしく、中央にはテーブルがあった。その上はゴミで散らかっていて、灰皿の上の煙草はまだ微かにニコチンの香りを発していた。
匂いはその部屋の隅の箱からした。巨大な白い箱で、扉が無く開け方が分からない。だがこの中にあの子がいる。
「一体どうした」
 何時の間にか後ろに来ていた片目の男が私に尋ねた。
 私は説明した。私の子供が一週間前に奪われた事。その匂いがここからする事。
「お前の子はこの中にいるのか?」
「そうよ!ここからあの子の匂いがするの」
 それを聴いて男は歯を剥き出しにして恐ろしい表情をした。
「お前に何が起こったかは知っているつもりだったが、想像以上だな」
 吐き捨てるように男は言った。
「あなたなら開けられるでしょう?お願い、あの子を助けてあげて」
 男はあの牢獄の扉すら大して苦もせず開けてしまったのだ。この正体不明の白い箱の開け方だって知っているに違いない。
 男は暫く黙った後、押し殺したような声で言った。
「後半の願いは叶えられないが、前半の願いなら容易い事だ」
 その時の彼の耐え難い事を告げるような悲痛な表情をしていたが、私は彼の発言がどう言う意味かなどとは聞かなかったし考えもしなかった。大きな希望が目の前にある時、その背後のより大きな絶望について考える者は少ない。ただあの子に会って抱きしめたい。その時の私は、それだけを考えていた。
 彼の言う通りその箱を開ける事は容易かった。牢屋の時とは違い、彼が何をどうしたかはハッキリ分かった。そもそもその箱の扉には鍵も無ければ取っ手もない。ただの一枚扉であった。どうして当時の私がその戸を開ける事が出来なかったかは、単にパニックになっていたからと言う理由だけではないだろう。
 箱を開けると中から鋭い冷気が広がった。全身が氷柱に刺されたような冷たい痛みが私を襲ったが、それは冷気のせいではなかった。中は四つに区切られていて、一番上の段にはビールとラップで包まれた食べかけのチーズがあった。二段目には萎びた野菜があり、三段目にはタッパーに詰められた私達用の餌がある。そして一番下には固結びされた3つのビニール袋にあった。白い半透明の袋の為中は良く分からないが、何かが毛布に包まれて入っている。ごつごつした肉の塊のようなもの。そしてその内の一番小さい白いビニール袋からあの子の匂いがした。
 私はその小さい袋を箱から引きずり出すと中のものを傷つけないように破いた。すると、血の匂いのするタオルに包まったあの子が出てきた。必死であの子を舐めて身体を温めようとした。あの子が既に死んでいると言う事実を私は受け入れられなかった。その行為を止める事が出来なかった。何故ならその冷たい身体には僅かに温もりがあったからだ。心臓の鼓動も確かに聞こえた。
今ならそれが徒な希望が生み出した幻の類であることは容易に判断できる。しかし、その時の私には無理だった。例え幻でも縋らずにいられない。溺れる者は藁をも掴む。簒奪者の生み出したこのことわざには恐るべき教訓が込められている。藁を掴んだところで彼の運命は決まっている。だが破滅の最中であればこそ、私達は希望に縋る。希望は回避できないのだ。そしてその先には絶望だけが待っている。
「その者は既に死んでいる」
 冷たいその言葉は慈悲だった。幻から私を開放する剣だった。誰かにそう言ってもらわねば私はずっと息子の死体を温めていただろう。
「ああ、ああ坊や・・・」
 私は顔を上げてさめざめと泣いた。
「どうして、こんな事を・・・?」
 私の嗚咽が収まるのを待ってから、男は鼻を息子の足へ向けた。
「足が折れているだろう」
 見ると確かに息子の前足が不器用に折れ曲がっていた。
「それは生前の傷だ。恐らくあの男が扱いを間違えて足を折ったのだ。そして売り物にならないお前の息子は生きたまま冷蔵庫に入れられたのだ。一晩冷蔵庫にいれば自然と死ぬ。その後で明日のゴミに出すつもりだったのだ」
 冷たく、淡々と語るその声に震えがあったのを私は聞き逃さなかった。その顔は殺気で研ぎ澄まされていて一見他の感情が無いように見えるが、その奥には悲しみと怒りがあった。見知らぬ誰かが息子に起こった理不尽を悲しんでくれている。それだけで、私の心は少し救われた。私の人生はずっと理不尽の連続でそれが当たり前になっていた。それに怒る事すら私は忘れていた。だがこの男のその声が思い起こさせてくれた。
 私のこの状況は当たり前なんかじゃない。この理不尽は黙って受け入れるべきものではない。私は悲しんでいい。怒っていいのだ。いや、怒るべきなのだ。
「あなたは、誰なの?」
 私は今更ながらの質問をぶつけた。
 男はまるで何かを宣言するように言った。
「私の名はゼロ。簒奪者の言葉で始まりを意味する」
「さんだつしゃ・・?」
 私は思わず聞き返した。
「我々からこの国を奪った者どもだ。遠い昔、この国は我々の先祖である神々のものだったのだ。それを奴らが奪ったのだ」
 私は何を言われたのか分からなかった。この端的な説明の中には、その時の私には到底理解できない概念が幾つもあった。私が黙っていると、ゼロは私に付いてくるように合図した。他に選択肢もない私は彼の後をついて行った。
 倉庫の先は通路になっていて、そこは私には未知の世界だった。とは言え、牢獄や倉庫とそれほど変わる所が無い狭くて薄暗い場所だった。通路の途中に灯りのついた扉があった。ガラス張りのその扉の向こうには店があったのだが、中は荒らされていて嵐が通り過ぎた後のようだった。ペットフードの棚は倒れ、辺りに缶詰めなどが散乱している。簒奪者の物だろう、血があちこちに飛び散っている。ちらりとみたレジのカウンターからは人間の腕が片方覗いていて、その手には固定電話の白い受話器が握られていた。
「そっちじゃない」
 ゼロはそう言うとその長い鼻で通路の奥の方を指した。
 そこは更に薄暗く、その先を行くと扉があった。そこは店の裏口のようだった。扉は破壊されていて更にそこを通ると広場のような所に出た。
 私は、はっと息をのんだ。空気が変わったのだ。牢獄の淀んだ空気とは違う。清々しくも力強い匂い。私は息を吸い込んで、吐いた。生まれ変わったような感覚が全身を巡っていく。それは私が簒奪者に奪われたものの一つ、世界の本来の匂いだった。見上げる空は遥か彼方にあり、そこでは星々が瞬いている。
世界の匂いから遅れて雑多な匂いが私の鼻を突いた。よくよく周りを見渡して私は驚いた。大量の犬達が私達を取り込んでいたのだ。これ程の数の犬を私は初めて見た。秋田犬、ブルドッグ、シベリアンハスキー、ビーグル、私と同じゴールデンレトリバーもいた。
 多種多様な犬達は統率が取れていて、まるで軍隊の様に整列し一点を見つめていた。その視線の先にゼロがいた。
「女、再び問う」
 隣にいたゼロはこちらを見て言った。
「我々と戦う気はあるか?それとも座して死ぬか?」
 私には質問の意味が分からなかった。戦う?彼らは何と戦う気なのだろうか。
そもそも、あの牢獄にいた時ならともかく、あの地獄からは抜け出したのだから、このまま逃げると言う選択肢がある。勿論彼らが逃がさないと言うのならまた別だろうが。
「逃げても我々は追わない。だが逃げても無駄だぞ」
ゼロは私の心を見透かしたように言った。
「いずれ奴らに捕まる。そしてお前は殺されるだろう。首輪を持たない者を人間たちは自分達に対する反乱の徒とみなしガス室に送り殺すのだ」
「まさか!」
 私はそう言ったが卵型の暗色のその目は嘘をついていないようだった。だとしたら彼の言う事は正しい。この世界は奴らの物なのだ。逃げ切る事など不可能だ。何処に逃げようと私はいずれ捕まるだろう。途方に暮れた私に彼は言った。
「我らが生き残る方法はただ一つだ」 
 以前、私は彼の言っている事が分からなかった。状況は詰んでいる。世界が彼らの物である以上、何処にいても私達に自由は無い。
「ゼロ、あなたは・・・あなた達は何をする気なの?」
 ゼロの目がジッと私を見据えた。
「お前は疑問に思った事が無いか?何故この世界は苦痛に満ちているのか?何故奴らに我々は服従しなくてはいけない?弄ばれ、殺されるだけの存在でなくてはいけない?我々には何故首輪がついている?」 
「あなた達は何する気なの?」私はもう一度尋ねた。
「我らは奴らを、人間どもを打倒する!」彼がそう叫んだ時、びりびりと空気が震えるのを感じた。まるで世界そのものが震えているかのようだった。
「人間どもを一匹残らず殲滅し、われらの自由を取り戻すのだ」
 馬鹿な!万が一にも勝ち目などあるものか。なんて馬鹿げた、途方もない絵空事だろう。彼の発想はあまりに飛躍していて私は眩暈がした。人間達を倒すなんて。太陽が東から昇るのを止めるようなものだ。
「無理よ。絶対に無理」
 私は首を振った。だが彼の眼には一片の迷いもなかった。
「無理なものか。私は三か月ほど前に啓示を授かったのだ」
「けいじ?誰から何を?」
「神だ」
 それはまたしても私には理解しがたい言葉、概念だった。だが疑問は起こらない。意味は分からないが心の深い所で私はゼロの話す全てを理解していた。
「神は言われた。我らは神々の子供であり、簒奪者に全てを奪われたこの状況は間違っていると。神は言われた。今ある世界の誤りを正す為にすべき事を為せと」
 私は世界が震えているのではなく、自分の身体が震えている事に気づいた。
「神は言われた。戦え、と」
 正気じゃない。私も人間達がどれだけ恐ろしい存在か知っている。奴らがどれだけ強く、ずる賢く、そして残忍か。身をもって知っている。奴らに出来ない事なんて無い。良心や優しさ、愛情など、生物としてあるべき感情は一切持たず、あらゆる悪徳を躊躇いもなく行える悪魔だ。勝てる訳がない。
「我らが簒奪者に奪われた全てを取り戻すために戦えと」
 なのに、何故だ?私の身体は震えている。私の中を流れる血が今、歓喜の声を上げている!
「戦え!」
 ゼロの後に次いで一番先頭にいるダルメシアンが叫んだ。
「そうだ、戦うんだ、人間どもを倒せ!」
 沈黙を守ってゼロの話を聴いていた犬達が次々に叫ぶ。
「俺達の子供をこれ以上人間達に殺させない!」
「私の母を殺した人間達を許さない!」
「俺達は奴隷じゃない、人間たちと戦うんだ!」
 怒り、痛み、屈辱、悔しさ、絶望。それら負の感情がさざ波となって私に押し寄せてきて体の震えは治まるどころか酷くなる。やがてそれは膨大なエネルギーとなって狂ったように吠えだした。
「女、お前の怒りを見せてみろ」皆の叫びが収まるのを待ってゼロは言った。
私は生まれて初めて経験する感情に戸惑っていた。それは熱を帯びていた。希望にも似た清々しさがあった。目も眩むような未来を創造する力。それは第四の基本的欲求だ。もっとも原始的な本能。すなわち闘争の本能だった!生まれたからずっと私の心の奥に閉じ込められていた獣が今、目を覚ましてこう叫んでいた。
戦え!
「ゼロ、戦わせて。あなた達の戦いに参加させてちょうだい」
 ゼロが返事に遠吠えのようなものを上げた。それは初めて聞く発音で、悲しみに耐える時の慟哭に似ていた。
「我らが神の名だ、覚えておけ」
 その後、彼らは店の中の新聞紙などのゴミを道路に並べ、その上に仲間たちの死体をのせた。そこには息子の姿もあった。何をしているのかと尋ねようとゼロを探したが、彼は死体の山を作る作業には参加せず、店内で何かを探しているようだった。作業が終わった頃、ゼロは現れた。口には赤いプラスチック製の道具を持っていた。彼は仲間達の死体の前にその道具を置くと私の質問に答えた。
「仲間たちの魂を弔うのだ」
そう言うと彼はその道具をがりがりと噛んだ。何をしているのか不審に思っていると、突然その小さな道具のようなものから火が飛び出した。私は仰天して思わず声を上げたが彼は平然としていたので恥ずかしくなった。火を怖がるなんて子供のようではないか。
火は息子たちの下に敷かれたゴミに燃え移ると、瞬く間に広がり息子達を焼いた。燃える火に怯えていたのは私だけで、犬達はただ黙って炎を見つめていた。炎に揺れるその瞳には悲しみに似た何かがあった。
ゼロによればこの儀式は、息子達の魂を苦痛から解放し、天へと送る為の物だと言う。その突拍子も無い話は当時の私にとって難しすぎた。今でも正直、その概念を完全に理解しているとはいいがたい。だがそれは息子達にとって必要な事なのだと言う事は分かる。
仲間が次々と神の名を叫んだ。私も彼らに倣って吠えた。その時、息子の魂が燃え上がる炎から立ち上る煙となって天に昇る様がはっきりと見えた。それは不思議な体験だった。視覚的な体験ではないが、私はハッキリと息子を見たのだ。第六感ともいうべき感覚によって、私は息子の魂が救われた事を知った。私は再び神の名を叫んだ。
 燃え上がる炎を前にして、ゼロは私にこう言った。
「私がお前に名前を与えよう」
 真っ赤に染まる彼の横顔、目の下に大きな傷跡が見えた。
「ズィーゲン。それがお前の名だ」
 そう、それは私が生まれて初めて得た名前。
「私の祖国の言葉で、勝利と言う意味だ」
 この時を持って私は真の意味で生まれた。そして、あの狂乱の日々が始まったのだ。

 2019年11月21日 7時のニュース
「昨夜未明、東京都港区のペットショップが何者かに襲撃される事件がありました。
近所の住民から「ペットショップから異様な物音が聞こえた」との110番通報があったのは東京都港区のペットショップ「わんわん物語」です。捜査官が駆け付けた所、多数の犬の遺体がペットショップ裏口で燃えていたとの事です。火はすぐに消し止められました。
ペットショップの中は荒らされており、ペットショップ店長の飯田薫さん37歳と、店員の吉田徹さん24歳が遺体で発見されました。
捜査関係者はFFNの取材に対し、『現場はまるで野犬に荒らされたかのような有様だった』と答えています。
店長の飯田薫さんは自らブリーディングも行っており、店内で強制繁殖などの悪質な行為を行っていた疑いがあります。これらの悪質なブリーダー行為が今回の事件と何らかの関連性があるとみて警察は捜査を進めています」

 2020年 4月27日 21時のニュース
「ワールドメトロック株式会社は26日、都内で頻発しているペットショップ連続殺傷事件が社の遺伝子実験センターから逃げ出した被検体による犯行である事を認めました。
 26日午後4時から、研究チームの主任兼センター局長の山中光成教授が、帝国ホテルで会見を行いました。
 
 やせ細った初老の男が壇上でやつれた顔で記者団の質問に答えている。
『わが社は10年前から政府機関の要請を受け、高度な知能を持つ警察犬を作り出す研究を行っていました。その際、被検体の一匹が我々の管理下から逃げ出してしまったのです。
逃げ出したのは被検体№0。私は彼の事をゼロと呼んでいました。彼は被検体の中で最大の成功例であり、最も知能が発達していました』
『彼は私にとって友人でした。彼も私をそう思ってくれていると信じていました。或いはある時期まではそうだったんでしょう。彼が自分は犬という人間とは違う種であり、自分達がどういう扱いを受けているかを知るまでは。
真実を知った彼はショックを受けたようでした。『何故自分たちはこんな目に合っているんだ?』そう彼に聞かれた時、私は答える事が出来ませんでした。それからは私達が何を話しかけても返事をしてくれなくなりました。
彼が私たちと話さなくなってからきっかり3日後。彼はこう言いました。
『神の声を聴いた』と。
 自分たちは神々の祖先であり、偽の神を心棒する人間に支配されるこの現状は間違っていると』
記者からの質問が飛ぶ。
『高度な知能を持つ動物が信仰を持つというのは矛盾していませんか?』
教授静かに首を振る。
『いいえ。それは誤解です。信仰を持つと言うのは決して原始的な感情ではありません。むしろ逆で、高度な知能を持つ生物、つまり人間だけが持つ高等な精神的活動なのです。事実生命誕生以来、信仰を持つ生物は人間以外にいませんでした。半年前までは』
『彼が脱走したのは翌日でした。研究員一人が死亡。警備員2人が重傷を負いました。管理は厳重でしたが、それも所詮普通の犬を想定したレベルの厳重さでした。高度な知能を持つ犬が何処まで出来るかについて私たちの想定は甘かったのです』
『一体、彼は、彼らは何が目的でしょう?悪質ブリーダーの撲滅?』
 ノー。教授は哄笑を浮かべた。それは会見全体を通じて最も印象的な場面だった。
 何時も優しい微笑みを崩さない教授が、嘲るような笑い声をあげたのだ。
『彼らのターゲットは悪質ブリーダーではありません。そもそも、悪質、とは私達の基準でしかありません。彼らにとって人間そのものが悪なのです。妥協点などありません』
『では、彼らはどうしたいのですか?』
『人間からの完全なる解放です。しかし、私達はそれを許容できないでしょう。野良犬で溢れかえる世の中を想像してください』
 再び記者からの質問。
『教授はこれからどうなると思いますか?』
『日本では1日に平均200匹もの犬が保健所で殺されています。想像してください。私たちの子供達が毎日200人も異種族に殺されている姿を。果たしてそんな種族と和解する道はあるでしょうか?』
 沈黙した記者達を挑むように睨みつけると教授は話を続ける。その眼には怯えの色があった。追い詰められた獣の狂気で彼の表情が歪む。
『お分かりですか。悪質ブリーダーも良質ブリーダーもいません。良識ある人々も動物愛護団体も良い人間も悪い人間もいないのです。彼らにとって人間全てが絶対悪なのです。彼らが望むのは人類の撲滅です。そしてその行為は彼らの立場を考えれば頗る妥当な行為なのです。
 一刻も早く彼らの勢力拡大を止めなくてはなりません。ゼロを殺し、その思想に影響を受けた犬全てを殺さなくてはいけない。私たちが殺さなくてはいけないのは彼らの信仰そのものです。これ以上勢力が拡大すれば恐ろしい事になるでしょう』
 興奮した様子で一気に喋り終えると教授は沈黙した。長い沈黙だった。それに耐えかねたかのように記者が質問する。
「どうなるのでしょうか?」
「失敗すれば・・・いや・・・」
 教授の言葉が途中で途切れる。頬の筋肉が引きつっている。彼は次に言う躊躇していたのだ。
『既に失敗している。恐らくは。東京のみならず、既に関東全域で犬達の脱走や襲撃事件が報告されています』
 少しの沈黙の後、教授はゆっくりと答えた。
『これから戦いが始まります。恐らくは私達が未だかつて経験した事のない戦いが』

 再びスタジオ
「問題となった研究は、人間の脳細胞を犬の脳に注入しより高知能な犬を生み出すと言うものだったそうです。人間の脳細胞の一部、グリス細胞を注入する事で高度な知能を持つマウスを生み出すと言う研究は既にニューヨーク大学が成功させていますが、動物に対してグリス細胞を注入する研究は各国で中止が叫ばれていて、そのような研究が政府主導で行われていた事に対して野党は国会で追及する構えです。
さて、続いてのニュースは・・」

この記者会見は当初、ネットの嘲笑の的だった。ワイドショーが扱うヨタ話の一つであり、誰もが嘗てのノーベル生理学賞受賞者は狂ってしまったのだと考えた。
この記者会見の1週間後、皇居に爆発物を加えた犬が侵入した。宮内庁の玄関前で自爆し、その際、犬を取り押さえようとした警備員二人が死亡した。その日、人類は戦いが既に始まっていたことをようやく理解した。
私の名はズィーゲン。勝利を意味する名前を持つ。我々の革命の始まりを記憶し、語り継ぐものでもある。
                                      了

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