よびだし(スリラー)

「黒崎」
 廊下で男性教師に呼び止められ、女子生徒は振り返った。彼女の長い髪がさらさらと揺れて整った顔にかかりそうになる。
「私ですか」
「そうだ。放課後に校長先生が面談したいそうだ」
 女子生徒は不安そうに眼を瞬かせた。
「推薦の事でしょうか」
「分からん。校長は何も言わなかったな」
「そうですか」
「とにかく、これを渡しておくぞ」
 そう言って渡された通知カードには、はっきりとこう書かれていた。

黒崎祥子―校長室―PM3:30   大久保校長

 読み間違えようのない文章を二度見して彼女は男性教師を見あげる。教師も困った顔をした。
「私も何かの間違いではないかと思うんだが。とにかく、指定された時間に校長室に来てくれ」
「分かりました」
 心底困惑している、と言う顔で頷くと、彼女は教室に戻った。その際、誰にも見られないようカードをポケットにしまった。
 しかし、二人の様子を目撃した何人かの生徒が既に隣の席の友人に話し始めていた。放課後までに学年主席の優等生が校長室に呼ばれたと言う話はクラス中に知れ渡るだろう。そう思うだけで黒崎は顔が赤くなった。
 それと同時にやはり困惑もしていた。

 いったい何の用だろう。

 実の所、彼女自身全く身に覚えがないわけでもなかった。
 しかし、あれは違うはずだ。今まで誰にも疑われてないし、誰かが知る事もない。自分は万事抜かりなくやったのだから。
 そう自分に言い聞かせると、彼女は午後の数学の授業に意識を集中させた。
 
 数学教員の若い女は授業終了のチャイムが鳴っても30秒ほど授業を続けていたが、ふと思い立ったように顔を上げるとわざわざ黒崎の方を向いて言った。
「ああ、そういえば黒崎さんこの後、校長室に用があるのよね。じゃあ、授業はここまでね」
 黒崎は授業が終わると直ぐにノートと筆記用具を机にしまうと、クラスメイトの視線を感じながらそそくさとクラスを出て行った。
校長室に行く途中、事務室に寄って事務員に通知カードを見せた。
表情の見えない女性事務員から、「ではそちらへどうぞ」と言われると、心が少しざわついた。
校長室のドアを叩く寸前、彼女はぶるっと身体を震わせたが直ぐに何時もの優等生の顔を貼り付けた。
「失礼します」

 初めて入った校長室は思ったより広くなく、隣の事務室よりも狭かった。8畳ほどの部屋の中に、歴代の校長の写真やトロフィーなどが並んでいる。
 奥にあるマホガニー製の机に大久保校長は座っていた。
「君が黒崎祥子君だね、どうぞかけなさい」
 思いやりのある優しい声だったが、そこには何処か死刑宣告のように重々しい響きがあった。
黒崎は一礼してソファに腰かけた。
初めて近くで見る大久保校長は思ったより若々しく見えた。彼女の父親よりはずっと年上だが、何年も寝たきりの祖父よりは若かった。髪の毛は豊かな色をしていて、ブラウンの瞳は精力に満ちていた。
「さて、黒崎君」
 校長は大きな用紙に目を通しながら言った。
「君は学年主席らしいね。大変優秀な成績で現在三年生。推薦入試を控えている。そうだね」
 ちらと彼女を見る。彼女は頷いた。
「はい」
「何か興味のある事はあるかな」
「興味、と言いますと」
 校長は温和な微笑みを浮かべて、両手を組んだ。
「例えば将来の事とか」
「将来は医師になりたいと考えています」
「そうかそうか」
 校長は他愛のない話をしてるかのような喋り方をしていたが、黒崎を見つめるその瞳は油断のならない光を放っていた。
「それでは直近で興味のあった事は何かあるかい」
「と、申しますと?」
「そうだね、写真に興味があるかな」
「いえ、特には」
「では、ペンダントには」
「何の事だか・・・」
 彼女はたまらず聞いた。
「あの、校長先生は一体何をお聞きになりたいんですか」
 校長はすくっと立ち上がった。その表情からはもう微笑みが消えていた。
「ここ最近、校内では盗難が相次いでいる。女子のロッカーが主だが、先日購買部でもそれが起きた」
 校長はゆっくりと黒崎に近づき、彼女の前にあるソファに腰を下ろすと足を組んだ。彼女にそれは非常に威圧的な動作に見えた。
「被害者はわが校と昔から取引のある銀嶺パンの女性店員だ。彼女はトイレに行く最中、財布を置きっぱなしで行ってしまったらしい。それ自体を責める人もいるが私は論外だと思う。わが校に盗人が居なければそもそも問題ないのだから。そう思わんかね、黒崎君」
 彼女は無言でうなずいた。
「わが校に盗人がいてはならんのだ。しかし、遺憾なことにその女性の財布は盗まれた。中にはその日の売り上げと、亡くなった彼女のご家族の写真があったそうだ。我々はせめて写真は返すように全校集会で呼びかけたが、今日に至るまで犯人は名乗り上げることはおろか、写真を返すことすらしていない。犯人にとって何の価値もない筈の、しかしその女性にとってはかけがえのない思い出の品である写真を、だ」
 ここで校長は言葉を切った。
「金を盗むと言うのは許されない行為だ。だが、まだ理解はできる」
 校長のその声は怒りで震えていた。
 一方、黒崎は戸惑った顔をして校長を見つめていた。
「私はこの一連の事件の被害者全てに直接話を聞いた。すると、皆財布の他に必ず何か大切なものを盗まれていた。友達とのプリクラ。亡き父の写真が入ったペンダント。その他様々なものを。私が思うに犯人はそれらが被害者にとってかけがえのないものだと知っていて盗んでいるのだ。犯人は金が目当てではない。誰かの思い出を傷つけることを目的に盗みを働いている」
「あの、それは私にどのような関係が・・・」
 恐る恐ると言った様子で声を出した黒崎に対して、校長は胸元のポケットから一枚の写真を差し出して彼女の前に差し出した。
「これは君のロッカーに入っていたものだ」
 それは一枚の写真だった。大学病院前で撮られたもので、医者や看護婦数名が並ぶその中心で頭にネットを被った少女がこちらに遠慮がちなピースサインをしている。その隣には少女を愛おしそうな目で眺めるふくよかな女性が立っていた。
「こ、こんなの知りません!」
 校長は黒崎の抗議を無視して机に戻ると、引き出しから小箱を取り出した。テーブルに戻るとその上でその中身を一つ一つ確認するように彼女の前に並べた。
 写真が入ったペンダント。プリクラ。玩具の指輪。
 黒崎は当惑した顔で校長を見た。
「信じてください。私は何も知りません」
 校長は再びソファに腰を下ろすと悲し気に首を振った。
「実は君の事はかねてから目をつけていたんだ。言い逃れは不可能だ」
「先生、私ほんとに―」
 彼女はそう繰り返そうとしたが、校長の顔を見て口をつぐんだ。
 校長は自分が犯人だと確信しているのではない。
 知っているのだ。
 それに気づいた途端、彼女は戸惑う優等生の仮面を外した。仮面の下から現れたのは、何の表情も見えない氷の女王のような顔だった。
「なるほど、それが本当の君か」
 校長は肩を落とすと長いため息をついた。
「私にはさっぱりわからんのだ。君はその、恵まれ環境にいるし、ご両親も君を溺愛されている。成績も優秀でクラスメイトからも先生からも悪いうわさを聴かない。誰からも愛され信頼されている。私の教員生活でこんな生徒は初めてだ。推薦入試もこのままであったならまず問題なかったろう。なのに―」
 校長は両手を広げると、途方に暮れたような声で彼女に言った。
「何故何もかも台無しにするようなことをしたんだね」
 二人の間に長い沈黙が下りた。
 たっぷり一分は経った後、彼女はこう言った。
「先生は先天的な悪と言うものを信じますか」
「つまり、生まれ持っての悪、と言う事かな」
 彼女はゆっくりと頷いた。
「教育者としては全ての人間がそうであると思っているよ。残念ながら人は天使には生まれついていない。だから、教育が必要なんだ」
 ちらと彼女の顔を見る。彼女は無表情のまま少し首を横に振った。
「そう言う話ではないんです」
「と言うと?」
「そうですね。その説明をするためには少々昔話をしなくてはいけません。聞いていただけますか、先生」
「ああ、最後まで聞くよ」
 彼女は頷くと話し始めた。
「小さい頃から私は優等生でした。親や先生に怒られた記憶はありません。よくできた子だと何時も褒められていました。褒められることが好きだったわけではありません。ただ、そうする事が容易かったんです。何をしたら周りが喜ぶのか。それが私には良くわかったし、そうする方が生きやすかった。意味はお分かりですか?」
 校長は無言で話を促した。
「親の言う事を聞いて、先生の言う事を聞いて、友達のいう事を聞いて周りに合わせる。友達がゲームに夢中になっていればそのゲームを親にねだる。欲しいからではなく、他の皆と同じでいるためにです。流行りのTVドラマや音楽も、みな周りと合わせるためのツールで、何一つとして興味はありませんでした。私は生まれた時からずっと誰にでも好まれる人間を演じていたのです。その事に特に疑問も持たなかった。だって、みんなそうやって生きているものと思っていたから」
 そこで一旦言葉を切ると、彼女は少し黙った。
 ためらいがちに校長が口を挟む。
「それは、普通の考え方だと思うが」
「そうでしょうか」
 校長は内心少し安堵していた。常軌を逸した行動に走った生徒ではあるが、更生の余地はありそうだ。少なくとも、彼女の悩みは思春期にありがちな平凡なものだ。
 その時はそう思えたのだ。
 しかし、直ぐに考えを改めることになった。
「果たしてこれから話す事を聞いても先生はそう思うでしょうか」
 ひたと冷たい視線を生徒に送られ校長は少し背筋が寒くなるのを感じた。
「大丈夫だよ」
 無理してそう答えたがそう言う校長の声は少し上ずっていた。
 彼女は一呼吸おいて話を再開した。
「その日私は妹の世話を両親から頼まれていました。両親は親戚の家に出かける必要があり夜遅くまで帰ってこないと事でした。
『絶対に河原へ遊びに行ったりしないように』
 母からこんな事言われなくても何時もの私ならそんな事はしませんでした。
 でもなんと言うか、その日はあまりに外が暴力的で、魅惑的でした。私は大自然の暴力に魅了され、外へ出ました。妹には絶対家から出ないように言って。
 その日は10年に一度と言われる巨大な台風が日本に接近しており、街は大変なことになっていました。隣の家のブロック塀が破壊され、我が家の庭に崩れ落ちていました。三軒隣の安原さんちの車のボンネットには巨大な木の枝が落ちていました。
 空では巨人みたいな暗い雲が裏山の向こうに立っていて、雲の背後で巨大なエネルギーが瞬いている。正しく暗黒の神秘に私は魅了されて、風に吹き飛ばされそうになりながら近所の河原へ向かいました。
 家から歩いて五分ほどの所にあるその河原は、私が小さい頃からよく遊んでいた場所でした。水の流れは穏やかで水深も深くないので子供の遊び場にはもってこいのその川が、その日は見た事のない恐ろしい顔をしていました。
 凶暴な川の流れを見ているうちに、私はふとある事を思いつきました。手直にあった石を投げたのです。すると、小石は暗黒のエネルギー渦のうず巻く川の流れの中に呑み込まれて行きました。
 それは当たり前の事でしたが、私には魅惑的な光景でした。その後私は石の他に手近にあったゴミや木の枝などを投げ始めました。最後に家を出る時に持ってきた傘を投げました。すると、後ろから声が聴こえました。
『お姉ちゃん、一体何してるの』
 振り向くと妹がいました。
 私についてきてしまったのです。
『何でそんなことしてるの?ママに怒られちゃうよ。早く帰ろうよ』
 涙目で私に言う妹を見てるうちに私の中に強烈な欲求が起こりました。
 妹を川に投げ込んだらどうなるのかと」
「ちょっと待て」
 校長が口を挟む。
「君は何の話をしている」
 それ以上は聞きたくないというように目の前で手をかざしたが、構わず彼女は話し続けた。
「妹の手を引いて私は言いました。
『良いから、ちょっとこっち来て見てみて』
嫌がる妹の手を強引に引っぱって堤防の端まで連れて行きました。そして、川の真ん中を指さして言いました。
『ねえ、あれ見て』
『何?何も見えないよお姉ちゃん』
 私は妹の加奈の背中を落しました。呆気ないものでした。当時6歳だった妹は堤防を転げ落ちると暗黒の渦の中に呑まれて行き、二度と帰ってきませんでした」
 校長は眉を潜めて顔を振った。
「変な冗談を言うのは辞めなさい」
「冗談じゃありませんよ。調べてもらえばわかる話です」
 黒崎はぞっとするほど静かな笑みを浮かべた。
「もっとも、妹は私が目を離したすきに河原まで遊びに行ってしまった、と記録されているでしょうけどね。私の証言を誰も疑いませんでした。私が妹を河原へ突き落したなんてことは今日まで誰も考えもしなかった」
「なんで私にそんな話をした」
 震える声で校長は言う。
「先生が聞いたんですよ。何故あのような事をしたか」
 黒崎はソファ立ち上がりトロフィーが並んでいる戸棚の方へ向かうと、野球部のトロフィーの前に立った。
「私はあの日、喜びを感じたのです。悪を行う事に。後悔も罪の意識も微塵もありませんでした。先生はマルキド・サドを読んだことがありますか?彼は悪とは自然に許された美徳であると言っています。私も同感です。あの台風の日に私は悪と言う美徳に目覚めたのです。そして、それ以来誰にも気づかれぬよう悪と言う美徳に励みました。盗みはその一環です」
 トロフィーの先端部分を撫でながら校長の方を振り返った。その涼し気な眼に冗談の気配はなかった。
「どこまで自分は先天的に悪であるのか。それを知りたいのです。私は」
「君は狂っているよ。正気の沙汰じゃない。直ぐに警察に来てもらう」
「それは無理ですよ」
 人差し指を上げて彼女は微笑む。
「あなたは私が犯人であると言う証拠を持っていますね。さっきまで私に見せた間接的な証拠などではない、決定的な証拠を」
「何の話だ」
「私が女子更衣室で事を行った、その録画映像があるのでしょう。それしか考えられません。ただあなたはそれを証拠として提出できない。何故なら、それは盗撮映像だからだ。だからあなたは私を警察に突き出すことはできない」
 彼女はトロフィーを掴み、校長へじりじりと近づいていく。
 身長は校長の方が高いが、彼は既に気持ちで負けていた。怯えた草食動物のように後ずさるだけだった。
「何する気だ。止めろ、近づくな!」
「あなは先天的には善人なんです。後天的な、歪み育った欲望によって悪をなしてしまっただけです」
 細いバットの形になっていてナイフのように尖っているトロフィーの先を校長に突きつけて彼女は言った。
「本当、つまらない人ですね」
 
 夕方のニュース(16:45)
 先日、立花高校で校長を務める大久保修道さんが女子生徒に殺害されました。
 女子生徒は校長からわいせつな行為を強要されたと証言しています。大久保さんのパソコンからは女子生徒の盗撮映像が発見されています。また、トイレや更衣室には盗撮カメラが設置されているのが確認されており、県警はこれらのものが大久保さんのものであるかどうか、事件の関連性についてなども調査しています。

 それから一か月後、黒崎は第一会議室に呼び出された。
 教頭と学年主任の女性と、警官二人が彼女を出迎えた。
 主任は神妙な面持ちで彼女に告げる。
「黒崎さん、あなたが何故呼ばれたか分かるかしら」
「察しはついています」
「先日校長先生が校長室にもカメラを設置していたのが分かったの」
 やはり。と彼女は思う。
校長を殺したあの時、パソコンにある盗撮映像で自身の犯行を録画したものは全て消したが、その時録画中の映像があるという考えを彼女は失念していた。
我ながら致命的なミスであったと彼女は思ったが、不思議と心は落ち着いていた。
「あなたにはこれから警察に出頭してもらいます」
「ええ、分かりました」
「ところでー」
 学年主任の女性は、黒崎が手にしているバケツに視線を向ける。そこからは強烈な異臭がした。
「それは何?」
「ガソリンです」
「一体何に使うの」
 黒崎は質問には答えずにっこりと笑った。
「先生は先天的な悪と言うものを信じますか」
 彼女はそう言うと胸元からライターを取り出した。
                                                      
                    了

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