見出し画像

自由、縛られたくない本能

私は人と繋がる事に劣等感がありまして。
周囲の人がすぐにそれぞれが簡単に繋がるのに私は繋がれないって事が、どうにもこうにも恥ずかしい。周囲に隠したい。

ただ、外から見たら分からないと思います。
何故なら表面的には一応、繋がれているんですよね。
職場でも私は別に浮いていませんし世間話が出来る同僚もいます。プライベートでご飯も食べにくい。
上司との関係も悪くありません。

ただ、もっと深い繋がりになると私には一気にハードルが高くなる。
お互いの家を行き来するとか、家族ぐるみの付き合いとか、友達の友達は皆友達だ、とかの親密さ。
私にはそれが少し羨ましい。気心が知れた間柄。
ただ、一方で何処かに「窮屈さ」も感じてしまうんですよね。
繋がりは時として「しがらみ」にもなりますから。
繋がった事で自由が奪われるような場面を見たり聞いたりするたびに「嫌だな」思う。
もう、嫌悪に近い感情で自分でコントロール出来ない、だから本能なんだろうなと思ってます。

私は自由でいたいんですね。一定に縛られたくない。
ただ、社会に出て職場などの環境では「自由」に振る舞う事は余りお勧めされません。
会社や職場と言う集団の中では、私は自由ではなく順応しようと意識します。
それは、とても上手くいっていて職場で大きなトラブルに遭う事はないです。
しかし、反面人との関わりがない、例えばTwitterや noteのような環境では「自由でいたい」欲求が強まります。

Twitterにも人間関係は存在するけれど、そこでも現実世界と同様なしがらみを感じたくないから、余り関わらないようにしてます。
別に人嫌いとかじゃないし、人は好きだけど必要以上に密着するのがダメと言うのか、その密着も相手への好感度によって基準が曖昧だし。まぁ適当なんですよ実際。
ただ、かくあるべし!と他者の意見よりも自分の意見が正しい人は苦手ですし、自分の意見が正しいと主張するのはいいんですけど、他人にも「正しい基準」があると言う事に気づけない人との交流はモヤモヤしてしまいます。まぁこれもケースバイケースですけどね。
私にとって時として繋がる事が、かえって自分を縛り付けて自由に考えて書くことが出来なくなるって最近気づきました。本当にあ!そうなんだと言う発見。
私の感じる自由って行動よりも精神面に与える影響へのイメージが強い。
人によっては大勢の人間に承認されて更に書く意欲が増す人もいるんだけど、私は真逆で一人で自由に考えて書くと言う作業が一番意欲を刺激するんだな。

誰にも干渉されずに、自分の思いつく事を自由に書く。
先輩後輩もなく、上司もなく、従うルールもなく。
私の精神を縛り付けるものがいない場所。
結構、私のような方がチラホラいて「一人じゃなかったんだな」とわかった事も嬉しい発見でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?