形容詞「エモい」の隆盛


はじめに  本投稿の動機と方針

 世上、「エモい」なる形容詞が大流行している気配です。(筆者自身は、若者からのLINEでごく稀に見る程度です。)この単語についていろいろ言いたい方は多いことでしょう。言いたいけれども今更言うのがめんどくさいから無視することにした、という向きも多いことでしょう。筆者もまた、つい先日までそうしたひとりでした。
 気分が変わって一言記そうと思ったきっかけは、先日(2024.7.26)の朝日新聞の『耕論』と称する「オピニオン&フォーラム」のページを走り読みしたことです.
 そこには、「メディアアーティスト」の落合陽一さん、「大学院生」の浦野智佳さん、「データジャーナリスト」の荻原和樹さんと言うお三方の意見が掲載されていました。(それぞれの意見のあとに「聞き手」の名前が記されているところを見ると、これはどのような形でか、談話的に語られたものを記事化したもののようです。)以下、敬称略で書かせて頂きます。
 その中で、落合陽一が

清少納言の「枕草子」の「をかし」なんかは「エモい」とはほとんど同じだし、それ以前の「万葉集」にだってエモさはあったわけですよ。ただ、デジタル時代の環境要因の変化で、エモさがより目立つようになったのだと思います。

『ドーパミン求める危うさ』落合陽一

と言っていて、この、をかし、が、エモい、とほとんど同じ、という部分が引っかかりました。こんな全国紙でこんな(当代の代表的知識人と目されているらしい)有名人が語ったら、本当だと思う人がいるじゃないか、と危惧を抱いてしまったわけです。

 たかが「エモい」に、あまりくだくだしく語数を費やしたくないので、なるべく要点だけを簡潔に記したいと思います。(頭脳不明晰で要領悪い筆者のことですからどうなるか分かりませんが。)文献等の引用も回避し、それどころか文献その他に当たること自体も極力避けます。必然的に、無学な筆者の独断が多くなるのはやむを得ません。至らぬ点にお気づきの方は何らかの方法でご指摘頂けると有り難いです。

「をかし」と「あはれ」

 さしあたり、落合陽一説で事実誤認と筆者が考えるのは、枕草子の「をかし」と、目下流行の「エモい」が同義語ないし類義語だとの指摘です。これは、落合よりも筆者に賛同される方がかなり多いに違いない、と確信します。

 「エモい」はどんな意味か。もちろん、この形容詞とほぼ完全に意味の重なると思われる単語が平安時代に無かった訳ではありません。しかし、その語は「をかし」ではなく「あはれ」でしょう。
 今更古語常識の確認になりますが、「をかし」と「あはれ」は平安文学に流れる美意識を理解する上で重要な基本語と認識しております。

 「をかし」は、今の人たちによく通じる表現で言えば「ステキ」、「よき」、「かわいい」、「かっこいい」、「ヤバい」、「イケてる」、「きれい」、「バエる」、「ナイス」、「気が利いてる」、「(こころ)にくい」、「イカしてる」、「いいじゃん」、「おも(し)ろい」、「やる(なぁ)」と言った、審美眼に訴えまたは知的に満足させる、比較的ドライな肯定的感情をもたらす様、とでも言いましょうか。

 対して「あはれ」は、「じーんとくる」、「泣ける」、「泣かせる」、「おお、さすがぁ」、「しみじみ感動させる」、「心動かされる」、「息をのむような」、「言うに言われぬ/なんとも言えない」、「フカい」、それにおそらく「すごい」や「エグい」も入れていいかな、と思われるような、心情や情動に関わり、いわば「心の底」や「魂」に深く染み込んで訴え揺り動かしてくるような一種ウエットに心を刺激してくる様、と言えるのではないでしょうか。
 そして、巷の「エモい」で言われるのは、おそらくこの「あはれ」でしょう。「エモい」の語源がemotionalなら、そこはほぼ揺るがぬところかと思います。
 したがって、落合陽一が挙げたのが、清少納言の枕草子の「をかし」でなく、紫式部の(いや、清少納言でもいいのですが)「あはれ」であったなら、本稿は書かれずに済んだ訳でした。
 何でも「かわいい」で済ませてしまう少女らが、あえて「エモい」を用いるのは、「をかし」とは趣を異にする感動を言う「あはれ」を言いたいのだ、と筆者は推測します。

 少し復習しておきましょう。
 「あはれ」は、もとは「あ、はれ」/「ああ、はれ」という(2語の)感動詞(この品詞名は誤解の惧れがあるから、英文法的に間投詞と呼ぶ方がいいかもしれない)で、要するに「あら、まあ」「おやまあ」、「え?うわあ」、「あら、なんと」、「なんと、まあ」、「え、マジ?」みたいな単語です。思わず口をついて出る、単語というよりは「(叫び)声」なので、もともと大変わかりやすい語です。

 ついでに言えば、古代日本語の「ハ」行の発音は、上唇と下唇が合わさってから息が出る子音が用いられていたので、英語で言えばfとpの間のような音で「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のような音だった訳です。(「母は昔はパパだった」とのジョークがある所以です。)つまり、紫式部の頃の「あはれ」は、発音としては「アファレ」ないし「アパレ」だった訳です。
 そうすると、激しく感動した、荒ぶる武者がこれを勢いよく力を入れて発音すると「アッパレ」となり、「天晴れ」と表記されたりするようになります。
 一方で、この「心を打つ」様を言う単語が、最もそれらしく使われる場面は、何と言っても悲しくなるような場面なので、これが今日の「哀れ」になる訳です。
 石川啄木の「果てしなき議論の後」にある「暗き暗き荒野にも似たる我が頭脳の中に/時として稲妻の迸る如く革命の思想は閃けども/あはれあはれかの爽快なる雷鳴は遂に聞こえ来らず」、この「あはれあはれ」は「ああ」から「哀れ」へと崩れ落ちようとする境界に際どく立っている用法と筆者には見えます。

「あはれ」を謂う単語の不在

 「エモい」に違和感を抱く筆者などは、その語義を聞くと、「なんだ、『あはれ』そのものじゃないか」と思う訳ですが、しかし、この「あはれ」を紫式部が使った意味で、すなわち「しみじみと心を打つ様な」「魂を揺り動かされる様な」の意味では今日誰も使わないし、したがってそんな感動的な様を表すのに使うことができません。そうである以上、この、「心にじいんとくる様」をいうのに、何か使える単語があればついすがりたくなるのは仕方のないところでしょう。
 「感動的」の意味では「あはれ」を使えないのは、現代人に限りません。本居宣長が『源氏物語』の本質的価値は「もののあはれ」を表現した点にある、とした頃、「あはれ」を「しみじみとした情趣」などの意味で使っていた庶民はどのくらいいたのでしょうか?
 森鴎外の『雁』に出てくる会話中の「もののあはれ」は、「哀れさに対する同情」に近づいてしまっているように筆者は読んだ記憶があります。(今読み返せば、あるいは印象は違うかもしれませんが。)

「あはれ」を謂う形容詞

 今日の「エモい」の流行には、この「あはれ」を云う単語を失ってしまっている現代日本語の状況が影響している、と筆者は考えます。
 「そんなことはないだろう。感動的とか、泣ける、とか言葉はいくらでもあるではないか。よりによって『エモい』などというアタマワルソウナ幼稚な単語を使わなくてもいいだろう」と言いたくなる気持ちは筆者もよくわかります。

 が、今日の慌ただしくカルい日本語社会を泳いでいるヤングらの心持ちに敢えてなってみると、「感動的だ/泣ける/泣かせる/じーんとくる/シビれる/」などというのはまどろっこしいし、気分にしっくり来ないし、だいいち彼らの言葉遣いの流れ方に馴染まないのではないかと思われます。

 その根底にある要因は、おそらく「あはれ」が「感動的」の意味を失って行った事情と無関係でないように思われます。すなわち、「あはれ」が「形容詞ではない」ことと、これは関係のある事態ではないでしょうか。

 若者たちは、「ヤバい」と言い「エグい」と言い「エロい」と言い「グロい」と言い「ダサい」と言い「キモい」と言い「ウザい」と言い「ハズい」と言い「チャラい」と言います。最近は使われているかどうか知りませんが、かつては「マブい」などというのもありました。
 これら三音の形容詞を放ちながら、彼らは周囲の事象を取捨選択しているのです。
 ここには、生き方を選ぶことがもはや肯定的気分をもたらすものを選び取ることでしかあり得なくなった彼らの言語生活があると言えるのではないでしょうか。
 彼らには「端的な形容詞」こそが、むしろそれだけが必要なのです。対象を肯定/否定する判定語としての「簡潔な形容詞」が、対象と遭遇した瞬間に、絶えず潜在的に求められています。

 「あはれ」は名詞(または感動詞/形容動詞語幹)ですが、「あはれなり」とすれば、いわゆる形容動詞になります。しかし、この「形容動詞」は、(かつて新村出が『広辞苑』を編むにあたり、これを「名詞+断定の助動詞『なり』」に過ぎないとして、「形容動詞」なる品詞を認めなかった例のように)、形容詞とは決定的に異なるところがあるようです。

 以下は誰からも聞いたことのない説で、他に唱えている人があるかどうか知りませんが、形容詞として用いられる語は、発語者の心情が対象の性質様態と直接交流する印象をもたらすのに対し、形容動詞的に用いられる語は対象の性質様態が発語者に及ぼす影響をやや客観的に把握する印象があるように思われます。(語幹のみであれば形容詞語幹とさほど大きい心理的違いがあるとは思えないのですが、文語であれば活用語尾の「なり/たり」、口語であれば活用語尾の「だ/です」が、判断という心理作用に現れる心理的距離を感じさせるもののように思われます。その点からも、新村出ら、形容動詞不容認派の判断は一理あるというべきでしょう。)

古語の「あはれ」が、その心理性・非感覚依存性ゆえに、換言すれば、この語の発されるまでに要する心理作用の時間ゆえに、瞬間的感覚反応である形容詞として成立できなかったこと、すなわち「あはれ」を形容詞として有てなかったことが、その後の日本語にもたらした影響は少なくなかった、と言えるかもしれません。
 清少納言や紫式部らが大いに尊重していた「あはれ」の価値は、文化的影響を連綿として保ち続けたにも関わらず、その後の日本語社会で活躍することができなかったと言えるかもしれません。(強いて言えば、「義理人情」や「武士の情け」などで呼ばれたものがそれに該当したでしょうか。)「あはれ」ないしその表す意味を、ポジティヴな心理で用いる形容詞として有つことがなかった、その言語生活の怠惰な空隙を「エモい」は衝いているかもしれません。

 若者たちの欲しいのは、対象との接触の直接的な表現である形容詞なのです。しかも「タイパのいい」形容詞です。もしかすると、今、日本語は初めて「あはれ」の形容詞ヴァージョンを有つに至った、と言えるのかも知れません

「エモい」のもどかしさ

 もちろん、そのことは、わたしたちがこの単語を容認または歓迎できることを意味するものではないかもしれません。筆者自身は「エモい」を全く使う気になれません。それには大きく2つないし3つの理由があるでしょう。

「エモい」の音の貧しさ

 第一は、これが1番大きいのでしょうが、「心にじーんと来る」「ハートに響く」ような感じが、この「エモい」の「響き」には感じられないことです。
 これは「エモい」の語源であるemotionalがどのような意味を有する語かと云うこととは無関係です。例えば「チャラい」や「ダサい」が如何にもその意味をよく表すような音を持ち、初めて聞いても意味がするっとわかるような響きは、「エモい」には無いように思われます。
 それどころか「キモい」や「イモい」を知っているわたしたちは、この「エモい」という発音に否定的ニュアンスをすら受け取りかねません。もう少し突っ込めば、「うわあ、エモーい」と云うとき、自分の「エモい」という発音そのものが如何にも魂に染み込むような感じを覚える、とは期待できません

単語の音の重要性

 そんなことは言葉の価値と無関係だ、と云う人があるなら、少し踏み込んでみたいと思います。

 筆者は10代の後半に、自分は英語がわからない、と痛感した時期がありました。その感じの元になっていたのが「英単語の音のわからなさ」でした。当時の筆者は非常に単語の音に敏感になっており、例えば「春・夏・秋・冬」を云う単語が、なぜ「ハル・ナツ・アキ・フユ」と云う音なのかをはっきりと、例えば時間をかければ他の日本語生活者に納得できるような説明が可能だと思うほどに明瞭に、感じ取ることができました。(今ではその感覚は完全に失われています。)そうすると、「アキ」と云う音そのものが秋の大気や地表の状態の反映であることが感じ取れます。
 ところが、夏を表す英単語がなぜ「サマー」のような発音なのかが、実感としてわからないのです。(これは、当時の筆者の英語の発音が実際の英語の発音からかけ離れていた、つまり英語の音韻体系が筆者に身についていなかったことによるところが大だったと思われます。後年、筆者の英語発音が飛躍的に向上してみると、日本語の「ナツ」という音と英語の“summer”の音は結構相通じるものがあって、summerは「わかる」単語になりました。形容詞hotやcoldに至っては、日本語の「アツい」や「寒い/冷たい」以上によくわかるくらいでした。それでも、英単語の大多数は音からは意味がとらえにくい言語でした。無論例外も夥しくはありましたが。)

 もし、わたしたちが言葉だけに頼って他者と切実に何かを共有しようとするとき、自分の感覚心情をそっくり伝えてくれないような言葉は頼むに足りません。わたしたちが他者に向ける言葉は、わたしたちの思いの全てを反映してくれるような言葉であって欲しいのです。

 例えば俳句でも短歌でも詩でもいいです、何か詩歌作品で自分の感情心情や感覚を表現しようと思う時、その作品が十全に意図を達成しえない原因は、しばしばその文章を構成する「音声」が貧弱であったり不適格であったりする場合があることを誰しも経験せずにはいられないと思います。

 今、自らの心を打つものの、心打つ様を言おうとして若者が形容詞を用いる時、その形容詞は単にその音だけで形容詞の意味内容を表現するものであらまほしいのではないでしょうか。
 しかるに、「エモい」と云う形容詞の有つ音自体はまるで「エモ」くないように筆者には感じられるのです。

「エモい」とemotional

いや、それはお前が英語ができないせいだろう、とおっしゃるかもしれません。emotionalという英単語の音は、十分にエモいのだ、と。

 実は、このemotionalという単語は、「あはれ」の成立基盤を暗示するものとして筆者自身一時期非常に羨ましく感じた語です。
 名詞emotionは、語尾のionが機械的でさほど羨望の念を抱くには至りませんでしたが、これがemotionalという形容詞になるとこの単語の音の全体が、それこそ大変「エモい」ものに感じられたのは事実です。
 が、その音声上の魅力に最も大きく貢献しているのは、この子音mに始まる第二音節の母音が二重母音(オウ、のような)であること、そして僅か3音節中に有声子音m、n、lが含まれることが大きいように思われます。
 しかしこれを移入して日本語で「エモい」という時、この「二重母音の魅力」と「子音n、lの魅力」は消されてしまっています。「エモい」にemotionalという形容詞の音声上の魔力の残り香を感取できる人はよほど音韻に敏感な人でしょう。

「エモい」が活躍できる言語状況

 したがって、筆者の目から見れば、「エモい」という形容詞を連発している若者は、①端的で効率良い形容詞を重宝がっており、②しかしその形容詞の「音」が直接形容詞の意味内容を表現していることを求めてはいない、と言えるように見えます。

 これをもう少し踏み込めば、彼らの単語認識は、その音声への依存度が極めて低く、ひたすら「意味」の側面にのみ依存している、という、意外なことになるように思われます。
 これは、一見した印象とは裏腹に、彼らの言語生活が非音声的なものになっているからではないでしょうか。
 彼らは、「草」とか「w」とか書いて「笑」の代用にできるSNS世界に生きています。私たちはもはやこの「草」や「w」を「発音する」ことができません。
 そこにあるのは文脈の中で他から識別可能な形態を有する真の意味での「記号」だと言えます。
 これこそソシュールの「シニフィアンとシニフェの恣意的結合による示差体系」説を雄弁に立証するものかもしれません。そこには、もはや、世界の中でわたしたちの身体が対象を認識した時の「身体反応としての発声」という言語要因はほぼ消えているに近いと言えます。
 かつて、多数に向けて話すときは聞き取りやすく理解しやすいようにゆっくりと、と説かれたものでしたが、今日のYouTube内の語り手たちは凄まじいスピードで捲し立てます。そこでは話し手も聴き手も「意味」の展開を捉えることに必死で、その談話にどのような音声が効果的に作用しているかを吟味する余裕はありません。

誤解された外国語

 「エモい」を歓迎する気になれない理由の第二は、「エモい」とemotionalとの意味のずれでしょう。

 かつて「ナウい」という形容詞を作った若者たちが、英単語の副詞nowを形容詞で使う衝撃の離れ技を見せました。
 この「ナウい」に出会ったとき、なぜこんな単語が出現したか、とわたしたちは頭を悩ませました。
 それはひとえに、わたしたちの日本語力が「ナウい」という単語の必要を感じていなかったからです。「はやりの」「今ふうな」「現代的な」「今日的な」「時代の先端をゆく」等々、純粋日本語の範囲内で幾らでも表現の工夫ができるものでした。
 違和感の余り、平安時代の連中なら「ナウい」をどう言っていたのか、と考え「今様なり」かな、などとまで考え、さすがにこれは現代では使えないが、しかし「今様」を復活させるのも英単語導入に劣らず面白そうだ、と思ったりしたものでした。(そのときわたしたちが気づくべきだったことこそ、「最重要価値を一語で言う形容詞の必要性」だったのでした。彼らには、ナウ、であることが断然大切で、だからこそそれを言う簡潔な形容詞が必要だったのです。事実、形容詞「ナウい」の獲得後には「イマイ」と英語を脱却した形容詞が現れ、やがて鮮度を失った「ナウい」は廃れてゆきます。)

 「エモい」にはそのような「言語脳の出来の悪さ」は感じられません。そもそもemotionalという単語を認識すること自体、「ナウい」とは段違いの(?!)語学力を感じさせます。
 が、周知のようにemotionalに「エモい」の意味はありません。この単語が「頭の悪そうな」印象を与える最大の要因はそこでしょう。彼らの語学力はそこ止まりか、という遺憾の念がよぎります。
 少なくとも、意味の誤解をベースにした残念な単語、との思いを消すことはできません。

まとめ:「エモい」の台頭が示すもの

 「ナウい」に一方では強烈な拒否反応を示したわたしたちが、しかしみるみる「ナウい」を使う魅力に取り込まれてしまったように、「エモい」がわたしたちを吸引する力を持ちうるか否かは、予断を許さぬところかと思います。
 nowのわかりやすさとダイレクト感が、emotionalにはありません。拒否反応も少ない代わりに、飛びつきたい魅力や抗し難い魔力があるほどの言葉とは思えません。

 にも関わらず、この語が流行するのはなぜか。

 「エモい」は平安文化的には「をかし」だとする落合陽一は、TikTokに代表されるようなSNSでの「感情に訴えるエモいものがウケる」「ドーパミンカルチャー」の存在を強調しています。
 一方、浦野智佳は、「アテンションエコノミー」と言われる、受信者の共感を作為的に呼び起こそうとするSNS文化への疲れが背景にある、と分析しています。この浦野説の元になっている「エモい」の理解はここに詳述しませんが、まさに上で述べた「あはれ」そのもののように見えます。

 「エモい」はSNS中心に広がりを見せた単語でしょう。おそらく、「エモい」の台頭の背景にあるのは、SNSに氾濫した「をかし」に対する慣れと興醒めではないだろうか、と筆者は考えます。すなわち、「エモい」の隆盛は、「をかし」の文化の退潮と「あはれ」の文化の興隆を物語るもののように思われてなりません。SNS疲れ、というのも確かにあるかもしれません。それも含めて、若者たちがもっと「深い」感動を求めるようになっており、それはSNSの成熟や爛熟頽廃の予兆ではないだろうか、と考えます。

 本稿に異論や反論がおありの方は、大々的に新たな記事をご投稿いただければ1番ありがたいのですが、怠惰な筆者はせっかくのそのようなご投稿を見逃す可能性が大だと思います。できれば当記事のコメント欄で一言アナウンス頂けるとありがたいです。

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