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なぜ私が防災の世界に?(前編)

私が生を受けたのは昭和43年1月。
北海道上川管内の「お米と観光と写真の町」東川町。家が兼業農家の環境でほぼ勉強をすることをしない大自然を相手に自由に生きていました。
高校進学の話題が聞こえ始めたころ、私は農家の世界しか見えず周辺の農業高校の希望はありました。
勉強をしなかったので当然学力はなく、中学生の実力は学力テストの順位が130人中120位程度でした。それでも高校進学の圧力がなくなりもせず、中3の冬頃から2か月間の家庭教師の指導を受けることになりました。
目指していた公立農業高校の夢は家族に大反対(小作であること、農業をさせたくないという親心も?)されたので、数年前に両親から頂いたクリスマスプレゼント「学研の電子ブロック」の影響で農業の次に興味があった電気関係の学校に絞ることになりました。倍率2を超える難関を偶然にも通過となり、その喜びもつかの間でした。
その私立高校電気科は、卒業までに国家規格を1つ以上取って卒業する!
そんな学校でした。
入学式の翌週から夜7時ころまで補習授業の連続で、当時の電気工事士(現在の第一種電気工事士)合格に向けた学びが始まりました。
当時のクラスメイト(1年A組)が53人。
定期的にある試験で合格点に達しなければ全員で補習授業を受けるある意味「連帯責任」みたいな

空間でした。1学期終わる頃には日付が変わる時間に授業が終わる感じです。
電気工事士の資格は筆記試験と実技試験があり、順に合格しないと交付されない資格です。
その年の受験で53人中3人が不合格という結果でしたが、翌年不合格の方が再受験し見事合格になり、その年の北海道新聞で記事になるほど凄い結果だと気付いたのは、しばらく経った就職の面接の時でした。

高校時代に取得した資格で今でも現場に役立てています
分電盤の漏電調査の様子

高校卒業で就職

そんな環境で高校生活を過ごした私は、電気工事士、高圧電気工事士、2級ボイラー技士、アマチュア無線などの資格を取りました。
当時大学進学の選択が無かったので就職活動しました。半導体関係の企業を希望しましたが担任から「防災」というキーワードを進められ見つけた企業が「社団法人北海道防災指導センター」でした。
筆記試験、役員面接、理事長面接の3つをクリアしたのも奇跡だと今でも思っています。新卒17名のうち高卒は私を含む5人でした。当時既に大卒採用の企業が増えていましたが、私を拾ってくれた感が強く終身雇用(今では死語?)を誓ったものでした。

転機

理事長の指川健氏の想いは「防災に国境はない」と大きな目標があり、当時台湾では警察と消防の組織が一本化だった国情分離すべく、台湾研修生を定期的に来札しながら日本の消防設備の技術研修や消防設備士育成中でした。当時の研修生だった蔡さんは、今でもお付き合いしている親友です。しかし。

平成時代も10年を過ぎようとした頃、社会環境が変わり始めました。
社団法人核の当企業が、民間企業への民業圧迫や随意契約と声が大きくなり新聞沙汰(北海道新聞)になってしまいました。それにより組織を含めた大改革ともいえる事に巻き込まれます。
その時既に私の中では、価格競争によるメンテナンスの質の低下を考えるようになり自ら更新を辞退する決意を理事長に直接伝えました。

まとめ

半生を振り返ってみました。
勉強ができなくても何か「大切なモノ」は見失わない能力は備わっていたような気が今になってより強く思います。なぜなら。

誤放出した設備の検証の様子です。なぜこの子は水を出して(放水)したのか。管理者(人間)は嘘をつくけど設備は素直に教えてくれるのです。
新築建物が完成し消防署立会検査の様子です。ここで合格しないと施主に建物を引き渡すことが出来ません。ここの建物は自動消火設備を担当しました。
メンテナンスの様子です。火災時に100%の機能を有すべく将来の「異常」を見極められるか腕の見せ所です。この配管は消防隊専用であり、異常が有っても音や光で教えてくれるものではありません。
斜降式救助袋の点検の様子です。火災を含む有事の際、階段で避難できない時に使用します。この子も異常時に音や光で知らせることはありません。半年に1度の法定点検や防災訓練時に異常につながるモノを見つけられるか知見が問われます。
次の動画は救助袋の降り方のイメージで私が制作したものです。

今の社会は職人不足、メンテナンス等における技術者の不足(高齢化等により)など様々な問題があるからです。
就職して各事業所様への防災訓練、当時は火災を想定した訓練が主流でした。消火器等の機材を車に積み込みお伺いするのですが、当時から「消火器の使い方くらい知っている!仕事が忙しいからお前らに付き合っている暇はない!!!」なんて激怒されることもしばしばでした。避難行動の立会いでは、「煙が出ていないのに低姿勢で逃げる必要がない!!!」という言葉に、何かを変えないと大変なことになると強く感じた27歳の若気の至りとでも言いましょうか。それが自主退社の理由であり、今までの私を育ててくれた環境との別れになりました。

後半をお楽しみに。

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