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【東京サヴァイバー】プロローグ 日本文化の源流

桜、富士山、そして浅草寺。

日本を訪れようとする外国人がまず目を通すであろうパンフレットやガイドブックの表紙に描かれているのは桜、富士山そして浅草寺だ。

浅草寺。

瓦葺に朱の柱、大きく雷門と書かれた大提灯の両側に据えられた神とも悪魔ともつかない恐ろしげな二体の立像。東京に降り立った訪日外国人がまず最初に触れることになるオリエンタルでエキゾチックな日本、東洋的異国情緒が味わえる日本というのが先ず浅草寺なのだろう。浅草寺は訪日外国人の中でもっとも有名な「日本」なのだ。

日本、東京、そして浅草。

日本を訪れる外国人旅行者の数は年間三千万人を超えたという。

その大半は中国や韓国、台湾、タイといった比較的裕福なアジア諸国からの旅行者だが、それにしても世界中から年間三千万人もの旅行者が、何故日本という極東の果ての先の海に浮かぶちっぽけな島国を訪れようとするのだろうか。

それは彼らが日本文化を直接その目で見て、その手で触れ、そのままの日本を自身で直接味わいたがっているからだ。

しかし、なぜ3000万人もの人々がそれほどまでに日本文化に触れたがるのか?

それは、日本文化が世界の他にない特異な島国文化であるからだ。

ではその特異な島国文化である日本文化とはどんな文化でどこからきたのだろうか?

日本文化というゆっくりと流れ続ける川の源流はどこにあるだろうか。

もちろん、日本文化の大本は言うまでもなく中華大陸、世界四大文明の一つである中国文明からもたらされたものだ。日本の食文化を支える醤油に味噌、日本の生活様式に深く根付き独自の発展を遂げた仏教に茶、そして何より日本文化の根幹の一つを成す日本語。これらは紛れもなく全て中国文明からもたらされたものだ。

世界には無数の島があるが日本は、泳いで渡れるほど大陸に近いイギリスとも、絶海に浮かぶハワイとも違った。

日本は大陸の影響を受けすぎるイギリスとも、海によって他界から隔絶され外部の影響を受けられなかったハワイとも違う、中華と言う豊かな文化を持つ大陸と丁度よい距離を保てた世界的に見て稀有な島国だったのだ。

古代から中世にかけての日本は文化先進地である中華大陸から多くの文化を輸入した。遣隋使や遣唐使と言った中華大陸からの文化輸入政策は政府高官、いわば日本の中心にいた国家的エリートの手にゆだねられた。

絶海に浮かぶハワイのようにどこからも新たな文化を取り入れることが無かったわけではなく、イギリスとヨーロッパの関係のように好むと好まざるに関わらずありとあらゆる大陸文化に浸食されたわけでもなかったのだ。

日本は中華大陸から自らが厳選した文化だけを取り入れることが出来たのだ。

仏教は取り入れたが儒教は除かれた。官僚制度は取り入れたが科挙という民間登用制度は採らなかった。

そうして中華大陸から厳選された上でもたらされた中華文化は、まだ文化的に荒涼としていた古代からの日本を潤した恵みの雨だったのだ。しかし日本はただその雨水を啜り乾きを癒しただけではなかった。

日本に降り注いだ中華文化という恵みの雨は、まだ文化的に荒涼とし文字すら持っていなかった島国を潤しその大地に浸透し、永い時をかけて地の底で磨き抜かれ日本人を潤す清水として日本各地で湧き出したのだ。

その湧き水が集まり漸く川となった日本文化の源流を、大川という。

訪日外国人旅行者が求める日本文化の多くは東京、かつての江戸から始まっている。つまり日本文化とは江戸に端を発すると江戸文化と言える。醤油に味噌、天ぷらに寿司、歌舞伎に相撲そして浮世絵川柳俳句等々・・・。世界中の旅行者がこれらを求めに来る理由、極東の小さな島国家の文化が世界を魅了する理由、それは江戸文化が庶民の文化というところにあるだろう。

日本の食文化の根幹ともいえる醤油。そして日本の国技となった相撲、これらは江戸時代以前からすでに存在していた。

しかしこれらの文化が庶民の物となり庶民の為の庶民文化として定着したのが江戸時代からなのだ。

例えば醤油は確かに江戸時代以前から作られていた。しかし江戸以前の戦国という時代は、城を攻めるならまず街を焼くといったことがごく当たり前に行われていた物騒な時代だったのだ。

そんな世情では製造に時間のかかる発酵食品である醤油を安定して生産ができる場所と生産量は限られたもので、当然それは高価で庶民の口に当たり前に入るようなものではなかった。

そんな物騒極まりない戦国という時代を風雲児織田信長が終わらせ、奸雄豊臣秀吉が世情を安定させ、英傑徳川家康が天下に太平もたらし江戸に徳川幕府が開かれ江戸の人口が爆発的に増えると、醤油の生産量も必要に迫られ爆発的に増加したのだ。具体的には醤油の生産に必要な塩が採れる海に近く、同じく醤油の生産に必要な大豆や米、麦を作り出す穀倉地帯に近く、かつ大消費地である江戸に近い現在の千葉県に多くの醤油醸造所が作られた。現在の日本で誰もが知る醬油メーカーの一つヤマサの創業は正保二年。1645年の千葉は銚子に端を発している。

醤油が庶民の味となるとそれは、蕎麦の麺つゆとなり切りそばが生まれ、みたらし団子、かば焼きを作り、それまでは塩煮の保存食にすぎなかったつくだ煮が今のような醬油を使った深い味わいとなりバリエーションを更に多く増やしたのだ。

つまり醤油そのものは江戸時代以前から存在していたが、おそらく日本史上で、いや世界史上から見ても最も平和で安定した江戸時代を迎えてようやく庶民の食文化の一つに加えられたのだ。

相撲も江戸時代以前から日本各地で楽しまれていたスポーツの一つだ。だが、番付を付け庶民の為の興行的なエンターテイメントとなった大相撲はやはり江戸以降だ。

醤油や味噌は限られた富裕層のための高価な調味料ではなく、天ぷらや寿司は庶民が目にすることもかなわない皇帝の為の料理ではなく、歌舞伎や相撲、そして浮世絵は限られた王侯貴族を楽しませるための娯楽ではない。これらは身分の上下にかかわらず全ての日本人が当たり前のように使い、楽しみ、そして堪能してきた文化なのだ。それは、全ての訪日外国人が何の制限もなく楽しむことができる文化であるということなのだ。

それは江戸文化が、つまり日本文化が庶民が作り出した庶民のための文化であるからだ。

ヨーロッパにおける胡椒やオペラや芸術のように富裕層だけが味わい王侯貴族のみが楽しんだ文化とは違うのだ。フランス料理は宮廷料理に端を発するものが多いが、和食は庶民が作り庶民が味わってきた庶民の為の料理なのだ。

寿司を食べるのに仰々しいマナーを覚える必要などない。箸で食べても良いし箸が使えないのならフォークやスプーンを使って食べてもいいだろう、それを見て眉を顰めるものなど一人もいない。それどころか手で摘まみ取って食べてもいいのだ。それを下品であると言われたり未熟であると眉をひそめられることもない。

相撲も難しいルールを覚える必要などない、倒されたほうが負けだと知っていればいい。歌舞伎も正装し背筋を伸ばして咳の一つも出さぬよう静粛に観劇する必要などない、贔屓の役者が登場したら手を叩き声援を送ってもいいのだ。むしろそれが推奨されると言ってもいい。

江戸文化とは老若男女、貧富も貴賤も関係なく誰もが楽しめる文化であり、普通の庶民が産み出した普通の庶民の為の文化だから世界中の普通の人々が求め、訪れるのだ。

さらに言えば江戸文化は江戸だけで生まれたのではない。

醤油は千葉から江戸へと陸路で運ばれる途中で穀倉地帯である埼玉県南東部に立ち寄りそこで米と醤油が融合し草加せんべいを生み出した。この他にも中世世界における有数の巨大都市である江戸は日本中に様々な文化を生み出したのだ。

醤油は千葉から陸路で運ばれたが、島国でありながら山岳国でもある日本で江戸時代の物流の大半は当然海運だった。日本各地の産品が船で海を渡り東京湾へと入り江戸前へと運ばれ、江戸の中心を貫くように流れていた隅田川を上り、そこから繋がる無数の運河を伝い 江戸全体へと運ばれ様々な文化を生み出した。

つまり隅田川こそが江戸文化の源流なのだ。江戸の庶民はそれをはっきりと認識していたわけではないだろうが、少なくとも肌で感じてはいたのだろう。

彼らは江戸文化の源流となる隅田川、その東側の下町文化と、その西側の山の手文化が合流し融合した浅草こそが江戸文化の中心であると感じそこにかかる吾妻橋より東京湾へと繋がる下流を、大川と呼んだ。

その吾妻橋を渡っていく一台のトラックがあった。


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