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第二十話 ざる蕎麦談義

未亡人?それはマズいな。

赤ん坊と意味を取り違えて未亡人なんて名前のワインを結婚パーティーで出すのは確かにマズい。

サキタンは和さんの店に来る客の中で数少ない女性でとびきりの美女ときている。

だから和さんの店に来る男性客の間では誰も抜け駆けはしないという一種の不文律が出来上がっていたんだ。女は知らないがな。

そんな彼女のハートを射止めたのは誰だってのは気になって仕方がないが、だからこそ未亡人の名を冠するワインをここの男性客全員からのプレゼントにするのは中々に皮肉の効いたいいお遊びだろう。

誰だかは知らないがお前が射止めた女性は皆の憧れなんだ。だから死ぬほど大事にしろ。早く別れてくれるのみんなが待っている。そんなところだろう。

みんながそんな想いでいるのにオレだけ「早く赤ん坊を」なんて思っていたらバカもいいところだ。

両脇の二人はこれ以上ないって程呆れかえった顔をオレに向けている。

オレはもう勘弁してくれと両手を二人に向けた。

「悪かったよ。教えてくれて助かりましたよ!」

「未亡人を赤ん坊って」
岸が追い討ちをかけてくる。

「結婚パーティーでヴーヴを?出すんですか」
田中さんも変な方向から参戦してくる。

「ええ、彼女はこの店のアイドルみたいなもんでね、他の客全員からのブラックジョークをプレゼントってところですかね。考えたのは・・」
和さんはそこまで言って岸を顎で指し示した。

田中さんは少し怪訝そうな表情をしたがすぐにその意図を理解したようだ。

「よほど素晴らしい方なんですね」
軽く笑いながら岸に言った。そして・・

「それを赤ん坊と間違えるのは・・・」マズいんじゃないですか?
とオレを見て言った。

なんだよ田中さん、ずいぶん頭の回転が早いみたいだな。

オレはもう何も言えない。「悪かったからもう勘弁してくれ、勘弁してください」とばかりに両手を二人に向けた。

「まあもういいだろ」
和さんはそう言ってオレにザル蕎麦が盛られた井桁の器をオレに差し出した。

来た!和さんのザル蕎麦だ!よくわからん酒談義はもう止めようぜ、蕎麦がマズくなる。

オレは恭しく両手で受け取り、岸の分もすぐに出てきた。

「田中さんは、蕎麦はいけますか?」
和さんが聞いた。

「ええ、大丈夫です」

大丈夫?大丈夫ってどういうことだよ?食えなくはないって聞こえるぜ。

田中さんも井桁の器を受けとり和さんはさらに三人に蕎麦猪口を出した。

オレは割りばしを手に取り和さんの蕎麦に向かって両手を合わせ頭を下げた。

田中さんはそんなオレを少し変と言うか随分大げさだなヤツと思ったかもしれないが柏手を打ってもいいくらいだぜ、なんせ和さんの蕎麦なんだ。

井桁の器に控えめに盛られた蕎麦に振ってある刻み海苔もやはり控えめだ。これでいいんだよ、これが和さんの蕎麦だ。

蕎麦猪口の中身は所謂江戸出汁、関西人が言う真っ黒なツユだ。薬味は無い。必要ないからだ。

早速箸を割って蕎麦を手繰る。ツユに浸けるのは多くても箸で持った蕎麦の半分までだ。それ以上浸けたらせっかくの和さんの蕎麦が台無しだ。外人客の手前、音を出さないように蕎麦を啜り食べる。

美味い!

マジに美味い!
オレは別に蕎麦が大好物と言うわけじゃない。それでも立ち食いそば屋に行くこともあるし普通の蕎麦屋に入ることもあるし、インスタントのカップ蕎麦を食うこともある。
だがそういった蕎麦と和さん蕎麦は全くの別物だ。

「美味いっス!!」
オレの舌が勝手に言った。

「心配しなくても、もう一枚あるからな」
和さんは少し照れたような微笑みで返した。

田中は隣で蕎麦を堪能する後藤を見てよほど蕎麦が好きなんだなと思った。この控えめに盛られた蕎麦をあっという間に食べ終えてしまいそうな勢いで食べ進めている。

だが蕎麦でもラーメンでもスパゲッティでも大事なのは麺そのものではなくそのソースやスープや、ツユだろう。所詮は蕎麦だ。
せっかくなら薬味に昨日のネギが欲しかった。いや山葵も良い。
しかしそういった薬味の類は無い。そばの上に散らされた海苔だけだ。

しかし田中は昨日の焼き鳥を思い出した。あの極上のタレで焼かれた焼き鳥。
あの皿に残ったタレをこそげ取って口にしたくなる焼き鳥を。

そうか、ツユか。この蕎麦のキモはツユなのか。田中は箸で蕎麦を手繰り蕎麦猪口に入れ、ツユを堪能しようと蕎麦を十分にかき混ぜてから口にした。

うん、美味い。まあまあ美味いな。というのが素直な感想だった。やはり昨日のネギが欲しい。山葵でもいいが。

「いや田中さん、そんなにツユに浸けたら・・・」隣の後藤が咎めるように言ってきたがカウンターの中から松が更に咎めた。

「ナオキ!!」

「いや、でも・・」

「他人の食い方に口を出すな!」
松はカウンターの中から後藤を叱るというほどではないが諫めるような口調で制止した。

これはマズい、今ここで後藤くんの機嫌を損ねるのはマズい。中々気のいい奴みたいだが食事と言う行為には誰しもこだわりがあるものだ。ここで後藤くんが機嫌を損ねて帰ったらやはり監察に連絡を入れようと思うかもしれない、それはマズい。

「いえ、大丈夫です」
田中は目線で松を制止し後藤に向き直った。

「何かマズかったですか?」

後藤は直ぐには答えなかった。松の諫めを気にしているようだ。

「いや、教えてください」
田中は後藤の機嫌を取るべく目を見て言った。

「あんまりうるさいこと言うなよ」と松の許可が下りるとようやく後藤はレクチャーを開始した。
レクチャーと言ってもそれはとても簡単なものだったが。

「そんなに蕎麦をツユの中で泳がせない方が良いですよ。刺身や寿司を食べる時にベッタリと醤油に浸したりしないですよね」

なるほど、分かった。後藤くんの言いたいことは分かった。

江戸の小噺だ。田中もそれくらいは知っている。

江戸っ子は蕎麦を食べる時は蕎麦をツユに半分くらい浸けて食べるというアレだ。蕎麦をツユの中で泳がせるようにたっぷり浸して食べるのは野暮天ってやつだ。よく落語にも組み込まれているこの小噺は明治時代になってからの創作らしいが。

言ってみれば、江戸っ子って人々はこういった人達だったのだろうという後世の創作だ。

そう思われた背景も想像は出来る。

江戸時代と言う物は日本史に於いて、いや世界史を見ても他に例のないほどの長期的に平和な中世世界だった。醤油や味噌、味醂と言った調味料が貴重品ではなくなった時代だ。
平和で豊かな江戸には日本中から様々な産品が集まった。その一つが鰹節だった。

北海道で採れる昆布は日本海を上り下関を通りその多くは関西に卸されたが当時、徳川の御三家である紀州の名産品となっていた鰹節は江戸まで届いた。

昆布や鰹節をそのまま食すのではなく庶民がスープの材料として使えるほどに江戸時代と言うのは豊かな時代だったのだ。
もちろん、出汁を取るという食文化は日本だけの物ではない。フランスではフォンドボーやコンソメがあったし、中華にも上湯や清湯と言ったスープを取る文化はあった。
しかしフォンドボーや上湯はあくまで上流階級や皇帝の為に産み出された食文化だった。

食材そのものをただ食すのではなくそれを出汁の材料とする食文化が庶民の間で花開くほど江戸という都市は平和で豊かだったのだ。
それに、鰹節から取る出汁は動物性にもかかわらず脂肪分を一切含まないという世界でも非常に稀なスープだ。だからこそ繊細な味わいの蕎麦に合ったのだろう。

世界でも稀にみる平和な豊かな都市である江戸は醤油と味醂と出汁を合わせ蕎麦つゆを産みだした。

ついでに言えば、江戸当時の帆船を主とした物流を考えると紀州の鰹節が江戸に来るのはたやすいが、日本海を回ってくる北海道の昆布が江戸まで来るのは難しい。
故に江戸では動物性の強い旨味の鰹出汁に濃い口醤油を合わせた所謂真っ黒なツユが主流になり、関西で上品な昆布出汁に薄口醤油が合わさった透き通ったツユが主流になったのだろう。

ともかく江戸では醤油と味醂と鰹出汁の蕎麦ツユが生まれた。
日本全国で生まれたわけではない、例えば海から遠い信州の山奥では蕎麦が多く生産されていたが醤油も鰹節も高級品で庶民が口にできるようなものではなかっただろう。
これはあくまで豊かで平和で日本の首都であった江戸の話だ。

そんなところに出汁も醤油もろくに知らない山奥から来た人々が江戸の蕎麦ツユを味わったらどうなるだろうか。そのツユの旨さに感動し、蕎麦そのものよりもツユの旨さを堪能しようとたっぷりと浸して食べたことだろう。

この小噺は、江戸っ子にはそれが意地汚く見えたのではないかという後世の想像なのだろう。少しでも多く蕎麦ツユを口にしたがる、山奥からやってきた田舎っぺの野暮天とは違うという江戸っ子の心意気を描いた後世の創作なのだろう。端的に言えば見栄だ。江戸っ子の見栄なのだ。

蕎麦を食べ終えた後に控える蕎麦湯と言う食文化も結局は美味い蕎麦ツユを無駄にしたくないだけなのだ。蕎麦にツユをどれだけ浸けるかなんて味には全く関係が無いのだ。

件の小噺の落ちは蕎麦講釈を垂れた江戸っ子が死の際に言う「ツユをたっぷりつけて蕎麦を食いたかった」だ。

だがここで後藤くんにそんな講釈を垂れるのは何一つメリットが無い。

田中は蕎麦を手繰り、これでいいかと後藤を見ながら蕎麦ツユに半分ほど浸けてから口にした。後藤は嬉しそうにこちらを見て感想を待っているようだった。

うん、これは・・・?田中はたまらずに更に蕎麦を手繰った。今度はさらに蕎麦に浸けるツユを減らした。

「美味いですね!」

田中がそう言うと後藤は自分が作ったわけでもないのに心底嬉しそうに微笑んだ。

岸の様に人を蕩けさすような笑顔ではないが、後藤の笑顔はこちらも一緒に嬉しくなるような笑顔だった。
言い換えれば岸の笑顔を女性を蕩けさせるが後藤は男を引き付ける笑顔とでも言おうか。

後藤は「でしょ?」とばかりに頷くと自分の蕎麦を堪能し始めた。

確かに美味い、だがそれがなんなのかはわからない。蕎麦を食べてこんなに美味いと思ったことは今までになかった。

やはりツユなのだろうか?田中は後藤の目を盗み少しの蕎麦を手繰りもう一度たっぷりとツユに浸けて食べてみた。

違う。やはり浸け過ぎると蕎麦の旨さが半減してしまう気がする。ツユが特別美味いとも思えない。もちろんマズくはないのだが、あの焼き鳥のタレを舐めとりたくなったようにこのツユをそのまま口にしたいかと言えばそうは思わない。となるとやはり蕎麦そのもの旨さなのだろうか?

この松という板前は蕎麦打ちの腕前まで一級品という事なのだろうか?にわかには信じがたい。松に対する期待の大きさから美味いと思い込んでしまうのだろうか?しかしそんなことでここまで美味いと思えるだろうか。

田中は惜しむ様に少しずつ蕎麦を手繰り続けた。
隣の後藤は既に二枚目の蕎麦をカウンターの中の松から受け取っていた。

田中は松に聞いた。

「蕎麦も打たれるんですか?」

松は少し含みのある笑みを浮かべながら脇に置かれていた番重を手にして田中に見せた。そしてそこに乗った最後の蕎麦を鍋に入れた。番重には「㐂八庵」と書かれていた。

㐂八庵?たしか千束通りから少し入ったところにある老夫婦が営む小さな蕎麦屋だ。ハコでもたまに出前を取ることもあった。
なかなかに天ぷらが美味い蕎麦屋だったので頼むのはいつも飯の大盛天丼。それか天ぷら蕎麦か野菜のてんぷらと焼き餅を乗せた力うどんくらいしか頼んだことが無かった。

なんせ夏になると「冷やし中華蕎麦」という誰かに変な入れ知恵をされたとしか思えない不思議なメニューが登場するような店だからだ。

それに浅草と言う日本有数の観光地での警察官と言う業務はそれなりの激務だ。
ざる蕎麦ではいささか物足りない。
田中は㐂八庵でざる蕎麦を頼んだことはなかった。こんなに美味かったのか。
今度、風神の後の〆に立ち寄ってみるか。
いや、あの老夫婦ではそんな遅い時間まで営業していないだろう。

「あの店に行ってもこんな美味い蕎麦は出てきませんよ」田中の心を読んだかのように手にした箸で番重を差しながら後藤が言った。

「ナオキ!失礼だぞ」
松がまた後藤を咎めたが後藤は肩をすくめただけで田中を一瞥してまた自分の蕎麦を手繰りだした。

「もう一枚どうです?」
松が田中に聞いた。

「ぜひとも!」田中は即答してから(しまった!)と思い岸に目を向けてみたが既に岸は蕎麦を手繰り終えグラスを片手にカウンターから離れ外人たちの輪の中にいた。

「あいつは和さんの蕎麦よりピザとかハンバーガーの方が好きなんですよ」
田中の懸念を察したのか後藤が言った。

先ほどと同じ刻み海苔の乗せた二枚目の蕎麦が田中に手渡された。井桁の器に盛られた蕎麦は少なく二枚でもやや物足りないくらいだったが、それは食事としてならだ。居酒屋でなら多いくらいだ。

田中は二枚目の蕎麦を少しずつ手繰り口にしていった。

蕎麦そのものではないのならやはりツユに秘密があるのか。

「なにか特別な出汁か何か使っておられるんですか?」
田中は疑問を素直に聞いた。

松は少し照れたような顔で「いや、普通にスーパーで売っているやつですよ」と答えた。

「これ、桃屋のヤツ入ってますよね?」
後藤が口をはさんできた。

田中はよく分からないと二人の顔を交互に見ると松が説明してくれた。

「市販の桃屋のめんツユと創味のヤツを混ぜてあります」

「めんツユとカレーのルーと焼き肉のタレは二種類混ぜるとバツグンに美味くなるんですよ」
後藤が補足してくれた。

田中はなるほど、とは思ったが意外だった。あのとびきりに美味い焼き鳥のタレを作る松が市販の蕎麦ツユを使っているとは。てっきり上等な鰹節や昆布出汁でも取っているのかと思ったが言われてみると確かにこのツユは確かにそれほどの物ではない。

ではこの蕎麦の美味さは?

蕎麦自体の美味さではなく、ツユでもない。そうなると・・何だろうか?分からない。

ツユの美味さではない。それは分かっている。やはり蕎麦自体が美味いのだろうか。

㐂八庵の老夫婦が普段使いではない特別なそば粉を仕入れたが、店に出せるほどの量ではなく少しばかり松の店におすそ分けしたと言ったところだろうか。

この蕎麦は美味い。美味いがどこか腑に落ちないままに田中は蕎麦を食べ終えてしまった。

それを待っていたかのように後藤がせがむように言った。

「〆を」

〆?田中が訝し気に後藤を見ると後藤は答えた。

「蕎麦の〆っていったら蕎麦湯ですよ。いや、和さんの蕎麦ではって意味ですけど」

蕎麦湯か。それこそまさに江戸っ子ぶりたい、通ぶりたいだけの仕草だろう。文字通りの「粋がりたい」と言う奴だ。

もちろん田中はそんなことは口にしない。

「蕎麦湯ですか?」

後藤は、いいから!とでもいう風に片目をつぶり、松は白濁した液体に満たされたピッチャーを差しだした。後藤が受け取る。

蕎麦湯と言う食文化の始まりは詳しくは知らないが結局は江戸時代の庶民が、出汁の効いたツユを無駄にしたくない、最後の一滴まで堪能したいという思いから始まったものだろう。
21世紀に生きている現代人は残った蕎麦ツユをもったいないと思わないので蕎麦湯を美味いと思うわけもない。

田中は「粋がりたい」だけの後藤にややうんざりしたがそんな気持ちは少しも顔には出さないほどには大人だった。何より昇進試験が待っているのだ。

松は蕎麦を茹でただけの煮汁を満たしたピッチャーを後藤に渡すと二杯の酒猪口と共に一升瓶を差しだしてきた。
田中が受け取ろうとしたが後藤が「これこれ」と言いながら両手で受け取り、酒猪口の一つを田中の前に置いた。

「田中さん、日本酒はいけますか?」後藤が聞いてきたが田中が答える前に松が「いけるよ」と答えた。

後藤が一瞬眉をひそめ松を見たがすぐに田中に向き直り一升瓶を手にし田中にむけた。
一升瓶のラベルは昨日の巻機とは違い「高千代」とあった。

「ささっ」と後藤がどこか嬉しそうに言い田中はそれに答えるように酒猪口を手にし後藤に向けた。

後藤が田中が手にした酒猪口に酒を注ぎ、自分の前に置いた酒猪口にも同じように酒を注いだ。

「こいつ、普段は日本酒なんか飲まないくせに」松がそう言いながら井桁の器を差しだした。

もう蕎麦は要らないんだが・・・と田中は思ったが後藤が受け取った井桁の器には蕎麦は乗っていなかった。
蕎麦の代わりに乗っていたのは様々な薬味だった。

蕎麦を食べた終えた後に薬味を出すのか?何のために?とも思ったが後藤が自分の蕎麦猪口に蕎麦湯を注ぎそこに薬味を加えていった。田中が井桁の器に乗せられた物を見ると縦に長く千切りされたミョウガに小口に切られたネギ、ウズラの卵に胡麻があった。

後藤の視線を受け田中も同じように蕎麦猪口にそれらの薬味を全て入れた。後藤が箸でそれらをかき混ぜピッチャーの蕎麦湯を注ぐと田中もそれに倣った。

「これですよ!」後藤は箸でネギとミョウガを摘まみ食べると蕎麦猪口に口を付け蕎麦湯を啜り、それを流し込む様に酒猪口に手を伸ばし冷酒を口にした。

後藤は目を瞑って「くうーっ!」と音を漏らした。

「これが日本だよなあ、和さんの蕎麦は本当に美味いっすよ!」

「何が日本だ、おまえ蕎麦ぁ食う時だけだろ」カウンターの中から松が答えた。

「いや、蕎麦の時って言うか和さんの蕎麦を食う時だけっスよ」後藤が嬉しそうに答える。

「知るか。ほら、熱いぞ」松は呆れたような照れたような表情で湯気の立つコップを差しだした。後藤がお絞りを手にし包む様に受け取った。それは熱燗のようだった。

後藤がそっと熱燗に満たされたコップをカウンターに置くと田中を見て言った。

「蕎麦湯、やらないんですか?」

正直、蕎麦湯に興味はまるでなかったがここで「蕎麦湯って言うのは江戸時代の・・・」などと言うウンチクを後藤にぶつけるのはまずいだろう。田中は後藤にならって薬味を蕎麦猪口に入れ蕎麦湯を注いだ。

「ウズラの卵は少しかき混ぜた方が良いですよ」後藤が言い田中はそれに従う。

まあ、不味くは無いだろうが・・そう思いながら田中は蕎麦猪口に箸を差入れまずはネギを口にする。

うん、美味い。
昨日のネギだ。
一昨日まで好きではなかったネギだ。
焼き鳥タレをまとい焦げ目のついたネギとはまた違い蕎麦ツユとウズラの卵が混ざった美味さがあった。
昨日のネギは太く切り取ったネギでこのネギは細かく小口切りにしたネギだったがこれもまた美味い。

次にミョウガも摘まむ。ミョウガはネギと違い縦に細長く切ってあった。これも美味かった。舌を覆うようなえぐみや辛味が少なく無くそれでいてミョウガ特有の風味が残っている、生のミョウガではなく軽く湯掻いたものを千切りにしてあるのだ。

田中は蕎麦猪口に口を付けツユを啜ってみた。これは!?

直ぐに酒猪口に手を伸ばした。昨日、味わった巻機と同じ辛口の日本酒だったがこちらの方がどこか優しい感じがする。後藤の真似をするわけではないが思わず「くうーっ」と呻きが漏れた。いかに今ここが真冬の外気に晒されているカウンターだとしても温かい蕎麦湯に合わせるのなら冷酒だ。

美味いっ!

胡麻を摺ったり切ったりせず粒のままというのが良いのだ。
胡麻の粒を噛んで初めて胡麻の香りが広がる。これが摺り胡麻だったり切り胡麻だったら蕎麦湯が胡麻味になってしまっているところだ。
繊細で万全だ。

蕎麦湯がこれほど美味いものだとは思わなかった。いや、分かっている。これほど蕎麦湯に感動できるのはこの松の店だけなのだろう。だがそれはなぜだ?蕎麦自体ではないし、ツユでもないとなると・・・?

そうか、水だ!
それは㐂八庵で蕎麦を打つために使う水ではない、蕎麦を茹でるための水だろう。

「茹で水ですか?」
田中が聞くと松は驚いて田中を見返した。

「この店でそれに気が付いたのは二人目ですよ」
松はそう言って店の前の道路にたむろう客たちに視線を向けた。

外人さんが?田中は驚いて松の視線の先を見ようとしたが後藤に阻止された。

オレですよ!嬉しそうな後藤の顔がそう言っていた。田中は「わかったよ」とばかりに微笑み返し蕎麦湯を堪能しに戻った。

ネギとミョウガを堪能し終えたがまだ蕎麦湯は残っている。田中はちびちびと堪能しながら冷酒を味わうのかと思ったが後藤は蕎麦猪口にコップを満たしていた熱燗を注ぎ、それを口にした。

後藤はそれを全身で堪能するかのように「これ!」と声を絞りだした。

後藤は「どうですか?」と言った顔を向けてきたが田中が松を見ると小さく首を振っていた。

試してみよう。
田中は後藤から熱燗を受け取り蕎麦猪口に注ぎ口にしてみた。

うん、これは違うな。
それが率直な感想だった。

「これはちょっと・・・」と田中が言うと後藤は意外だとでも言うように「え?ダメですか?」と残念そうな顔を向けてきた。

出汁割という酒の楽しみ方があるのは知っている。だがこれは違う気がする。

「出汁割とも違うし、ちょっと違う気がしますよ」田中は思ったままを後藤に伝えた。後藤は少しニヤ付いて言った。

「田中さん、ここはオレに合わせて美味いって言っておいた方が良いんじゃないですか?」

後藤が言うのは「弱みってもんがあるでしょ?ほら昇進試験のね」とでも言うところだろうか。

「いや、媚びとお願いは違いますよ」田中は笑ってかすかに首を振って答えると後藤は残念そうに腕を組んだ。そこに松が助け舟を出してくれた。

「蕎麦ツユに熱燗を入れるなんてお前だけだぞ、ナオキ」

「ええ?ダメですか?おでんのツユで酒を飲むってあるじゃないですか」後藤は反論するが松が説き伏せる。

「出汁割ってやつだな?あれはな関西風の昆布出汁と薄口醤油だからだ。鰹出汁と濃い口醤油の江戸の蕎麦ツユには合わんと思うぞ。いや、うん俺はな」

「美味いと思うけどなあ」後藤が独り言ちる。

「田中さんもダメですか?」

「いや、さすがにウズラとネギの入った日本酒はどうかと思いますよ」

「そっかあ・・」
後藤は残念そうに蕎麦猪口を啜った。
後藤には田中の弱みを握っているなどと言う気持ちは全くないのだ、そんなことはわかっている。

「だいたいお前、普段日本酒なんか飲まないだろうが。それなのにこんな時だけそういうことをするのは通ぶりたいだけにしか見えないぞ」

松の言葉は少し辛らつだった。

んん?ちょっときついんじゃないか?後藤くんの機嫌が・・と田中が少し心配になったが後藤の様子は全く違った。

「和さんの蕎麦は美味いからさ。なんか最後まで美味い楽しみ方があるかなあって思ったんだけどなぁ」
後藤は少し寂し気な顔になった。

「まあ蕎麦湯まででいいじゃないですか、蕎麦湯を美味いと思ったのは初めてですよ」

田中がそう言うと後藤は一転嬉しそうな笑顔になった。

「ですよね!東京でこんなうまい蕎麦を出すのは和さんだけですよ」

何と言うか、気持ちのいい男じゃないか。思わずつられて田中も笑顔になってしまった。

しかし不思議だ。茹で水を変えるだけでこんなにもそばが美味くなるものだろうか?もう一度蕎麦湯を味わい直してみたいが蕎麦猪口にはすでに熱燗が入っている。
田中が少し重く息を吐くとそれと察した松がもう一杯の蕎麦猪口を差しだしてきた。
田中は熱燗の入った蕎麦猪口を松に渡しまっさらな蕎麦ツユが入った蕎麦猪口を受け取った。

そこに蕎麦湯を注ぎ再び口にしてみた。
やはり美味い。
これは意外なほど良い酒のアテだ。
冷酒もすすむ。

「水でこんなに変わるものですか」田中は素直に松に対し疑問をぶつけてみた。

松はどう言ったらいいかとばかりに腕を組んでウーンと唸い言った。

「東京のどんな名店の蕎麦より、長野や群馬の山奥のどうでもいい蕎麦屋の方が美味いですよ。そう言ったところで飲む水もまた美味いもんです」

「それは、でも場所によるでしょう?」

「もちろん。でも米だって関東の米より東北の山の下で作られる米の方が美味いでしょう?それは雪解け水とそれが染みる山の土、その湧き水と言ったところですかね」

「という事はその水は東北の?」わざわざ蕎麦を茹でるためだけに?

それに松が答える前に後藤が口をはさんできた。

「和さん、三国峠の山の中に井戸小屋を持っているんですよ」

田中は驚いて後藤を見てから松に向き直った。

「蕎麦の為だけにですか?」

「いや、飯を炊くときにも使いますけどね。でも東京で食う蕎麦より長野や群馬の山奥の蕎麦屋で食う蕎麦はこの蕎麦より数倍美味いですよ」

うーん、分かるような分からないような・・・。

「田中さん、飯は自分で炊きます?オレも和さんに教えてもらって米を炊く時にちょっといい水使っているんですけどね、まあ正直違いは分からなかったですよ。でも、それに慣れた後にね、わざわざ飯炊き水に金払ってアホらしいって水道水で炊いてみたらなんか違うんですよ。これは岸でさえ気が付ついてちょっと不満そうな顔をしましたからね」

松はもちろん、後藤も田中に対して結婚しているのかとは聞かない。そんなことはこの手の商売をしていれば左手を見ればそうと分かるだろう。
だからこそ後藤は田中に対し「自分で飯を炊くか?」と聞いたのだ。
だが田中は自然な疑問を顔に出してしまい、岸に目を向けた。

後藤は舌打ちし、カウンターの中で松が「ははっ」と笑った。

「あのね、田中さん。あいつはピザとデリバリーのチラシが好きなの。いつも飯を作っているのはオレなの。なんで・・・」

後藤が不満そうに外人たちの輪に入って酒を飲んでいる岸に目を向けると松が入ってきた。

「そりゃあな、お前の方こそコンビニ弁当ばっかり食ってそうだからな。お前が飯炊いて味噌汁まで作ってるなんて思えないんだよ」

「オレはコンビニ弁当は…」そう言いかけたところで松が一応フォローするかのように続ける。

「そうそう、こいつコンビニの弁当を食うと腹の調子が悪くなるって言うんですよ。この間なんか天ぷらの綺麗な揚げ方なんて聞いてきたんですよ。俺はてっきり、肉と野菜を炒めてご飯とドーンって食ってるもんかと思いってたんですがね。あいつが言うには皿を五つも六つも並べる飯を作っているらしいんですよ。まあ面と向かってお前の飯は美味いなんて言ってないみたいですけど」松はそう言って道路で外人たちの輪の中で酒を楽しんでいる岸に目を向けた。

そうだよ、オレはちゃんと飯を作って食ってるんだ。でも、美味しいなんて言ってほしくもない。オレはあいつの嫁さんじゃねえんだからな。

「ええ?お二人はご一緒に住まわれていらっしゃるんですか?」田中は少し驚いたように後藤を見た。

おいおいおい、待て待て、待ってくれ!「住まわれていらっしゃる」って何だよその言い方。
ちょっと待ってくれ、田中さん?少し引いてないか?違うぞ?オレたちはそんな関係じゃないぞ!椅子の位置は変わっていないが、どうにも田中さんが3メートルくらい離れた気がするぜ。

「いや、田中さん。違うって!違いますよ?オレ達はそういうんじゃないですから!ただ二人で酒屋をやっているだけの関係ですよ!」

「いや、まあ今時は、その・・・」

今時はって何だよ!

「ホント待ってくださいよ田中さん、違いますって!酒屋の倉庫の二階が開いていたからあいつが転がり込んできただけですよ!」

「あ、ああ、そうなんですか」
田中の表情はどことなくホッとした感じが見えた。

「そうですよ!勘弁してください田中さん!」
後藤も少しホッとした。

「それに毎日毎日オレが飯を作っているってわけじゃないんですよ、そりゃあそうでしょ?オレはあいつの嫁さんってわけじゃないんですから。だからたまにはお前がって空気になる時もありますよ、でもあいつが包丁を持つことなんかないですよ。そんな時にあいつが手にするのはピザ屋のチラシですからね」

「な、なるほど」後藤の圧に押される様に田中が道路の岸に目を向けると偶然目が合った。

岸が控えめな会釈をしたので田中も軽く頭を下げた。

良いコンビってところか。
なんとも気持ちのいい二人だ。
田中は二人が好きになっていた。


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