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「おじさん」になるということは、「楽しめない」を静かに自覚すること。とやかく声を上げるとそれは「老害」となる。

もう44歳となりました。身体的な不具合は、まあ顕著には無いです。
でも、確実に老いは来ている。体力はどんどんと下降線を描いていくのだ。それは紛れもない真理。衰えや、身体的心理的可動域の狭小化は待ったなし。そこと、どう向き合うかはこれ、急務である。

例えば、今時の音楽についていけない。新しい楽曲が、同じに聴こえる。いや、そもそも新しい曲が耳に入っても頭に残らない。心がそんなに踊らない。

30代の頃は、そんな気持ちは分からなかった。でも、44歳の今なら、分かる。体と頭がポンコツになっていく、ということは、「自分の中に、新しいモノや事を入れる余地が無くなってくる」事と同意なのだ。多分。

それが「おじさん」になる、というものなのではないか。

そんな現象に対して、「ほら、全然俺は楽しめてないぞ!おい!もっと俺を楽しませろ!」とか、「昔は良かった、いまはクソだ」とか、こんなクソリプを飛ばすと、周りから距離や軋轢が生じて、状況はどんどんと悪化していく。

よりも、そんな自己のコンディションと、そんな時流に身を置くことを認め、そこでいかにトントンに過ごすかを楽しんで取り組むほうが、いいと思っている。それに取り組むことが、「おじさん」なのではないかと思うのだ。ポイントは、「トントンに楽しむ」こと。

東京ポッド許可局で先日放送された「無意味に台所の窓から外を眺めるおじさん」ってのは、そういう意味では「真っ当におじさん」なのだと、思う。「口笛おじさん」も、正道のおじさん街道をゆく、そんな姿勢だと取れる。「勝利も敗北もないまま、孤独なレースは続いてゆく」とミスチルが歌っていたが、あれは、紛れもない「おじさんとして世の中を生きる事」をズバリ物語っている。(そう思うと、「Mr.Children」ってバンド名も、深みを帯びて感慨深い。)

おじさんというのは、「自分が、確実に死(おわり)に向かっている」という事実に内面では気付き、その事実に内心慌てふためきつつ、周りは自分をそんな風に扱わないので、「バレてはいやしないか?!」と、周りをやけに意識して見回している、そんな時期の人間模様のことだとも、取れる。

諦めるでなく、でも偽ってまで抗うのでなく、時々のコンディションと環境を、それなりにトントンに楽しもう。

それが、「私」がおじさんになるということ。

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