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気を抜いた瞬間の自分が、本当の自分

ホームセンターなんかで買い物してて、何かの角を曲がった瞬間に変なおっさんが目の前に現れて「ギョッと」したのも束の間、それが鏡に映る自分の姿だったとき、とても居た堪れない気持ちになる。ここ2年ほどはそんな瞬間が増えたような気がする。

朝支度する時に鏡に映るのは、「自分自身の視線を意識した」よそ行きの自分だったりする。なので、驚かないし、まあ、無感動な訳だ。0点の自分。

対して、予期せぬ自分の姿は、今時点でマイナス120点!!生きて行くのが辛くなる。
(他人が撮った、スマホの自分の姿も同様。もう、息してるのがすみません!という気持ちになる。)

年齢を重ねるということは、それほど残酷なわけだ。(まあ、どのように歳を重ねたか、の問題ではある)つまり、「こうありたい自分」という具体的理想は無いまでも、「こうではなかったはずの自分が、こうだった」というのは、辛い。。ある意味自己同一性のバグ。

他人と自分を比較しない、という生き方を選んでしばらく経つ。だから肉体作りとかは無頓着だったんです。でも、結婚前までジョギングやトレーニングが習慣ついていた。その理由は、「お酒をたくさん飲む」のに、その罪滅ぼしというか、健康維持こそが裏テーマにあったので、楽しんで、それをやれた訳で。

しかし、ここ4年は結婚して子供が2人出来て、転職もしてバタバタと日々をこなすのがやっとで、時間的精神的余裕は無かったですね。お酒の量は激減しましたが、同時に、その裏テーマたる「トレーニング」というのも項目ごとぱったりと消えてしまった。。

そしてなんやかんやで2年間。。ホームセンターでの落胆や絶望を経て、トレーニングの必要性を感じる。「やはり見た目は生き方に反映するなぁ」と、我が事として襟を正す瞬間としてはいい機会。

ということで、家族の理解を得ながら、小さなことからコツコツと、身体作りに励みたいと思います。という宣言めいた記事でした。

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