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床屋の政談、横丁の政談、タクシーの政談(2)

以前書いた「政治と私のかかわり」について、何だか政治的なことをタブー視してしまっている私(43歳)の、幼少の頃からの地域と政治の関わり遡って思い出してみた。
(地域の政治的な下地)富山県東部の山あいですくすく育った私は、昭和54年生まれ。恐らく自民党が強い地域だったと思う。綿貫さんの選挙ポスターが家にあったのは記憶してる。
すみひろしという、多分自民の候補者のポスターのコピー「スミ良い環境、ヒロめてみんな、シあわせに」というのが何だか気に入り、2つ上の姉とそのコピーを言い合って笑ってたっけか。
当時は小学校の運動会や地域の集まりに何故か町会議員さんが参加してスピーチなど行っていたなあと、ドキュメンタリー映画「選挙」を見て思い出した。友人のおじいさんが町会議員で、その立派なお屋敷が印象的だった。

露骨な「反共」というスローガンは表立ってはなかったと思うが、中学の時の美術の先生が、奥様が共産党の町会議員との理由で何かと生徒に馬鹿にされていた。生徒に対して理解があるいい先生だったが、恐らくそういう子供の親世代のそれとない言動が子供に「馬鹿にしていい」という認識にしてしまうという、「アメリカンヒストリーX」のような図式だったのかも。

(投票行動について)小学校中学校と、「学級委員」や「生徒会」の選挙が存在したが、小学校の学級委員はクラスの人気者が、中学校の生徒会は高校受験のことを考えて身の振りをコントロール出来るようなしたたかな生徒が立候補し、当選していたような記憶がある。ので、あまり「政治参加」という意識もなく、自分にとっては投票用紙も朝のプリントの記名欄程度の意味しかなさなかった。

高校の生徒会ともなると、何だか規模が大きい。しかしながら「われわれの学校生活の未来を問う」という意味合いよりは、単純に「好感が持てるか、何だか生意気か」で決めていたと思う。もっというと、「生徒会長」ともなれば大学進学の推薦入試にも大きな影響力もあるとかないとかで、その「裏のあざとさ」が臭う生徒は好感が持てないとかの、単純で冷酷な判断基準だった。

落選した生徒はいじめられる事はないが「冷笑」の対象となり、残りの学校生活を過ごすこととなる。そのような「目立った」スタンドプレーをして落選して、その後の学校生活をニヤニヤ眺められて過ごすくらいなら、勉強して身分相応の進路に進む、というのが大多数の生徒の生徒会に対する考えではなかったか、と今にしては思う。

(時代背景)まあ、昭和60年代当時は日本もまあまあイケイケで「未来の日本が不安」みたいな感じではなかったかもなぁ。

当時の我々の親世代も私が知る限り、選挙が投票がどうとか言わなかったし、「この生活はこのままいつまでも続くものだ」という事が半ば当たり前のような空気だった。

そして月日が経ち令和4年現在、私の生まれた集落は苛烈な人口減少に苦しみ喘ぐ。私の卒業した小中学は廃校。小学校跡地は皮肉にも老人福祉施設に。当時最寄のJR駅にあったNECの工場には多くの近所の方が勤めていたが、いつしか工場は閉鎖。ある知人の父親は50代で失業ののちアルコールに依存し、自死。(そうそう、リタイヤした団塊の世代がアルコールに溺れ健康被害を引き起こす傾向は、表立っていないが問題視されつつある。話はそれた)あの頃の明るい時代の雰囲気は影を潜め、暗く息苦しいムードが地域全体を包む。

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