妄想隆景裏話

https://youtu.be/fgtWDf3d-Ro

大内義隆を助けることで元就パパに「何か陶晴賢が謀略乗ってくる感じだったけど家中が、まだまとまっているみたいだし、やめとくか」という流れにしたかった隆景。
もともと人と人との交流については一家言あるというか、「親しき中にも礼儀あり、礼儀あれば乱れなし」の精神でやってきた隆景は大内家の皆さんとの交流を図り、江良家の娘さんを嫁にもらったりと大忙し。
隆景が小早川(分家)に養子に行ったのも、銀山城攻めで戦死した小早川興影の嫁が、元就パパのお兄ちゃんの興元の娘だったからで、婚姻政策はとっても重いです。
大内家の重臣の江良家の娘と結婚するというのは「もうここに骨をうずめます宣言」だったりします。
ちなみに小早川家の分家、竹原小早川家への隆景の養子斡旋を強く推進したのは大内義隆で、全部元就パパの謀略だったというのは違ったりします。
大内氏が反対したら話はきっと立ち消えていたでしょう。
ともあれ、このまま内政を頑張って国力を上げてと思っていると大内義隆から「岩屋城攻めてよ」とのご命令が・・・
岩屋城って、まさかあの東の本田忠勝、西の立花宗茂と言われた立花宗茂の実父の高橋招運が700人で九州最強軍団島津勢二万を食い止めたという場所では?
隆景はぐっとつまったものの、そこまで勢力が拡大していたら元就パパも手を出してこないと計算して、がんばることにしました。
しかし、やはりというかなんというか。
城にたどり着いたころにはひどい被害が・・・
もともと大軍で押して行って危ない戦はせずに冷静に戦うのが信条の隆景にとって、切り取り勝手的な命令はとても難しいのです。
知略縦横とか謀略においては元就パパ似と言われがちな隆景ですが、元就パパは「三人の中では隆景が一番わしに似とるなぁ」と言っただけなので、実は「わしも若いころは隆景みたいに美少年だったんじゃ」とか言いたかったというのが真相だったのかもしれません。
ともあれやることはやるのが隆景でもあります。
結果は悪かったですが、本当に初めての城主生活だったので弁明の余地はあるでしょう。
秋月城に武将が少なかったとか、初めての城主で緊張したとか。
謀略調略を使う時間がなかったとか。
城攻めは付け城を作らないとどうしようもないとか。

もともと隆景は猛将かつ勇猛果敢で戦超上手でたぶん戦国最強。
信玄に「お前んとこ海があって金山もあって、大金持ちで領地なくてもやっていけるのに何で善光寺ディズニーランドにまで手を出してくるんだよ!!」と言われながらも「義のため義のため、お前が追い出した守護たちが助けてくれって来るから仕方ないじゃん。俺、関東管領いわば関東地方の室町将軍代行だから聞かないわけにはいかないのよ」とホントに領地取らない戦を続け、「関東管領になるから偽北条氏(北条早雲は伊勢氏)は出ていけ」とばかりに関東の地を踏み荒らし、目の前で関東管領の就任式を上げた謙信に心酔する小お兄ちゃん元春に比べると小ぶりで、ふつうの戦しかできないし、大お兄ちゃんの隆元みたいに人徳みたいな魅力もないし(なんか大お兄ちゃんを見てると蜀漢を立てた劉玄徳を見る思いがする)、元就パパみたいな異常な恐怖心もないし、とも思ってしまいます。
隆景はいたってふつうの精神の持ち主で、戦場の人としても内政官としても一流ですが、領地を切り取ってどうこうするとか、自立を志すといった戦国人の常識は非常識というか「危なすぎる!」思ってしまうような一面があったようです。
元就パパの尼子と大内を言う超大勢力を相手に危険な綱渡りというやり方を見てきただけに確かなプランニングという名の陰に隠れた一か八かのギャンブル性を見てとっていたのかもしれません。
元就パパのあらゆる恐怖を克服するためあらゆる悪と謀略の限りを尽くして対策を立てることを絶対に遂行するという精神性は隆景には理解できなかったでしょう。
たとえてみれば、嫁を人質に取られたるかもしれないから先に相手の家族血縁を全部人質にとるような精神性です。
悪にはもっと凶悪な悪で!
こういうことがあると困るから対策として――という範疇を超えすぎています。
隆景と違って、大お兄ちゃんの隆元が自分を卑下しがちだったのは毛利家当主後継として元就パパから口移しにこの精神と家訓を教えられたせいかもしれません。
遺言書でも「家臣はガチで裏切ると思わないと足元をすくわれる」と言ってしまう元就パパですからその原本はもっとすごい内容だったでしょう。
もちろん当主でない両川も裏切るかもしれない「きっと反乱すると思って対処する対象」なので大お兄ちゃん隆元の背負わされた家訓はまさに命の縮む思いのする口伝だったに違いありません。
隆景が大お兄ちゃん隆元が若くして亡くなったときに「もう、毛利家はお終いだ!」とさめざめと泣いたのは「元就パパの口伝に耐えられると思っていた大お兄ちゃん隆元さえも、心を病んで命を縮めた! 遺言書だけでも門外不出レベルだったから、大お兄ちゃん隆元が耐えられなくて当然だ!」などという背景があったのかもしれません。
ちょっとは元就パパが謀殺したかもとかも思ったりしたかも・・・
そしてそう思った瞬間に隆景がそっと周りを見回したことは想像に難くありません。

その後、天下人秀吉に「西の政治は小早川殿に、東の政治は直江殿に」と言われるようになったのは毛利元就パパの「恐怖心は人を育てる」という教育方針のたまものかもしれません。

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