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エッセイ~幸福論~

幸せとは?という問いを過去にも書きました。
これは永遠の難問かもしれませんね。
けれどやりようはある、近づくことはできる、
という手探り的な実感はあります。
確実に言えそうなことをまとめると、
①幸せとは主観であるということ。
②自分から生まれる感情であること。
③それは性格や過去の人格形成など、人によって価値観が違うということ。
今回はこのような前提で話を進めていきたいと思います。

例えば同じ「散歩」をするという事柄で
Aさんは「自然の景色が見られて幸せ」
「歩く=体を動かすことは気持ちいい=幸せ」
「他の散歩をしている人に挨拶をするのが気持ちよくて幸せ」
これらの理由でAさんは散歩をするのが幸せとなります。

一方Bさんはというと
「普段運動もしていないので歩く行為が既に疲れて嫌になる」
「人と関わるのが苦手なので他の人と出くわしたくない」
同じ事柄でもBさんが受け取る感情はAさんとは異なります。

補足しておくと人間はその時の気分や体調によっても
感受性が変化するため、Aさんは必ずしも上記の感情を得るわけではありませんし、Bさんも気分がいい時にはプラスの感情が生まれているかもしれません。
しかしこれらのことはある程度の継続性を前提とする側面がありますので、平均するとある程度上記の例に収まっていくとも言えます。

ではAさん、Bさんの違いはどこから生まれてくるのか推理してみましょう。
まずはAさんですが、
「歩く=体を動かすことは気持ちいい=幸せ」
このことからAさんは子供の頃から外で遊んだり、体を動かすことに慣れている可能性がありそうです。言い変えると幼少期より無意識に「得意」としていた=過去との因果関係があるということ。
そうなると最初の③にも関係してきそうです。
Aさんが「散歩」=「幸せ」に出会えるかどうか、それは③の事柄を自覚して、自らで発見しているかどうかが重要になってくると思います。その発見のポイントとして過去の自分への自己分析が役立つと結論付けられそうです
(哲学的には精神分析の分野に該当しそうですね。無意識に辿り着くケースもあるとは思いますが、人が高い確率で無意識的に幸せに辿り着けるならこんなに悩み多き世界ではないような気がします)。

次に①に重きを置いて書いてみましょう。
「幸せとは主観である」
Bさんにとって幸せではないことも
Aさんにとっては幸せだということがあり得るのです。
ざっくりと「他人の言う事は当てにならない」とも言えます。

世の中にはどんな事柄にも「メジャー」「マイナー」が存在します
(現代社会は多様化、細分化しているとは思いますが)。
難しいのは自分は本来「マイナー」のほうが向いているのに、
大衆的に「メジャー」のほうが「幸せ」であるという価値観に
流されてしまうパターン。

例えば昔から「家庭を持つ」「子供を持つ」「家を買う」など
幸せだとするメジャーな価値観が存在したと思います。
でもそれは自分に当てはまるのか?
そうとは限りません、「幸せ」とは主観であり、大衆が作った価値観は「自分だけ」のために用意されたものではないからです。
そしてその「メジャー」の持つ権威性に流されるかどうかというのが問題を難しくしている要因の一つではないでしょうか。
ですので大切なのは「本当にそうか?」と疑うこと、
過去を振り返り自分を分析、知ることが第一歩なのかと思います。

世の中には人の数だけ幸せがあり、
どれが自分にとって本物か鑑定は難しいです。
特に昨今はSMSで色んな声が溢れているので尚更です。
ですので私は色んなインプットもしながら
思考整理も兼ねて、こうしてNoteでアウトプットしてます。
迷いは尽きませんが、1つ1つ継続的して指針を作っていけたら、
それがいつか自分にとっての「幸福論」になっていく気がします。


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