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エッセイ~表現することへの解釈~

私はギター弾き語りで学生の頃から曲を作っているので
どちらかというと「歌のための詩」を書いています。
最近では詩だけをTwitterに投稿することもあり、
周りの詩人さん達の作品を見ては
その表現に圧倒されています。
また「普段使わないような言葉」をどうやって
自分の引き出しに保存したり出したりを
うまくコントロールできるのだろうと
感心させられっぱなしです。

私は詩を書くことを毎日はしていません。
それは修練的、習慣的に持っていくことはできるのでしょうが、
今のところは書きたい気持ちになれば書くというスタンス。
そして自分の中で「詩を書く」という運動に至るまで
いくつかパターンがあるように思います。

一つは自然と「センチメンタルモード」になること。
散歩したり、風景を眺めていると
ふと感情が湧き出てくるような感覚になります。
「寂しさ」なのか「嬉しさ」なのか
どれも複雑に混ざり合ったような感覚。
昔はその湧き出る感情に溺れそうになることもあり、
表現も少し尖った見方になっていたように思います。
最近は穏やかな波が来たなという感じで
落ち着いて向き合えているような気がします。

2つ目は「他者の作品から感化される」こと。
これはどちらかというと体に電気が走るような感覚です。
ニュートラルな状態から急に呼び覚まされてしまう。
これは詩だけでなく文章もそうですね。
本を読んで感化されると文体や語り方に影響が出ます。
あと昔は曲作りをしていて「これは〇〇っぽい」
ということに過敏になって避けたりしていました。
けれど最近はそこまで気にならないですね。
というよりも色々なものを取り入れているうちに
「○○っぽい」の○○に複数性、細分性が出てきて
結果極端に何かに似る事が減ってきているとも言えます。

3つ目は「体験による事象表現」。
若い頃はこれが多かったですね。
例えば恋愛もそうですし、
仕事や人間関係のもやもやしたことだったり。
「体験」がフレッシュなうちはどんどん出てくるし、
コントロールが難しくてクオリティの振り幅が大きい印象。
冷静になってみると微妙だったりすることが多いです。
けれど「鮮烈な体験」は何年経っても
引き出しに閉まっておけるため、
今でもその時のことを思い出して
「その時の事象、感情」と「今の感情、見解」を
ミックスさせて作品なることもあります。

概ねこんな所ですかね。
書いていて他の人がどういうスタンスなのかも気になってきました。
ちなみにこの文章は朝の散歩中での思考が原点です。
とりあえず今は浮かんだ思考を逃がさないようにだけしようと思います。

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