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エッセイ~海、「深さ」「浅さ」の両義性~

残暑になりましたがまだまだ暑い日が続きそうです。
最近海にも言ってないなぁ。

海。
パラソルの下、かき氷なんか食べつつ眺めてる人。
浅瀬で波を楽しむ親子。
足が届くかどうかの深さまで泳ぐ人。
それぞれ色々な楽しみ方があるなぁと、
テレビを眺めながらぼんやり。

最近思考する際、睡眠中の「夢」みたいに、場面の面影だけ残して全然違うことをパッと結びつけている感覚があります。今回「海」はあくまでその原風景で、海についてを書きたいわけではありません。泡のように浮き上がってくるのは、生活の中での「疑問」「法則」「仮説」などです。

さて、本題を進めていきますね。
基本的に人は群生動物です。
私も今バトミントンのサークルに所属しています。
活動としては集まったメンバーでダブルスの試合を回していくというもの。
プレイに一喜一憂し、エンジョイしています。
これを集団で「浅瀬でちゃぷちゃぷしている」とします。
これはあくまでサークルとしての方向性がそうなわけで、
中の個々人を見ると様々だというのが分かります。
①元々大会などに参加していた人、
②教える側の人、
③初心者~エンジョイ勢。
①~③を内包しつつも③の人達向けの団体ということです。

ここで注目したいのは①、②の人。
自分で深く潜ることもできるし、浅瀬でみんなでちゃぷちゃぷもできる。
生き方としての汎用性が高いということ。
人はスキルや勉強が進めば頭でっかちになってしまう。
高いワインの味を知ってしまえばワンコインのワインが飲めなくなってしまう。
もちろん深いところだけ求めて固定してしまうのも一つのやり方ですし、①、②の人もそんな時期があったのかもしれません。

では私個人として「深さ」「浅さ」両方持ち得ることの意義について考えてみたいと思います。
まず「深さ」を生み出すものは何か。
自分一人で生み出せるのは困難です。そこには競合者との「切磋琢磨」があります。ただそこに長期身を置くということは自分をすり減らすことでもあります。「上には上がいる」がずっと続いていく状態。
そこで人はある程度スキルを身に着けたら「自分の居場所」を探すようにななるとします。上だけでなく目線が全方位に変わるのです。
浅瀬に行ってみると自分の身に着けたスキルをまた知らない人達がいるでしょう。目的が「伝達」になり、そこには身を削る過酷さは存在しません。
ただ一度「切磋琢磨」した緊迫感を味わうと今度は「退屈」を感じてしまうかもしれません。
ですので「深さ」「浅さ」を行ったり来たりすることが自分の中で最適化かれるのです。

さて、今日も暑さ籠る体育館でバドミントン。
私は初心者として色んな「伝達」をもらってきます。

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