4, 2019年9月 NHK「サラメシ」放映

NHK「サラメシ」に連絡を入れたから1週間がすぎたころ、
制作会社であるテレビマンユニオンさんから連絡が入った。
そして東京からやってきた若くて仕事を楽しんでいる感じのディレクターさんは、どんどんと撮影をすすめていった。
私は正直に話をした。
「ポルトガルのことをまったく知らないスタッフたちのために、毎日せっせといわゆるポルトガルの家庭料理を作っているんやけれども、なんの感想もないねん。私はポルトガル菓子を日本中の人に知ってもらうためにリスボンから京都へ引っ越してきた。それはお菓子を通じてポルトガルの温かさやホスピタリティーを感じてもらって、少しでも影響をうけてもらいたいから。
だから、働いているスタッフにも少しでもポルトガルのことを理解してもらいたいから。」
このディレクターさんやったら
きっと彼らの素直な答えを引き出してくれるだろう、と感じた。
結果、放映後にはかれらも口にはださないが「賄いを作ってくれてありがとう!」という気持ちはある、ということだった、、、、。
しかし、放映後もかれらからの直接の言葉はなかったし、テレビカメラがまわっているときはきちんと答えられたのに、現実の世界へ戻ると自分の気持ちを表現できず心を閉ざすいつもと変わらぬ態度でありました。
本当は感謝してくれているんだ。でもやっぱり「言葉」にしないと伝わらないよ。気持ちを言葉にすることって大切なんだよ。
そして放映後に私を知人が
「智子さん、あんな人らを雇ってたらアカンわ。」
と言われた。
(雇った私が悪いんです、、、。私の自己責任です、、、。むふぅーーー。)
と自分に吐き捨てるように言いきかせた。
正直な感想を言われると傷つく。
でも私もわかっている。
私は自分と同じようにスタッフもポルトガル菓子やポルトガルを好んでくれる、と考えていたのが大きな間違いだった。
そして変な使命みたいに
この人たちを成長させてあげたい、とか人間力を高めさせてあげたい、とか
偉そうに思っていた。
他人を変わらせようなんて無理なことをやろうとして
もう疲れに疲れてしまっていた。
でも「店のスタッフを育てられないのは会社が悪い。社長の怠慢だ。」
と他のスタッフからの声も聞こえてきた。
「会社が悪い。」=「智子が悪い。」だ。
そんな言葉をぶち飛ばしたかった。なんとか解決したかった。
だから朝礼の時に「幸せフレーズをいいましょう」。とか
「元気にあいさつをする練習をしましょう。」とか
≪笑顔ができるように口角を上げましょう。」
とかビジネス書に書いてある事、
若手育成のビジネス講習会で教えて頂いた事
いろいろと試していった。
そんなことを試せば試すほど
その度にパウロとも衝突した。
彼らのことが原因でどれだけパウロと喧嘩をしたことか、、、。
そんな中、毎日ポルトガル料理を作ることが私のストレス解消というか心穏やかになれる時間でもあった。
アンガ-マネージメントの講習も、パウロと私、別々に受けた。
どんどん私の心はすり減っていった。
私はいったい何のために日本へ来たんだ?
日本中の人にポルトガル菓子を知ってもらうためだろう。
そして心温かになってもらうんだろう。
店には「サラメシ」の影響もありたくさんのお客様がご来店くださった。
店が忙しくなればなるほど
私がダメになっていった。
楽しくない笑顔もでない職場で働くこと ってどうなん?
私はポルトガルでたくさんの人からポルトガル菓子、ポルトガル料理の作り方を教えて頂いた。おうちに泊めて頂いたこともあるし、ご飯をごちそうになったことも数えられないほどだ。
目の前にいる他者に対して手助けをする、手を差し伸べる、ご飯の時間に訪問者がきたら「いっしょにご飯どう?」とすすめるのがポルトガルスタイル。
だから今まで出会ったポルトガルの人達に直に恩返しはできないけれど、
私は目の前にいる人たちが私を必要とするならば
自分のできるかぎりのことはしよう、と決めている。
多少の無理もする。
それを「恩送り」と言うらしい。

日本での開業当初、ポルトガル菓子職人を育て上げよう と考えていた。
私はパウロと一緒にいるから
私にとっての職人としての基準はパウロ。
しかしフランス菓子じゃなくてポルトガル菓子職人になりたい人なんてまだ日本にはいない。だってポルトガル菓子の存在が知られていないから。
あの頃の私はあせりすぎていた。
うちの店で働いてもらって、技術を磨いてもらい、独立を手助けする、なんて計画が頭の隅にあった。
その計画は無理だと5年かけてわかった。

これは会社経営を側の気持ちであるが
なんで日本で誰も知らないポルトガル菓子作りのノウハウを教えて
失敗をしても、責任は会社。
お給料もボーナスもださなあかんのんやろ。
パウロは言うのだ。
「めちゃくちゃヤル気のある人間に教えるんやったら、こっちも喜んでおしえるで。なんでこっちから学んでください、お金も払います、っておかしない?」
おっしゃるとおりだと思う。
おかしい、よね。

私が大学卒業と同時に
ポルトガル菓子と料理を学ぶために
ポルトガルへ渡ったのとは、同じじゃない。
時代も気持ちも違う。
持っていたノートを破いて中学生英語で
「ポルトガル菓子と料理を学びたく、日本からきました。
無給で結構ですので働かせてください。プリーズ。」
と書いたその紙をもって働かせてもらえる店をさがした。
もう40年近く前の話。

そのときもね、日本語でポルトガル菓子や料理学べたらええのになぁ、って思ってた。
それは1987年7月にパウロと結婚してから、自宅の一室を旅行者に貸しだした。
「ポルトガルでホームステイしながらポルトガル料理と菓子を一緒に作りませんか?」
がガイドブックに載せた宣伝文句だった。


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